《 本日のメッセージ 》

自分では覚えていないことを忘れていない人もいる。その逆で、自分は決定的に覚えているのに、何ら記憶がない人もいる。
テキストは、イエスが湖上を歩いた出来事。そこに込められたテーマの一つが「忘れる」というものだった。
夜通しの強風で疲れ切った弟子たちのもとにイエスが姿を現した。自分たちの主(あるじ)なのに、彼らは幽霊だと思い、恐怖にすくんだ。
しかしそれが「忘れる」ことの中身ではない。この出来事の直前になされたのは「五千人の給食」の出来事。イエスの憐れみによる奇跡の業だったが、群衆は勘違いした。恐らくは弟子たちも。
その興奮を静めるため、自身は一人で山に登り、弟子たちだけを「強いて」舟に乗せた。その真意を探ることを弟子たちは忘れたのだ。
 ペトロは重ねてそれを忘れた。しかし「助けて」と叫ぶ彼に、イエスは即座に手を差し伸べた。
イエスは彼らが忘れることを忘れない人だった。
 私たちキリスト者が忘れてはならないのは、貧しい「私たちを忘れない方がいる」という一点。

《 メッセージ全文 》
 つい先日、学生YMCA時代の後輩から電話がありました。コロナ禍の中で、思うように外出もできないですから、そんな中で懐かしい人へとして電話をもらえるのは嬉しいことでした。ただし、電話で彼が話したことには驚愕しました。
 かつて私が語ったことを忘れていない、と言うのです。しかもそれはコンパの時のことだったと言います。飲み会です。今からもう40年近く前のことになります。酔っぱらって何かひどいことでも言ったのかと身構えてしまいました。幸いそうではありませんでした。彼はその時私が言ったことに反論したかったそうですが、それができなかった自分のことを忘れていなかったのです。
 どんな反論をしたかったのか、それは語りませんでした。その時言えなかったのは、偏に私がそれを言わせない悪い先輩だったからなのでしょうか。それとも彼自身が言うように、言えなかった自身のせいなのか、よく分かりません。いずれにしても、これほどの年月の間、よく覚えていたものだと驚きました。やっぱりその時言えなかった悔しさみたいなものが、よほど大きかったのかもしれません。
 まったく申し訳ないことに、私自身は何も覚えていないのです。それが飲み会の席であっても言い訳にはなりません。まあこのかた、同様の失敗は数限りないので、改めて気をつけねばと反省した次第です。

 一方、私が牧師になろうと決意したのは、やはりこの学生YMCAの中での出来事によります。卒業が近づいて来た頃、顧問のお連れ合いから「あんたは後輩の面倒見も良いから、牧師になったら?」と言われたのです。他にも後押しはありましたが、あの言葉が決定打でした。人生の分かれ道と言っても良いと思っています。
 ところが、随分してから彼女にその話を振った時、「そんなこと言った覚えがない」と言われました。全く記憶にないと。これには驚いたというより、拍子抜けしました。私にとっては大変重大な一言だった訳ですから。
 覚えていること、覚えていないこと、双方、そこに関わる力は存外に自分の理解を超えるのだと知らされます。忘れないようにと努力してそこそこ結果を伴うこともありますし、忘れようとして忘れられないこともあります。忘れないで良かったという場合もありますし、忘れて良かったという場合もあります。それぞれに意味があるでしょう。

 さて、今日与えられたテキスト、「湖の上を歩く」という小見出しがつけられた、イエスの起こした奇蹟の一つが描かれていました。科学的に真実だったかどうかという記録ではありません。そのように描かれていることの中に込められた、著者の伝えたかったものを読み取りたいと思います。私はその一つが「忘れる」ということだったと思っています。
 舞台はお馴染みのガリラヤ湖です。弟子たちだけで舟に乗った晩の出来事でした。24節に「陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた」とあります。1スタディオンはおよそ185メートルです。具体的な距離は判明しませんが、戻るのは空しいというくらいのところまでは、逆風をついてたどり着いていたのでしょう。元漁師たちが何名か含まれているとはいえ、夜中、なかなか前に進めない強風を受けて、弟子たちは疲れ切っていたと想像されます。「夜が明けるころ」と25節にありますので、彼らは世通し風と格闘し続けていたことになります。そこにイエスが姿を現したのです。

 今日のテキストのテーマの一つが「忘れること」だと申し上げました。何を?でしょうか。何についてでしょうか。
 夜中、強風のためになかなか進めず疲労困憊していたに違いない弟子たちでした。そこに主イエスが姿を現されたのですから、大喜びしても良かったはずです。ところが彼らの反応は26節に記されている通り、「幽霊だ」というものであり、恐怖のあまり叫び声をあげたというものでした。
 夜が明ける頃とありますが、それは大体朝3時くらいから6時くらいまで3時間のあいだで、少々おおざっぱな表現です。恐らくはまだ薄暗い頃だったのでしょう。その湖上にイエスが歩いて来たというのですから、驚くのは無理もありません。あり得ない出来事でした。しかしそれでも、自分たちの主(あるじ)を幽霊だと思い込み、恐怖で叫んだというのは、あんまりな気がします。
 このことが「忘れる」ことの中身だったのでしょうか。それも少しは含まれるかもしれません。でもそれは小さなことでした。問題は、彼らがガリラヤ湖に繰り出した前の出来事にありました。それはイエスが「五千人の人々に食べ物を与えた」出来事でした。イエスの起こした奇蹟としては、湖を歩くことより、はるかに知られた、大きな出来事でした。

 ヨハネによる福音書では、この出来事に感動した人たちが、イエスを王にしようと連れに来たと記しています。恐らく群衆は興奮し、熱狂したのです。その興奮と熱狂の中に、或いは弟子たちも含まれていたかもしれません。
 王になるために給食の奇跡を起こしたのでは、決してなかったのです。ただ憐れみによりました。イエスは群衆の興奮をいったん切って、その勘違いから直ちに心を静めなければならないと思ったことでしょう。ですから、弟子たちだけを舟に乗せ、自分は祈るために一人で山に登ったのです。テキスト冒頭の22節には「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた」と書かれています。
 本当は弟子たちも群衆と一緒になって興奮の余韻に浸っていたかったのかもしれません。それはイエスの意図と真逆の世界でした。だからこそ、イエスは彼らを「強いて」「無理やり」舟に乗せ、先に出したのです。
 本来であれば、一緒に舟に乗っていたはずでした。それをしなかったのは、弟子たちの興奮を静める必要があったからに違いありません。弟子たちは自分たちだけで舟に乗せられ、何故イエスが五千人に給食をなさったのか、なぜ自分一人残ったのか、そこにこそ思いを致すべきだった。その一番大事なことを忘れ去ってしまいました。
 予想外の疲労困憊の状況にあり、イエスを幽霊だと見間違えたことなどは小さな忘却に過ぎませんでした。それよりもイエスに従い、その真意を求めること、これを忘れるとは何たることか、そういう出来事が、更に弟子の一人ペトロに露呈して続くのです。ペトロはイエスの招きの言葉に一度は安心し、身を委ねました。それが彼も湖の上を歩けた理由です。それなのに再びの強風ですぐ忘れてしまいました。

 ただし、マタイは、彼らの忘れやすさを憎んで記述したのではありません。それはペトロに向かって「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱責したイエスが、だからといって罰などを与える方ではなかったからです。
 自分のことを「幽霊だ」と叫んだ弟子たちにイエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言葉をかけました(27節)。沈みかけたペトロが「主よ、助けてください」と叫ぶと、イエスはすぐに手を伸ばして捕まえた(30・31節)と記録されています。忘れた者へかけられる実に温かいイエスの配慮でした。彼らが「忘れる」存在であると、受け入れ受け取り、それを忘れなかった故かもしれません。

 皆さん、「エビングハウスの忘却曲線」という理論を御存じでしょうか?19世紀後半、ドイツの心理学者だったヘルマン・エビングハウスと言う人が調査し、立ち上げた理論です。
 それによると、人は一度学習したことを、一時間後には56%忘れてしまうのだそうです。ちなみに一日後には74%、一週間後には77%、一か月後には79%忘れるそうです。何もしないと一か月で8割忘れてしまうのが人間なのです。まあ、こういう理論を基にして、一日5分の復習が役立つと言われます。
 いま、受験シーズンの真っ只中にあります。良い予備校では、度忘れすることは当たり前だから、忘れてしまった時に慌てないよう指導すると聞きました。誰でも、受験生であっても、人間は一定の割合で「度忘れ」することが起きるのです。皆さん、安心しましょう。

 それはともかく、忘れていいことはなかなか忘れ難く、忘れてはいけないことはさっぱり忘れてしまうことがいかにも多い私たちです。忘れないようにする心がけは、幾つもあって、そこには努力が欠かせません。
 しかし、知識の問題だけでなく、人生の出来事においても私たちは「忘れる」存在です。忘れるからこそ、生きられるということもあります。でも真の問題は、忘れることの中身です。忘れないでいることをよく見つめれば、自分に都合のいいこと、都合のよういように覚えていることも少なくないのです。逆に言うと、都合の悪いことは忘れるのです。

 ペトロはイエスからの招きがあってさえ、その存在を忘れました。忘れたのに「助けて」と叫び、イエスは即座にそれに応えました。イエスは私たちが忘れる存在だということを忘れない方でした。

 何があっても忘れてはならないことは、現にあります。それぞれの務めとして、責任としてあります。私たちキリスト者が忘れてはならない最大のことは、貧しい私たちを忘れない方がいるという一点であることでしょう。

天の神さま、忘れやすい弱さを懺悔します。その私たちをなお忘れないで支えて下さり感謝です。どうかその深い愛だけは心に刻む者として下さい。願わくは、そこから導かれ押し出されて行けますように。