2020年12月発行

「出会いが命」
牧師 横山順一
 
 今秋の日本基督教団教師検定試験は、コロナ禍の影響で、全科目がレポート試験となった。面接もオンラインだった。
 そのうち、正教師(牧師)の教会史の問題は、
『聖餐理解について、宗教改革期を中心に、古代・中世・及び今日に至る連続性と変遷について、論述してください』
というものだった。指定字数は三千字程度だ。
 牧師となって三十年。教団新報で毎回の試験問題を見るたびに、とても書けない、自分には無理、などとつぶやいて来た。かつてよくぞ受験し、合格できたものだ。
 レポート提出となった今年に限って言えば、時間はあるし、参考文献を漁ることもできるのだから、何とか字数を埋めることはできるだろう。
 ただし、この問題は過去を調べて変遷の歴史をまとめたら良い、では済まない。
 「今日に至る連続性」が加えられているからだ。それは、「変わらない一つの答え」を即座に連想させる。
 つまり、「聖餐式は洗礼を受けた者に限る」という限定である。合格するためには、きっとその「限定」への流れを書かねばならぬに違いない。
 やっかいというとか、非常にいやらしい問題に思えてならなかった。仮に「聖餐式はどなたでも与かれる」と考える人ならどう書くか?
 この問題に限らず、教会の歴史はいつも課題を負って来たし、何かしらの決定がいつも正しかった訳ではない。正解は一つじゃない。
 今日に至る連続性よりも、「未来へ向けた指向」こそが、本来問われるべきではなかろうか。
 だいたい、プロテスタントの本筋は「万人祭司」である。本当は誰でも牧師になれる。というより、牧師であるための特別な条件は何もないのだ。このことは、牧師ならそれこそみんな自認するはず。
 もちろん、人それぞれに「賜物」があって、音楽に長けた人もおれば、漫画を描くのが上手い人もいる。そんな賜物を用いて仕事している牧師を知っている。
 けれど、取り立てて格別の才能が無くても全然かまわないのだ。自分の中に何もなくて良い。聖書を通して知らされる神の思いを伝えることさえできるなら。
 この一点のために、牧師の環境は基本「自由」である。誰かにへつらったり、この世に忖度せねばならない枷(かせ)はない。
 だから日々の生活における時間の制約もない。これが途方もなく有難い。
 その有り余る「自由」の中で、何を求めるべきかがコロナ禍によって、改めて明らかにされた。
 「出会い」である。
 外出・往来の自粛の影響はまことに大きかった。新たに教会に来る人はほとんどゼロになった。かと言ってこちらから出て行く訳にもいかない。
 出会いの大切さは、何も牧師や教会の専売特許ではなく、どんな人にも大切だろう。が、私たちには「生命線」だと実感する。
 何だか何もできないうちに一年が暮れようとしている。ただただ終息の日を祈る。願わくは、来年のうちにと。