《 本日のメッセージメモ》

SDGsと呼ばれる国連の「持続可能な開発目標」。17ある目標を2030年までに結果を出すためには、相当腹を括らねばならない。

教会にほんの少し来ただけで諦めて去る人たちがたくさんいる。原因はあれこれあろうが、私たちにも持続可能な信仰の開発目標があるか。

テキストは、パウロがイエスから示されたこと。かつて自身が体験したことは誇るべき内容だが、自身の努力で得たのではなく、すべては神によった。

よって、誇ることは自分の弱さだと述べる。伝道の妨げである肉体のとげも、「(神の)力は弱さにおいて完全になる」ために必要だった。自分は「弱い時に強い」のは、自分の弱さに働く神の力があるとパウロは知った。

「仕事にとって重要なのは、仕事を邪魔してくれる要素」だと作家の多和田葉子さんは学んだ。

私たちも同じだ。本来排除したい要素が、案外に続けるために大事だったりする。

そもそも持続させて下さるのは、神。私たちの努力によらない。すなわち開発「目標」はないのだ。持続を望んで、みんなで一緒に、明るく楽しく温かく道を耕してゆくだけである。

《 メッセージ全文》

いつの頃からだか、ニュースで見る国会議員の方々が背広の襟にカラフルなドーナツ状のバッジを付けられるようになりました。それ以外にもあって、3つも4つも付けられている「先生」もおられて、失礼ながら、最初の頃はバッジ好きな子どものようにも見えました。

でもカラフルなドーナツバッジに関しては、段々周知されてきて、国連が2030年までに目指す課題を表しているバッジだと知らされました。いわゆるSDGs、持続可能な開発目標です。その目標が全部で17あるので、バッジにも17色が使われています。

日本の取り組み度は、今のところ166ヶ国中17位だそうで、まずまずと思えます。けれど17の目標には、「飢餓や貧困をなくそう」というこれまでにもあった課題に加えて、例えば「ジェンダー平等を実現しよう」とか、「気候変動への対応」とか、新たな課題が含まれています。このジェンダーギャップ、男女平等指数で言えば、日本は153ヶ国中121位で、まだまだ全然の状態です。それも含め、目標が17にも上るので、相当に腹を括って取り組まねばなりません。国だけでなく、私たちもです。

或る牧師が、「少し礼拝に出席しただけなのに「何も良くならない」と立ち去っていく人をどれだけ見送ったことでしょう」と文章を書いていました。洗礼を受けて信徒となっても、信仰生活が続く平均は2年8カ月であるという調査があることを、以前にも紹介しました。

いざ信徒となってもそうですから、ちょっとだけ覗きに来て止めてしまった方はどれだけになるのでしょう。私は、この牧師のため息というか、天を仰ぐような気持ちに、心から賛同しました。

大抵の場合は、思い描いていた期待と違ったということが最大の理由であろうと推測します。思い切って教会に来てみたけど、何も変わらなかったと感じることは残念ですがよくあるでしょう。牧師としては、すぐに結論を出して欲しくないと思うのです。しかしもちろん、続かない理由は、決してその人個人だけにあるのではありません。牧師に原因がある場合もあれば、教会に原因がある場合もあります。

また逆に、ちょっと来てすぐに入信するのも注意したい面もあります。いったん入会したら、何があっても離れられないような環境のところもあって、それはそれで危ないとも思います。

私たちは新しく教会に来る人を大事にしたいと当然思います。できるだけ長く、一緒に礼拝しましょう、信仰生活を共にしましょう、そう願っています。そのための一定の努力も必要です。国連の持続可能な開発目標だけでなく、私たちキリスト者には信仰における持続可能な開発目標があるのかもしれません。

さて今日はコリントの信徒への手紙がテキストに与えられました。小見出しには「主から示された事」とあります。それは「何について誇るか」ということでした。今日の一段落の後の文章を読むと、パウロがエルサレムにいる12弟子たちに対して、結構な対抗意識を持っていたことが分かります。どうしても彼らより一段下のような扱いがあったのです。無理もありません。パウロは、かつてはキリスト者を攻撃していた人間でした。どのような大転換があったとしても、なかなかそれは他者の理解を得られるものではありません。

その意味では、この12章前半の一段落は、パウロが過去を超えどうしてこの働きを続けて来られたか、その理由を懸命に書いているのです。それが主から、すなわちイエスから示された事でした。

1節にまず、自分は「誇らずにはいられません」と書き出します。2節に「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は14年前、第3の天にまで引き上げられたのです。」と続きます。この14年前、天に引き上げられる体験をしたのは、他ならぬ自分自身のことなのです。

自分にはそういう思いがけない、特別な体験がある。このことは誇っていいし、誇りたくなる体験であり内容でした。けれどもそれは、自分の努力で獲得したことではなく、第三者に客観的に説明できることでもなく、何故パウロにそれが与えられたかも含めて、すべては神によるもの、神だけが知っていることなのです。ですから誇りたい体験だけど、自分が誇ることではないと言いたいのです。にわかに分かりづらい、そしてちょっと面倒臭い説明がなされています。

その後で、誇るとすれば自分の弱さだということを書いて行きます。これもまたにわかに分かりづらい、面倒臭い文言が続きます。パウロには具体的な何かは未だに判明していませんが、何らかの病がありました。眼病とも言われますが、定かではありません。

いずれにしても、その病が伝道に励むパウロを幾度も阻害したのでしょう。

 その病さえなかったら、憂いなくもっと頑張れる、やれるという思いは、きっとあったに違いありません。「三度主に願いました」と8節にありました。たった三回願ったとか、三回だけ願ったという意味ではありません。真剣に祈ったということです。

 けれども、自分で「一つのとげ」と表現しているその病は、もっと頑張って実績を上げられるという望みに対してではなく、もしそうできていたら「思いあがることのないように」と7節にあるように、戒めのため与えられたのだとパウロは言うのです。

 そして、「とげ」とまで言う、言わばその条件の悪さは、彼にとって「弱さ」であるのは間違いないのに、イエスからの返答は「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というものだったと9節に記すのです。

 この9節の言葉は、聖書協会共同訳では「力は弱さの中で完全に表れるのだ」とされています。岩波書店版では「力は弱さにおいて完全になるのだから」という訳です。原文に一番忠実な訳は岩波版だと思います。「力は弱さにおいて完全になる」。

 誰でも、力は弱点・欠点のない条件や状況下でこそ最上・最強に働くものと思っています。それがこの世の通常の理解です。しかしパウロはイエスから示されたこととして、力は弱さにおいて完全になる、と教わりました。ですから、そのようなキリストの力がわたしの内に宿るよう、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう、と言葉を続けたのです。

 それこそ、屈さず、立ち止まらず、営々と伝道の営みを続けたいのなら、それを阻害する条件は、どんなものであれ排除したい、乗り越えたいと思うのが私たち常です。単に体の弱さに留まりません。精神に及ぼす悪影響はすべてないほうがベストです。嫌なこと、痛いこと、元気を失いそうになること、どれもないことを祈り、良い環境を作るように配慮したいと誰もが思うのです。

 にも関わらず、パウロは「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。」(10節)と書きます。この「満足している」は、ちょっと訳が違います。「喜んでいる」のです。本当か?とさえ思える文章です。

 新聞の「折々の言葉」欄で、少し前「仕事にとって重要なのは、仕事を邪魔してくれる要素だということ」という作家の多和田葉子さんの言葉が紹介されていました。「作家の近所に住む挿絵画家は、仕事をコンピューターでやるようになってひどく疲れやすくなった。筆を洗い鉛筆を削ることがないので、途中で一息つくことも立ち止まることもない。だから友人の電話で仕事を中断させられると嬉しくなると。引き寄せたり遠ざけたり、加減を見たりと調子を変える、そんな隙の時間がないと、仕事自体が酸欠になる。」と解説がありました。

 余分なこと、つまづきになることなど一切ないほうが良い。特に仕事には。と私たちは思っています。でも必ずしもそうではないようです。一見「邪魔」と思えるようなことが、実は仕事の内容を決める欠かせない要素であるのです。弱さが合わさって完全になるのです。

 もしかしたらパウロも、そんなことが言いたかったのかもしれません。そうすると、私たち信仰生活の中でも、案外に「これは必要じゃない」とか「厳しく排除したほうが良い」とか思うものが、むしろ続けるためには大事なことだったりするのかもしれないのです。

 弱さがあっては駄目。行き詰まりはもちろん、窮乏や侮辱など論外で、絶対ないほうがいいと思えることをちょっと違う目線で見てみる。パウロのように、それを「喜ぶ」ことまではできないかもしれませんが、ほんの少しだけでも違う意味合いを見つけることができたら、と思います。

 そもそも真に信仰を持続させて下さるのは、神さまです。自分じゃないのです。多分、何十年と信仰生活を続けて来られた方ほど、「自分の力や努力じゃない」と言われることでしょう。「私は、弱い時にこそ、強い」とパウロは最後に述べました。自分が強いのではなく、神さまの力がそこにこそふるわれ補われるからです。

そうならば結局、持続可能な信仰の開発目標は、「ない」のが結論となります。そんな目標はないのです。でも、では何もしないで良いかと言われれば、そうではありません。続けられるよう、みんなで一緒に、明るく楽しく温かく、足もとを耕してゆくことはできると思います。だから開発目標ではなく、「開発」です。「私たちは、弱い時にこそ、強い」と心に秘めて、共に信仰の道を耕して行きましょう。

天の神さま、私たちが信仰生活を続けられるとすれば、すべてあなたの導きによります。それを素直に感謝のうちに受け取る者とならせて下さい。弱さをも喜び、共に歩めるよう、お支え下さい。