《 本日のメッセージメモ》

「あかあかや あかあかあかや あかあかや

あかあかあかや あかあかや月」(明恵上人)

芸能人格付けチェックという番組から、違いを知ることの難しさを思う。

テキストはサムエルが次の王としてダビデを選ぶ場面。士師として多くの働きをなしたサムエルだったが、肝心な時に誤った。彼は長兄エリアブが次期王だと思った。

そもそも誰なのかは「告げる」と神さまから聞いていたのに、僭越にも自分で選んでしまった。しかも見た目によって。

直ちに「心を見る」(7節)神さまからの修正が入って、ダビデを選ぶことができた。

預言者ヨハネは見た目で選ぶ人ではなかったが、イエスの依頼に引いてしまった。が、「我々にふさわしいこと」(マタイ3:15)とのイエスからの修正がすぐなされた。

私たちの判断や選択は心もとなく、困惑する。けれど「当たって、砕けろ!」だ。誤っても、神さまからの修正が与えられる。サムエル記に記されるのは、その修正をうけいれるかどうかの一点に尽きる。

信仰から失敗しない智恵や処世術を学ぶのではない。誤っても大丈夫な方(神さま)の力があることを知らされるのだ。若い人だけでなく、すべての人がそうである。

《 メッセージ全文》

 「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」という句を、皆さんご存じでしょうか?

 私は初めてこれを聞いた時、てっきり小学生がふざけて作ったのだと思いました。そうしたら、これは鎌倉時代初期、華厳宗の高僧である明恵上人の作だというのです。ちょっとのけぞりました。しかし明恵は、極めて真面目に、秋の夜にあかあかと輝く満月を見て、こう歌ったのです。聞いただけでは分からないものです。

 言葉だけでなく、味もそうです。お正月に「芸能人格付けチェック」という番組を今年も見てしまいました。「格付け」というタイトルは好きではないのですが、タレントたちがしたり顔で選んだものが見事にはずれる姿を、ついへらへら笑って見てしまいました。どうして結構いいものを食べ慣れている人たちが、牛肉と豚肉を間違うんだろう?って思います。でも、アイマスクをされて、舌だけで当てるのはかなり難しいのでしょう。笑って見てますが、ホントは私などとても自信がありません。せめても「見えたら」などと思いますけど、多分見ても分からないでしょう。番組では簡単に一流とか三流とか言ってますが、違いを真に見極めるのは本当に難しいことです。

 さて、今日与えられたテキストはサムエル記でした。イスラエル栄光の王と呼ばれるダビデがサムエルに選ばれる箇所の一部でした。簡単に説明をしておきます。サムエル記は、上下二巻に渡る長い書物ですが、サムエル記と題されていてもほとんどはダビデに関する記述です。サムエルの記述は全体の3割ほどに過ぎません。今日の16章以降にはサムエルはもうほとんど登場しないのです。今日の箇所がほぼ最後の出番なのです。

サムエルは、王制が始まる前の時代、イスラエルの最後の士師でした。初代の王であるサウル王の時代にかけて、リーダーとして働いた人です。サムエルが王のしるしとしてサウルにもダビデにも油を注ぎました。大祭司のような役割も果たしました。

彼の父親はエルカナという人でした。エルカナには二人の妻がいて、片方のペニナには何人かの息子、娘が生まれました。が、もう一人のハンナには長く子どもが与えられませんでした。懸命のハンナの祈りに神さまが応えて、ようやく与えられたのが長男サムエルでした。ハンナは神さまに感謝し、サムエルを主に捧げると誓って、祭司エリに預けるのです。だから当初は神殿で働く人でした。ちなみに、ハンナには最終的に息子3人と娘2人が与えられます。

 サムエルは長く勇敢な働きを続けて年老いましたが、サウル王は次第に人間の欲に囚われて、サムエルの言葉を聞かなくなってしまい、関係が決裂するのです。そして神さまからベツレヘムのエッサイの息子たちの中から、次の王となる者を見出したとのお告げが与えられます。

 今日読んだ箇所は、まさにそのエッサイの息子たちから次の王を見極める場面でした。年老いたと言えども、長きに渡って重要な働きをして来たサムエルです。むしろ人を見る目は、他の人々よりもずっとあると言っておかしくないでしょう。

 ところが、聖書はいきなりサムエルの選びが誤ったことを記すのです。エッサイには8人の息子がいましたが、始まりの会食の場には7人が同席しました。末っ子はまだ若いと判断されたのか、羊の番をしていて呼ばれなかったのです。

 サムエルは上の7人のうちの長男であるエリアブが次の王だと思ったのです。6節にはこうあります。「彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。」

 「目を留め」という訳から、サムエルが7人のうち取り分けてエリアブに注目したことが感じられます。恐らく内心は選択に自信があったに違いありません。ところが、その選びに、直ちに神さまから修正がなされたのでした。

 7節、「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。」こうありますので、まさしくサムエルが、容姿や背の高さからエリアブを選んだものと推測されます。

 物凄く正直に言うなら、それの何が悪いのか、間違いなのかと思います。7人並ぶ若者たちを見て、どうしても目を引くのは、容姿であり、背の高さであって無理もないのです。多分誰でもそうでしょう。

 ところが、エリアブと感じたことは単に誤りというよりは、神さまに背く直観でもあったのです。今日読みませんでしたが、16章の1節から5節までの最初の一段落には、「なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたはわたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい」(3節)という神さまの指令が出されていたことが描かれているのです。

 何をすべきか、誰がその人かは、神さまが告げると先に言われていたのに、サムエルは7人を見て、僭越にもエリアブだと、自分で思ってしまった、選んでしまった訳です。しかもそれは神さまの選びとは違いました。大仰に言うなら、サムエルの大失態でした。しかし間違った彼に神さまは7節で言葉を続けます。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と。この訳は「私は心を見る」が良いと思います。人間は外観を見ますが、神さまは心を見るのです。

 私たちは確かに目に映るものを見ますし、それで選んでもしまいます。その選びにも、自信に満ちた場合もあれば、そうでない場合があります。預言者ヨハネのもとに洗礼を受けにやって来たイエスに、ヨハネがどう答えたでしょうか?思い起こしたいと思います。

 質素な暮らしを通していたヨハネは、多くの人のような「見た目で人を選ぶ」人間ではありませんでした。自分のなすべき働き、役割についても重々自覚していた人物でもありました。そのヨハネにして、誤ってしまいました。「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」マタイによる福音書3章14節に記されています。

 彼は見た目でイエスを選んだのではありません。自分には、後から来る人の履物を脱がせる値打ちもない、と言うほどに、自分の立ち位置を知っていました。単純に謙遜したのでもなく、自分を卑下したのでもありません。にも関わらず、神さまから示されるその時なすべき務めを否定してしまう大失態を犯したのでした。

 つくづく人間の弱さを感じますし、限界を思いますし、神さまに従うことの難しさを覚えずにはおれません。どうしたらいいのか、お手上げになります。

 しかし、今日は新成人の祝福の日でもありますので、すべての若い人たちに向け、敢えて申し上げます。当たって、砕けろ!です。何故なら、神さまはたとえ間違っても、ちゃんと導いて下さるからです。好きなように何でも思い切ってやれ、というのではありません。そうではなく、自分の殻を破るには、思いがけない失敗しかないということです。

サムエルはここ一番で失敗しました。ショックだったでしょう。でもクヨクヨ悩んだとは書かれません。それよりサムエルには間違いの指摘が直ちになされました。それですぐにサムエルは次の兄弟を順々に見て行きますが、神さまからのお告げはないので、選ばれる人がそこにいないことを知らされます。そして最後にその人ダビデを示されて、無事に油を注ぐことができるのです。

 またヨハネも同じです。自分は器ではないと一旦引く訳ですが、即座にイエスからの返答が与えられるのです。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と。イエスはそこで「我々」と語り、ヨハネとイエスが結ばれていることを示しました。ヨハネも自分の失敗でクヨクヨしたとは書かれません。そんなことより、もっと大事な示しが与えられたことの方が大きかったからでしょう。

 間違って人から笑われることは恥ずかしいです。半端な知識や知ったかぶりで間違うなら、いっそう恰好悪いです。できたら間違わないようにしたいです。この年になっても私もそう思います。失敗しないために何もしないことを選択したり、逃げたりもしたくなります。

 でも、それでは変われないのです。変わりたくない自分を、ただ守りたいなら、それでも良いでしょう。でも変わりたいなら。それも想像を超えて変わるためには、守り握りしめているものを一度打ち壊してみるのも良いのです。必ず神さまからの良い修正が入ると信じます。

 サムエルとは、「その名は神」という意味の名前です。神さまの憐れみによって与えられた命であり、その後も神さまの命に従って生きた人生でした。その彼にして間違いを犯すのです。人間的失敗やつまづきは、次の主人公ダビデも全く同じでした。ただその都度、神さまからの修正が与えられました。大事なのはその修正を受け入れるかどうか、それだけでした。それがサムエル記に描かれたことのすべてだと思います。

 私たちは信仰を通して、失敗しないためのこの世的な智恵や処世術を学んでいるのではありません。失敗してもつまづいても大丈夫という神さまの力を知るのです。もちろんそれは若い人たちだけでなく、すべての人に示されます。

 神さま、あなたの力を信じて、恐れず生きて行きます。なお励まし導いて下さい。