《 本日のメッセージメモ》

初夢を見るのがいつかは、時代で変わる。今はいつであれ、新年になって初めて見た夢だ。

それと違い、ヨセフの見た夢は神さまから命令を意味する。ヘロデ王の怒りに触れた、2歳以下の男の子の虐殺を避け、ヨセフは夜中にエジプトへ出立した。

帰還もまた夢のお告げによった。ヘロデを継いだアルケラオを避け、ガリラヤ・ナザレへ「引きこもった」一家だった。

神に従い続けたヨセフだったが、そこに不安や悩みがなかったはずはない。しかしそれは何ら言及されず、マタイはすべて預言が成就するためだったと書いた。

個人の思惑を超えて、神の思いが実現する。実際、ヨセフの行動によって幼子イエスの命は守られたのだ。

しんどさは常にあったろう。けれども、ヨセフもそれがあって守られたと言える。本人が望んだものと違う光景を見ることになったが、それは次への始まりとなった。

私たちも同じだ。昨年の新年に思い描いたものとまるで違う2020年の光景だった。今年もそれは変わらない。でもイエスが共にいる限り、まだ見たことのない(神の愛の込められた)光景が備えられると信じる。共に見つめたい。

《 メッセージ全文》

初夢で富士山とか鷹を見た人は多分いないでしょう。ましてや、なすびを見た人もいないでしょう。今まで聞いたことがありません。一方で夢を見なかったという人はいると思います。初夢って、もともとは立春に見るものだったそうです。それが元旦に移る訳ですが、大晦日は夜通し起きて宴会があり、二日は商い初めや書初めなどの行事があって、それらが終わって一息ついて、江戸時代後期には二日の夜に見るものが一般的になったと言います。つまり昨日です。皆さん、良い初夢を見ましたか?

 七福神の乗った宝船の絵を枕の下に敷いて寝ると良い夢が見られるそうですが、それでも良くない夢を見た場合は、翌日その絵を流して縁起直しをすれば良いそうです。かなりいい加減です。ネットで調べると、最近の初夢は、何日であろうと、新年になって初めて見た夢を指すということで、これも都合の良い話ではあります。

 さて、新年初めの主日である今日与えられたテキストには、三つの夢が描かれていました。いずれもヨセフの見た夢です。人間に都合の良い、のんきな初夢の話ではありません。神さまからの指令が描かれる夢です。

 ヨセフはその夢を既に一度見ました。マリアと結婚する時です。彼には身に覚えのない妊娠に至ったマリアを、「正しい」と言われたヨセフは、当初「密かに縁を切って、去らせる」という彼にとっては限度の決断をしたのです。

 ところが夢で天使のお告げがあり、その通りにしてマリアを受け入れ、生まれた子にイエスと名付けたのでした。この時から、彼は単に律法に従う正しさではなく、神に聴いて歩む正しさを受け入れる人とされました。

 占星術の学者たちがヘロデ王との約束を破って帰国したので、ヘロデ王の怒りを買うことになりました。王の目的は、新しいユダヤの王、すなわちイエスの命の抹殺であった訳ですが、本人が特定できないままとなってしまった結果、ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子たちが巻き添えを食って殺されることになったのです。

 マタイが記したこの大虐殺の真偽のほどは、実は定かではありません。ただヘロデ王は、40年近くイスラエルに君臨した人で、ローマには徹底的にすり寄る一方で、自分の地位を脅かす者は、息子であろうと、自ら任命した祭司であろうと、平気で命を奪って来ました。10人の妻との間にできた何人かの息子を自ら殺しています。聖書人名辞典にはこうあります。「ヘロデは年老いるに従って凶暴さ、変質性を増していったが、68歳で死ぬ頃にはどう見ても狂人であった。」

 この事態を予測していた神から「エジプトに逃げるよう」二度目の夢のお告げが与えられました。14節には、「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り」とあります。危険極まりないヘロデ王については、ヨセフもよくよく噂を聞き知っていたことでしょう。お告げは緊急を告げるものでした。ですから夜中であっても直ちに従った訳です。

 こうして親子はエジプトへ逃れますが、幸いほどなくしてヘロデ王は亡くなるのです。紀元前4年のことです。すると再び夢のお告げが与えられ、命の危険は去ったとして、イスラエルに戻ることになります。

 ところが、父親の後を継いだ息子の一人アルケラオが、父にも増して狂暴な人物だったので、三度めの夢のお告げによって、王を避け、ガリラヤ地方のナザレという町に行って住んだと記されています。「住んだ」とありますが、ルカによる福音書の記述では、もともとそこに住んでいて、住民登録のためにベツレヘムへ行ってイエスが生まれたのです。合わせて読むなら、ナザレに帰って来たということになるのでしょう。

 こうしてエジプトへの逃避行、そしてガリラヤ・ナザレへの到着まで、すべてが神さまによって守られました。具体的・直接的には、そのお告げを徹底的に聞き従ったヨセフによって、幼子イエスの命は守られたと言えます。

 ですから、この間のヨセフの行動は、賞賛に値するものでしょう。不思議なことに、マタイは、この後のヨセフのことを何一つ記述していません。ルカによる福音書においても、12歳の時の神殿詣でのことだけで、まるでエジプトへの逃避行とナザレへの帰還をもって、ヨセフの使命が終わったかのような印象を受けます。

 確かに、果たした務めは十分だったと思います。ただ、一人間としてヨセフの心情を想像すると、ちょっとしんどいものを感じるのです。皆さんは、これら一連の行動の間、ヨセフは幸せだったと思われますか?

 少なくとも、しんどかったと思うのです。もともと思いがけない事態を抱えてマリアと夫婦となりました。それだけでも重荷はあったことでしょう。それでも新婚さんです。生まれたイエスと3人、穏やかに暮らせていたら、一応の平安は与えられたに違いありませんでした。

 ところが、ヘロデ王の怒りを回避すべく、突然の、エジプト目指して神さまからの脱出命令が下される訳です。エジプトでなくても良かったかもしれません。でも神さまからすれば、エジプトしかなかったのです。かつてユダヤの民がエジプトを脱出して、ユダヤの約束の地にたどり着いた、その逆のコースを示したのは深い思いがあったのです。

 ただしそれは神さまの計画であって、現実にそこへ行くヨセフたちには苦労以外の何ものでもありません。荷物はサカイ引っ越しセンターに頼んで、新幹線で引っ越し先へ行くのではないのです。夜中に、取るものも取らず大急ぎで脱出するのです。しかも、行ったことのない外国。お金もなければ、言葉も分かりません。簡単にお告げに従ったと評価されるけれど、現実問題として大変な決断であり、実行でした。

 更には、少しなりとも慣れたかもしれないエジプトから、またしても「帰れ」との指令です。もちろん嬉しかったでしょうけど、その当時の旅は命がけでもありました。しかも父親に勝るとも劣らぬアルケラオが王でした。またまた持ち金を使い果たして戻って来たのです。それも麗しい都ではありません。

当時ガリラヤ地方自体が辺境の田舎でした。その中のナザレです。「ナザレから何の良いものが出るだろうか」と人々から侮蔑されていたほどの、名もない貧しい小さな町に過ぎませんでした。22節には「ガリラヤ地方に引きこもり」とあります。ガリラヤだけでも差別される場所でした。更にナザレであるのです。本当は心機一転、暮らすのにもっと違う希望の地もあったかもしれません。それらを諦め、捨てて、ガリラヤ・ナザレに引きこもったヨセフでした。思い起こせば、その都度様々な葛藤があり、不安があり、苦悩があったに違いありません。

 それでも、マタイはそれらを打ち消す記述をなすのです。彼が見た夢のお告げは、ことごとく預言者たちがかつて語った神の言葉の成就でした。そこにはヨセフの不安や不満の言葉は一切書かれていません。確実にあったのに、まるでなかったかのように、それを上回って、あったのはその決断、その行為がすべて神さまの計画の実現であったからです。マタイはそれを伝えたかったのです。

 そこほどの深淵なことでなくても、私たちも身近な現実の中で、しんどさがあっても、それが自分の人生を支えたと言いうることがあることを知っています。捨てられるなら、放っても構わないなら、できたらそうしたいと思うほどのことが、大なり小なり誰にも与えられます。そうしても良いのです。けれど、しんどさを抱えてそれを担ったあとで、ああ実はあれがあったから自分は生かされたのだ、と思い当たることがあるのです。

 エジプトへ至る道中で、エジプトにおいての生活で、またナザレへと戻る旅路の中でヨセフが眺めた光景はいかなるものだったでしょうか。言うまでもなく、バラ色の光景ではなかったでしょう。後から思い起こせば、辛かったけどあれも良かったなどと他人が簡単に言えるものではなかったことでしょう。

 それでも、それを通して断固イエスの命は守られました。もしかしたら、この戦いを通してマリアとの絆も深まったのかもしれません。全くヨセフの想定外の景色がそこに広がっておりました。

 私たちもそうです。去年のお正月、2020年に見る風景が、こんなにも荒々しく荒涼たるものになるとは思っても見ませんでした。にも関わらず、すべてが終わったのではなく、次への始まり、その備えでした。

 コロナ禍がいつまで続くのか、収束はいつになるのか何も分かりません。けれど、ヨセフのように、私たちにも「次へのお告げ」は知らされます。救い主イエスが共にいるからです。夢のような次への光景ではないかもしれません。でもイエスが共にいる限り、私たちはいつも、まだ見たことがない、しかもそこに必ず神さまの愛が込められている光景を見る者とされると信じます。それがどんなものであっても、一人ではなく、みんなで一緒に、見つめたいと思う新年です。

天の神さま、2021年の歩みをあなたに委ねます。どんな一年になるにしても、あなたに聞き、あなたの思いを見つめる一人ひとりとして下さい。