「時は羽なり」No.73
牧師 横山順一
 
 子どもの頃、両親が働いていると、「共働き」とわざわざ表現される時代だった。
学校へ行くのに、忘れてはならないのは自宅の鍵で(と言っても、いつ頃からか郵便受けの中へと移っていたが)、「かぎっ子」という言葉も使われていた。
かぎっ子への周囲の同情はあった。が、実は寂しくなかった。教員だった両親に、あれこれ言われないだけでも自由だったから。可愛くない子どもでもあった。
長じて高校生になり、時にズル休みを覚えてからは、誰もいない自宅で、漫画を読んだり、昼寝したり、好きなだけぐーたらできる自分の時間は「密の味」となった。
通学電車の中でも、英単語帳をめくったり、本を読んでいる生徒を見るにつけ、あんな風に時間を意味あるものとできていたら、と少し後悔の念が積もる。
しかし、「密の味」は麻薬的だ。大学に入って、それこそたっぷりの時間を、どれほどぐーたらに費やしたことか。その頃は、時間を「浪費」などとは、これっぽっちも思わなかった。暇なら、有り余っていた。飛んでゆく羽の意識がなかったのだ。。
 そんな人間だったのに、牧師になってから激変した。人は「時間のある仕事なの」にと、いぶかしがることだろう。
 間違ってはいない。朝、少々遅くまで寝ていようが、ほとんど問題はない。
 だが、いつの頃からか、四時起が習慣となった。昼寝はしても、早起きである。
 ぐーたらできないのだ。案外に一週間は早く過ぎる。懸命に説教ネタを探して平日を過ごす。ぐーたらしている場合じゃない。
 変われば変わるものだと、神さまが一番驚いているかもしれない。中身は変わっちゃいないのに、蜜の味は忘れてないのに、もう戻れなくなってしまった。
 そしていつの間にやら、還暦を過ぎた。多くの人は退職を迎える時期だが、定年のない牧師ゆえに、今しばらくは働くことになる。
 二〇二〇年を振り返って、ほんま「コロナのせい」で、大事な時間を浪費してしまって、腹立たしくてならない。
 自分で浪費したなら、ちょっとの後悔で済ますのに、得体の知れぬものに奪われたとなると、何ともいら立つ自分勝手。
 悪いことばかりじゃなかった、と言う人もいる。新しい生活様式は、むしろ良かった、と。
 それは私もそうだ。教区の委員会や同信会の集まりが無くなってラッキーだった。「コロナ」の紋所のお陰で、堂々と休めた集会も少なからずあった。
 それだけは、もう少し続いてもいいかなって、不謹慎にも思っている。
ただ、医療従事者を筆頭に、命かけて戦っている人たちに申し訳ないことこの上ない。
自分(人間)の力では、どうしようもない事態に、歯噛みする。
先月号で「出会いが命」と書いた。
 自分都合で残りの時間を計って焦るのは、神さまに対して失礼ではある。
だが、時間を無駄使いしたくない。もう若くはない自分は、隣人との時(羽)を大切にしたい2020年だ。