《 本日のメッセージメモ》

本のひろば2月号、「だから私は、神を信じる」(加藤一二三著)への書評に、少し違和感を抱かされた。信仰は、人生の最善手を求めてなすものではないのでは?

テキストはイザヤ書30章の中の「救いのとき」の項。近づくアッシリアの攻撃を前に、ユダの人々は我を忘れて、足を止めた状態だった。一番忘れたのは、神の存在だった。それ故、(神の)顔が見えず、声も聞こえない状況に陥った。

そんな中でも、イザヤの言葉は続いた。恵みの時、神の顔は見られるし、声もかけられる(20・21節)と。前からという思い込みが壊される。

絵本「あつかったら ぬげばいい」(ヨシタケシンスケ著)には、「おとなでいるのに つかれたら あしのうらを じめんから はなせばいい」というページがある。頑なな思い込みから抜け出し、心が軽くされる。

背後からかけられる神の声は、私たちが「右へ行こうと左へ行こうと」道を示す。最善手でなくても大丈夫である。

本人個人のたゆまぬ努力によるのではなく、背後からの神の希望の声かけによって、私たちは止まらず歩いてゆけると信じる。

《 メッセージ全文》

大赤字で経営が大変になっている我が日本キリスト教団出版局ですが、ひふみんこと棋士の加藤一二三さんの本がちょっと売れているようです。「だから私は、神を信じる」というタイトルの本です。加藤さんを知らない人は少ないと思いますが、有名な将棋指しです。同時に30歳でカトリック教会で受洗して以来、信仰暦このかた50年になるクリスチャンです。対局の前にはいつも教会で祈りをささげているそうです。

 ただ私は将棋をしませんし、失礼ながら加藤さんのファンでもないので、本は買っていません、すみません。けど、立ち読みでパラパラしました。そしたら、自分は「将棋に勝たせて欲しい」と祈ったことは一度もない。そうではなく「良い将棋が指せるように」と祈っている。もちろん、祈ったからといって必ずそうなる訳ではない。でも祈りや神の力に疑問が付くのではなく、そうした体験に意味がある」というようなことを書かれていて、さすがひふみん、信仰者として間違ってないなと感じました。こういう勝負の世界では、神社などで勝利を祈願することが多いですから・・。

 この本の書評が「本のひろば」2月号に書かれていました。評者は、何と遠藤龍之介さんでした。皆さん御存じでしょうか?作家の遠藤周作さんの息子で、今フジテレビの社長です。そういう立場の人が本のひろばの書評を書くことなど、滅多にないというか、まずないので、買わなかった本ですが、書評は読みました。

 中学生の頃、2年間ほど、父親関係つながりで、彼は加藤さんから直接将棋を教わったのだそうです。それで弟子を取らなかった加藤さんの唯一の弟子と自分では自慢しています、と書かれていました。実はこの書き出しからして、何?って思ってしまいました。

 半分以上が当時の思い出で綴られたあとを紹介します。

「ここから先は私の勝手な推測で間違っていたら申し訳ないのですが、先生は当初、最善手が求められる厳しい勝負の世界の中でより素晴らしい一手へのお導きを求めて入信されたのではないかと思います。然しながら年齢を重ねられるにつれ単に将棋を離れて人生の最善手を求められるようになった。そしてついには神の大きな意志を感じられる段階に到達されたように思えます。わたしももうかなり長い間生きて参りましたが、先生の段階までには到底至っておりません。この御本をこれからの心の拠り所として行きたいと考えております。」

 こう書かれていました。皆さん、いかがですか?これは遠藤さんの文章ですから、それ自体にケチをつけるつもりはありません。遠藤さん自身を批判するのでもありません。ただ、これは書評なん?って思ってしまいました。書評ってすごく難しいんです。読書感想文とは違います。単に内容をまとめて紹介すればいいってものではないし、単純に著者を持ち上げて本をお勧めすれば良いってものでもありません。時には手厳しく内容の不備を指摘する場合もあります。ですから、もともとの本を超えて、書評に対する書評の世界は厳しいのです。

信仰って、人生の最善手を求めるためのものだろうか?そもそも人生の最善手とはいかなるものだろうか?加藤さんは何か悟りを開いてすごい段階に到達したのだろうか?長く生きて来たけど、自分は加藤先生の段階に到達していない。で、この本を今後心の拠り所にしたいって、フジテレビ社長は言う訳です。

遠藤龍之介社長には悪いけど、私は、加藤一二三さんなら、「私の本を心の拠り所にするよりは、あなた自身が聖書を読みなさい」って、唯一の弟子に言うのじゃないかと想像しています。

前振りが長くなりました。私たちはもう一年、コロナ禍によって教会で共に礼拝することができなくなっています。それぞれ、この状況の中で信仰について、問われたり、何か思うことも少なくないでしょう。皆さん、神さまの声は届いていますか?聞こえていますか?いや、何も聞こえないし、どうしようもないと感じている方も、もしかしたら多いのではないでしょうか?正直言って、牧師である私も同じです。

ですが、今日与えられたテキストを読むうちに、やっぱり本当は神さまの声はあるのだ、既にかけられているのだと教えられるのです。声はかけられているのに、聞く気もあるのに、その向きが合ってなかったということがあります。ちょうどラジオを聞こうと思ったけど、周波数が合わなくて、残念ながら聞けなかったというようなことでしょうか。

さて、今日与えられたテキストは、イザヤ書30章からの一文でした。紀元前8世紀、アッシリアが攻め込んで来たイスラエル王国は滅亡しました。アッシリアの次の狙いは南ユダ王国です。圧倒的なアッシリアの武力を前に、ユダはなす術もなく完全に浮足立ってしまいました。預言者イザヤはその人々に向かって、神に立ち帰り、静かにしようと呼びかけるのです。それは単に、落ち着こう、冷静になって考えようということではなく、今見えなくなった神を思い起こし、聞こえなくなった声を聞こうということでした。彼らは我を忘れた訳ですが、一番忘れてしまったのは神の存在でした。

しかし残念ながら、なおイザヤの声は届きません。ユダは、この上はエジプトに頼るしかないと画策しました。力には力で対抗だと。そんな考えは今もありますので分からなくはありません。一方でいざとなったら逃げると高をくくってもいました。同情すべき状況ではありますが、一言で言うとそれこそ「行きあたりばったり」の状況に陥っていたのです。それは一歩も前へ進めない状況でした。

それでもなおイザヤの預言は語られました。それが今日読んだ箇所です。アッシリアの攻撃を前に、もはや神などいないかのような状態になっていたユダヤの民に、神の救いの時の言葉がかけられました。

20節に「あなたを導かれる方は、もはや隠れておられることなく、あなたの目は常にあなたを導かれるのを見る」とありました。神さまが民を見捨てて、どこかに雲隠れした訳はありません。神などいないんだと、彼らが神を見失ったのは、信仰への誤った思い込みがあった故でした。

そして聞こえなくなってしまっていた神さまの声も、これもまた彼ら自身が耳を塞いで聞こうとはしなくなっていたことによります。そうであっても、恵みの時、救いの時は与えられる。その時、「あなたがたの耳は、背後から語られる言葉を聞く」とイザヤは語ったのでした。

この21節の続きは、「これが行くべき道だ、ここを歩け 右に行け、左に行け」と新共同訳では書かれています。この訳だと、行くべき道は神さまが確かに示して下さる印象を与えられます。でも原文ではちょっと違うのです。本来は「あなたが右に行こうと左に行こうと」、これが道、これを歩めと書かれているのです。

つまりどのような道を選んだとしても大丈夫、そこが道とされ、そこをしっかり歩めば良いという神の保証の言葉であるのです。しかも、その声は背後から伝えられるというのです。その声がてっきり前から聞こえる、導かれると思い込んでいることが多いので、目が覚める思いがします。

ヨシタケシンスケさんの「あつかったら ぬげばいい」という絵本を読みました。2020年MOE絵本大賞1位の絵本です。こんな小さい絵本です。子どもより、大人が読んだらいい絵本だと思います。

タイトルの「あつかったら ぬげばいい」自体、分かっているようでいて分かっていないことが大人であっても多い気がします。この中に「おとなでいるのに つかれたら」「あしのうらを じめんから はなせばいい」というページがありました。

大人は、脇道に寄ったり、道を踏み外してならない、しっかり地に足をつけて歩まねばと誰もが自分を懸命に律するのです。それは決して間違っていません。ですが、それが目標になってしまうと、時々疲れてしまうのです。その時、この絵のように実際に木に登ったり、ブランコに乗ったりしなくても、懸命に踏ん張っている足をちょっと浮かせて見ると多分、心が軽くなるのでしょう。

二千数百年前、狂暴な国が武力で襲って来る緊急事態、未曾有の危機に、ユダヤの民は恐れの余り、一切を見失ってしまいました。無理もないと、正直同情します。そして今、日本も世界もコロナウイルスという見えない脅威にさらされています。武力による攻撃とは違いますが、色々な意味で浮足立っているのは同じと言えます。

しかし、右に行こうが左に行こうが、これが行きべき道」だと神さまの声が背後から、後ろから届けられました。昔もそうでしたが、今もそうです。私たちが一切ミスをしないよう、最善手を打てるよう神さまが指示されるのではないのです。そこは私たちに委ねられています。ですからたとえどんな状況であっても、どんなたどたどしい道行であっても大丈夫、多分止まらず歩いて行ける。あなたが止まらないとしたら、それは間違いなく本人一人のたゆまぬ努力によるのではなく、背後からの希望の声かけがあるからだと信じるものです。

天の神さま、希望の励まし、真実の声はいつもおもいがけない時におもいがけないところから与えられます。あなたの温かい配慮に感謝し、肩から力を抜き、柔らかく信仰の道を歩みたいと思います。どうぞそのように一人ひとりを導いて下さい。