《 本日のメッセージメモ 》
わずかな間に、店舗のレジが自動化され、パソコンもどんどん進化する。技術革新のお陰だ。
テキストは「占星術の学者の来訪」。イエス誕生のすぐ後ではなく、場所も「家」だった。
彼らは新しいユダヤの王を捜してやって来たが、内実はどうだったか。あくまで彼らの占星術や天文学への関心が第一だったのでは。それが言動にも見てとれる。大喜びしたのも、原因は「星」にあったろう。
だが、イエスとの出会いで変えられた。救い主との出会いに特別な能力は必要ではなかった。それ故、彼らにとって必需品だったものを献げ得た。
技術革新の裏には、関わる人たちのたゆまぬ努力がある。それは凄い。しかし主との出会いは、ただ神の愛による。だから、イエスは誰にも見える希望の星、ウルトラの星。(ウルトラとはラテン語で向こう側に、の意味。神の側の星に導かれ、新たな年を望みたい。

《 メッセージ全文 》
 毎週金曜日にユニクロの新聞広告が入ります。先週、「下着2枚で790円、12月24日まで」とあったので、買いに行きました。ちなみに4枚買いました。一年最後の礼拝なのに、どうでも良い話題で済みません。
 何が言いたいかと言うと、レジの自動化の話です。下着4枚持って、誰も人のいないレジで、自分でそれを機械の箱に入れるのです。そしたら瞬時に脇の画面に値段が表示されるのです。後はカードをかざすだけ。ただし、私は慣れていなくて、ただ「それだけ」のことに妙にドキドキしてしまいました。古い人間です。
 でも、はっきり言って、超便利でした。味気はないですが間違いなく、これが今後の買い物のスタンダードスタイルになるのは間違いないです。何ということでしょう。
まだ文字が読めない幼児の孫から、メールが来たことを感動した方の投稿を読みました。文字はまだ読めない、書けない、けどメールの送り方を3歳児が知っている訳です。うちの5歳になる孫も、テレビのリモコンをバンバン使って見たい番組を見ています。
 40年ほど前の大学時代、工学部の友人から、コンピューターを動かすためには「ベーシックフォートラン」を学ばねばならないということを聞きました。そんな単語を初めて聞きました。単語どころか、内容を聞いても、ちっとも理解できませんでした。その頃の卒業論文は、まだ手書きが主流でしたので、コンピューターのことは一部の賢い人たちの世界、或いは今で言うなら理系「オタク」の世界のことだと思っていました。自分にはきっと一生縁はない、と。
 ベーシックとは、英語の「基本」「根本」のことだと勝手に理解していたのです。違いました。「ビギナーズ オールパーパス シンボリック インストラクション コード」の5つの単語の頭文字をとって、ベーシックでした。直訳すれば「初心者用多目的記号命令コード」の略だと知ったのは、それからはるか何十年も後のことでした。どこが初心者かと今でも思います。
 しかし今や、ベーシックを知らなくても、相当数の方が普通にパソコンをいじっています。初心者で良いのです。こ難しいことを何も分かっていない典型的「文系」人間でも、パソコンは必需品です。技術革新のお陰で、誰でも扱えるようになりました。

 さて、今日与えられたテキストは、いわゆる「東方の博士たちの来訪」の出来事でした。クリスマスの後に読まれる箇所の定番です。この出来事から、異邦人に初めて救い主が姿を現された日=「公現日」が定められました。

 クリスマスのページェント(降誕劇)では、時間の都合上、ストーリーを簡潔にして、東の博士たちも羊飼いたちと一緒に馬小屋を訪ねたという設定になっています。でも、実際はだいぶ経ってからの出来事です。公現日とされる1月6日よりもだいぶ遅かったのが事実でしょう。

 降誕劇の夢を壊すようで悪いですが、場所も馬小屋ではありませんでした。今日のテキスト11節を見ると「家に入ってみると」と明らかに書かれていて、そこは馬小屋ではなく、通常の家で、だから時間が相応に経っていたことが推測されます。

 この博士たち、「占星術の学者」と書かれています。2節に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにいますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」とエルサレムにやって来た理由が語られています。また実際、家に入ってイエスと会い、「彼らはひれ伏して幼子を拝み」(11節)と続きます。

 ですから、ユダヤ人ではない、異邦人である彼らであっても、ユダヤ人の王として生まれた人への関心は強く持っていたのでしょう。けれども、エルサレムでの彼らのふるまいの記述を読む限り、彼らの関心がすべて新しい王にあったかどうかは疑問に思えるのです。

 占星術の学者は、原語では「マギ」と書かれています。これが英語マジックの語源となった言葉です。元来は、ペルシャのゾロアスター教の祭司で、占星術だけでなく、天文学、薬学に長け、更には魔術や夢解釈を行って神の意図を伝える人たちでした。その意味では「学者」と呼ばれるにふさわしい中身があったと思います。

 それが時を経て、全員とは言いませんが、漠然と星占いや運勢の判断をして生活する人に変容して行きました。聖書に登場する学者たちがどうであったかも定かではありません。ただ要は、かつてのような地位が失われていたものと思われます。

 そういう状況の中だからこそ、本国ではなくユダヤの星に関心を抱いたのではないか、と想像するのです。また彼らからすれば真面目に天文学を学び、そこから得られた知識の真偽のほどをどうしても確かめたかったのではないか、そうも想像するのです。

 表現が適当じゃないかもしれませんが、敢えて言うなら、世間から「顧みられないオタクたち」のような存在だったかもしれません。彼らの念頭にあるのは占星術、天文学への強い思いでした。その他のことへの配慮はなかった、と言うより余分な配慮ができる人たちではなかったのです。

 それ故に平気で「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は」などと発言したのでしょう。悪気もないし、計算もないのです。ただし聞いた方は度肝を抜かれました。3節には、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」とあります。別の聖書では「ヘロデ王は動揺し、全エルサレムも彼と共に動揺した」と訳されています。狡猾で残忍だったヘロデ王は自分の地位を脅かす者の登場を恐れたのであり、彼を良く知る国民は王からのとばっちりを恐れたのでした。

 こういう王やユダヤの民の思いに全く関わらず、学者たちはとうとう当初の目的を達成します。「東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」と9節にあり、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と10節に続きます。「喜びにあふれた」とありますが、訳のインパクトが弱いです。「はなはだしく喜んだ」「この上もなく大喜びした」のです。

 この10節を読んで、私は今月6日に無事小惑星リュウグウのサンプルを持ち帰ったハヤブサ2のニュースを思い浮かべてしまいました。ジャクサの人たちは「言葉を失う」と言っていました。それくらい嬉しかった訳です。涙が出るくらい大喜びでした。

 学者たちもそうだったのです。自分たちの信じた星が正しかったからです。彼らの占星術通りに事が実現しました。だから「星を見て大喜び」しました。本当のところ、彼らのミッションはここで終わって良かったのかもしれません。と言うより終わったのです。

 しかし、予想を超える出会いが待っていました。言うまでもなく、幼子イエスとの出会いです。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたと記されています。まるで初めから幼子に献げるために、これらのものを携え備えていたかのようです。

 そうだったかもしれません。ただ一説によれば、これらは学者たちにとって商売道具であり、必需品だったそうです。これらを使って占いやまじないをしていて、肌身離さず持ち歩いていた大切なものでした。

 帰り道は夢でお告げがあって、別の道を通って国に帰ったとあります。それはヘロデ王から逃れるためでしたが、彼らがそれまでの生き方、すなわち占星術に頼って生きて来た生き方から、神さまに聞いて生きる生き方に変えられたことのしるしとも言われます。

 それはイエスとの出会いから既に起こされたのです。占星術に命を懸けて来た彼らにとって、その学びはしんどくても誇りであったでしょう。でも、幼子イエスを拝むとは、そういう知識や学びや修行によるのではなく、ただ心を合わせることでした。

 それを知らされたからこそ、彼らの必需品だった乳香や没薬を喜んで献げ得たのです。もはや生活のために持ち歩いて来たそれらは、必需品ではありませんでした。今までとは違う生き方が、そこでいきなり始まりました。イエスとの出会いは、占星術や天文学という特殊な知識によらない出来事、特別な人にだけ特別なこととして与えられるものではないと知らされたのです。それだから夢のお告げに素直に従う者とされました。

 コンピューターなど技術革新は凄いと思います。これから先もきっと続くでしょう。そこには関わる人たちのたゆまぬ努力が隠されています。それとは別に、神さまが贈って下さったみ子イエスとの出会いは、ただ愛による出来事で、私たちの側の努力を必要としません。イエスは、学問をかじらずとも、誰にも見える希望の星、ウルトラの星だといえます。ウルトラとは、ラテン語で「はるかかなたに」とか「向こう側に」という意味です。誰にも見える向こう側の、神の側の星。これにこそ導かれて、新たな年を望みたいと思うのです。

天の神さま、2020年の守りに感謝します。来る年もあなたに導かれ、あなたの支えをより頼んで歩む者として下さい。