《 本日のメッセージメモ》

SNSを用いて根拠のない噂を流す事例が後を絶たない。正当な意見表明でない行為に注意したい。

テキストは、荒れ野での誘惑の箇所。悪魔が登場する。英語ではデビルだ。原文ではディアボロス(ギリシャ語)。この言葉はディアバロー(人を責める、中傷する)から来ている。やっかむ者と訳せば、印象が随分違う。

イエスが受けた3つの誘惑は、誰にも共通しているもののようで、そうではない。悪魔はイエスの力を認めたからこそ、やっかんだのだ。

そしてこの出来事は、後にイエス自らが語った出来事だと推測される。無論、自らを誇ろうとして語ったのではない。

誹謗中傷という理不尽は、自分一人で対抗し難い。イエスはすべて聖書に記述される神の言葉で他向かった。自分の足をどこに置いたか、そのことが証しされた出来事だ。

Gotoトラベルはとん挫した。が、イエスもそこに足場を置いた神の時間と空間は、今も続いている。God doトラベルは継続中だ。私たちもそこに身を委ねたい。

《 メッセージ全文》

 昨年、愛知県知事の解職を求めるリコール署名運動がなされました。名古屋市長と某有名美容外科の院長が主導しました。もともと美術展の出店内容への不満が出発点となった、このリコール運動に疑問を持っていました。ところが提出された署名43万5000筆を県選管が調べたところ、83%に当たる36万2000筆余りが、同一人による署名などで無効とされたというのです。

 アルバイトを雇って、佐賀県で名簿書きをやらせたというような報道もされていて、事実であれば民主主義の根幹を揺るがす大問題です。今後の真相解明を待ちたいと思います。

 これとはまた内容は違いますが、アメリカの前大統領はしばしば自分のツイッターで意見を発信しました。それ自体は何も違法ではなかったのですが、目立ったのは根拠を明らかにせずに断定するという姿勢でした。最後まで言っていたのは、相手候補に選挙の不正があったというものです。投票用紙が盗まれたとか、集計に偽りがあったとか訴えていましたが、調査ではことごとく却下されました。

 クーデターを起こしたミャンマーの国軍も、議員選挙で不正があったということを理由に挙げています。しかし、不正の根拠は示していなくて、不明のまま。何だか、この時代になっても、受け入れるのに無理がある言動があちこちで目につきます。いずれも正当な意見表明と程遠いのです。私たちも、何が正しいのかしっかり注意する必要があるでしょう。

 さて皆さん、皆さんは「悪魔」と聞いた時、どんなイメージを持ちますか?英語ではデビルと言います。デビルマンというアニメも昔ありましたが、大体全身真っ黒で、コウモリのような羽が背中にあって、先っぽがとがった槍のようなしっぽがついている、目はギラギラ光っていて、口は裂けていて・・・そんなキャラクターを頭に浮かべるのではないでしょうか。いかにも悪事を働きそうな狡猾なキャラクターです。日本で言えば「鬼」のような存在です。ですが、それはあくまで想像による架空のキャラクターに過ぎません。

 現実にそんな人物にあった人はいないと思います。むしろ、そんな悪い人とは思わなかった、一見悪人とは見えなかった人の所業に後になって驚くことがほとんどではないでしょうか。本性を現さず近づくのが、実際の悪魔であるでしょう。

 先週の水曜日からレントに入りました。受難節最初の主日の今日は、この時期定番のテキストが与えられました。荒れ野におけるイエスの試練の箇所です。「誘惑を受ける」との小見出しが付けられています。そしてこの一段落に悪魔が登場するのです。

 何冊か英語の聖書を見てみました。どれも悪魔と訳されているところは「デビル」と書かれていまして、ちょっと違和感を持ってしまいました。今言いましたように、デビルはあくまでも想像上のキャラクターです。その点、ガリラヤのイェシューでは、「魔物」と書かれていて、その方がピンと来ました。

 悪魔と訳されている単語が、全部で4回登場します。原文では、これはギリシャ語の「ディアボロス」という単語です。その悪魔を指して、3節では悪魔と言わずに、わざわざ「誘惑する者」が来て、と言い換えされています。これが一つミソなんですが、ディアボロスという言葉は、ディアバローという言葉から来たのです。ディアバローとは、「責める」、とか「中傷する」とかという意味です。ですから悪魔と訳されていますけど、そのまま直訳するなら「責める人」「中傷する人」となります。そういう意味での悪魔からイエスは誘惑を受けたというのです。

 そして三回目の誘惑を受けた時に、この悪魔に向かって「退け、サタン」とイエスは言いました。10節です。「もしひれ伏してわたしを拝むなら」という条件を言われたからです。ここで一回だけ、ディアボロスではなく、サタンという言葉が使われました。ヘブライ語では「ハッサタン」と言い、イエスが通常話していたアラム語では「サタナ」という言葉です。これがサタンとされた元の言葉ですが、ハッサタンは「誹謗する者」という意味であるのです。つまり、サタンとはディアボロスと同様に、もともと人を誹謗中傷する者という意味合いから来た言葉なのです。デビルのイメージとは、ちょっと違うのです。

 ですから、今日の箇所は、悪魔とかデビルとか、架空のキャラクターがやって来てイエスを誘惑したというよりも、魔物でもいいですが、直訳して「責める者」或いは「誹謗中傷する者」がやって来たと読んだ方が、はるかに分かりやすいように思います。実際、ディアボロスやサタンと耳にしたユダヤの人々には、そういう輩が具体的にイメージされたことでしょう。「誹謗中傷する者」とは、思い切って「やっかむ者」としてもいいぐらいに思います。中傷はやっかみから来るからです。そうするとぐっとにわかに身近な話となるのです。

 この荒れ野における誘惑は、40日に及ぶ断食の後でなされたとあります。その時イエスは空腹を覚えられたと続きます。ただ空腹というだけでなく、疲労困憊でもあったことでしょう。そういう頃合いを見計らって、満を持して「誹謗中傷する者」「やっかむ者」が登場したのです。いかにも、です。

 ところで、この悪魔からの誘惑の出来事ですが、一体誰が見ていて記録したのでしょうか?いつも言う事ですが、聖書は科学的証明を求める書物ではありません。本当にそうだったかどうかの検証ではなく、そこに描かれたことから、著者たちが伝えたかったことを推し量って受け取りたい書物です。

 ただ、今日の出来事は本来イエスが一人で荒れ野において体験した出来事です。基本誰も見てはいないのです。だから、この体験は、私はイエスが後に弟子たちへか、群衆に向かってか、いずれにしても自分でこういうことがあったのだと語ったのではないかと推測しています。

 その折、何か美化したり、自分自身を誇るために語ったとは思われません。むしろ受けた誘惑と対処を隠さず、全く正直に明かしたものだと信じます。自分を誇るためであったら、「霊」に導かれて行った、などとは言うはずがないからです。敢えて自ら火中へ飛び込んだのだと語るほうが、よっぽどドラマチックであるでしょう。

では、イエスは何を伝えようとしてこの体験を語ったのかです。「石をパンに変える」「神殿の屋根から飛び降りる」「世界の栄華を与える」、おおざっぱにまとめると、この3つの誘惑がここでなされました。このことをもって、イエスも私たちと同じ、人間的な誘惑にあったとされています。そういう面もあるかもしれません。疲れている時ほど、安易な道に走りたくなる誘惑は誰にでもあることだからです。でも、ちょっと待った、と思うのです。

 なにしろ相手は「やっかむ者」です。やっかむとは、イエスの力は力として、実は認めているということなのです。それをできる力を端から持っていない者に対して、なされる誘惑ではないのです。石をパンにできればしたい。その誘惑は分かる、その妄想を自ら抱くこともある。けれど、できない者に言われても実際にできないので、そもそもそのような誘惑は与えられません。相手がイエスであればこそなされた誘惑だったと思います。誘惑の面もあるけれど、いちゃもんと言っても過言ではありません。

 こういうやっかむ者、誹謗中傷する者にどうにか対抗しようとして、自分の力で抗おうとしてもきっと難しいのです。かっとなって熱くなればなるほど、かえって相手の術中にはまってしまうのがオチです。そういう対応についてイエスがこの時思ったかどうか分かりません。でも少なくとも、この後の伝道・宣教の旅においては、どれほどそういった嫌がらせにあったことでしょう。十字架に付けられた最後の時でさえ、神の子なら「十字架から降りてみよ」と罵声を浴びたのでした。

 いずれにしても、イエスはこれらの誘惑に対して、すべて聖書に記されている神さまの言葉を用いて向かいました。通常の人間的対応を取っていたら、悪魔も更なる誘惑の手を伸ばしたかもしれません。しかし、できませんでした。11節に「そこで、悪魔は離れ去った」とあります。イエスが勝ったとか、悪魔が負けたとかではないのです。いちゃもんを仕掛けたが失敗した。そこにいる意味を失ったので、離れ去るしかなかったのです。

違う表現をすれば、イエスを取り込むこと、消し去ることができなかった、そしてイエスはそこにいるということです。やっかむ者の最終目標は、相手を取り込み、存在を消してしまうことにあります。それはできなかったのです。イエスの意志が強固だったからというよりも、イエスの置いた足の場所によってでした。

 このイエスの体験は、だからあなたがたも誘惑を受けたらこうしよう、こうしなさいという類の話ではないと思います。イエスがどこに足を置いて生きたかを証しした話です。

やっかみとか誹謗中傷という、極めて理不尽な事態下で、それに惑わされないで取り込まれないで歩むことは、自分一人の力ではとても困難です。現代で言えば、根拠のないことを持ち出して他者を操ろうとする向きが後を絶ちません。ひとたび偽情報が出されると、予想外の速さで拡散するのが実情です。大げさに言えば、何もしていなくても犯人にされることもあります。白を黒、黒を白に変えることも容易いことでしょう。

それでも覚えておきたいのです。やっかみの言葉へまともにぶつからず、ただ神さまの言葉で立ち向かったイエスの生き方をです。人間のもくろみ、この世的打算で出されたGo toキャンペーン、Go toトラベルはとん挫しました。しかし、イエスがそこを生きた、神が導く人生の旅は、あの時もこの時も、今もこれからも続いています。God doトラベル継続中です。この時間、空間の中を私たちは生きて行きます。

神さま、レントにあってイエスの歩みを振り返ります。あなたの導かれるところに立って行けるよう、確かに導いて下さい。