《 本日のメッセージメモ》

「孤独・孤立」担当大臣が設けられた。コロナ禍にあって現代の課題だ。

テキストは、イエスが目が見えず口が利けない人を癒した箇所。本来はそれで完結する出来事だった。

が、ファリサイ派の人々が、イエスの力を「悪霊の頭ベルゼブルによる」と揶揄した。無視すれば良かったが、イエスは反論した。何故か?

一つは癒された人への思いやりが周囲になかったから。その人になり代わって語る必要を感じたから。そして最大は「悪霊」という言葉に潜むものに立ち向かうためだった。

強いられた孤独は昔からあり、それは人が生み出した。

映画「奇跡の人」を思い起こす。ヘレンが水を理解した一瞬。彼女と徹底的に付き合ったアン・サリバンが奇跡の人だった。

「悪魔」同様、「悪霊(ダイモーン)」も人からのものだ。イエスが癒した人に聞かせたかったのは、「神の国はあなたがたのところに来ている」(28節)の一言に尽きる。イエスこそ奇跡の人。

これを聞いた瞬間に、この人は光に包まれただろう。イエスの胸の奥から発された神の夢の光景!その夢に私たちも包まれている。感謝!

《 メッセージ全文》

二週間ばかり前でしたか、テレビのニュース画面に「孤独大臣」というテロップが流れていて、何それ?と一瞬思ってしまいました。よく聞いてみると、コロナ禍で、引きこもって誰にも相談できず就職にも影響しているなど、「望まない孤独」を強いられている若者たちの問題に対処する「孤独・孤立」担当大臣のことでした。指名を受けた大臣は、「人と人のつながりを作ってゆきたい」などと話しておられて、おいおい、自助じゃなかったの?と突っ込みを入れたくなりました。

 孤独担当の大臣なんて、いかにも今のコロナ禍で生まれたのだと思いましたが、実は3年前にイギリスで既に設けられていて、希薄な人間関係の中で望まない孤独が拡大している、コロナ禍というよりは現代の課題だと知らされた次第です。

 さて、今日与えられたテキストには「ベルゼブル論争」という小見出しが付けられています。確かに、悪霊の頭であるベルゼブルのことが話題にはされていますが、それが第一の内容ではありません。ベルゼブルとは何ぞや、どういうものだという論争ではないのです。

 本来は、発端の出来事がすべてでした。最初の22節に記されているように、目が見えず口の利けない人をイエスが癒した。その結果その人はものが言えるようになり、目が見えるようになったという、それで完結していい出来事のはずでした。

ところがファリサイ派の人々が、そのイエスの癒しについて「それは悪霊の頭ベルゼブルの力によるのだ」と揶揄したこと、そんな愚にもつかない横やりなど全く無視しても良かった。それでも敢えてイエスが反論したのは何故だったかを想像するのです。

第一には、癒された人への同情や喜びが周囲に何一つなかったということです。イエスの癒しの様子を見た群衆が驚いて「この人はダビデの子ではないだろうか」と言ったと23節にあります。彼らはイエスの業には十分驚いたのですが、癒された人への思いやりは、文章を読む限りありません。もちろん、イエスへ揶揄の言葉を吐いたファリサイ派に至っては、嫉妬からかその業へ驚きもせず、まして癒された人への関心自体が何もないかのようです。

 第二には、その様子を癒された人もきっと見ていたことへの配慮があったのではないかと思います。「目が見えず口の利けない人」とありますから、耳はもともと聞こえていたのかもしれません。勝手にこの人が負っていた障がいを大きくしてはいけませんが、口が利けないことは往々にして聞こえないことに関係があります。或いは耳も聞けなかった可能性はあります。ただイエスの癒しによって、聞こえるようになったのであれば、イエスは周囲の人たちのこの冷たい反応へ、この人に代わって向かわねばならないと思ったのかもしれません。

 その上にもう一つの想像が働きます。それはこの人の目が見えず口の利けない理由が「悪霊に取りつかれて」と説明されていることです。現代であれば医学的な説明がされ、それに応じた治療や処置がなされることでしょう。しかしこの当時、例えば錯乱状態にあって、原因が不明だったり、対応のしようがない状況だったりすると、それは「悪霊に取りつかれた」とされたのでした。日本で言えば「たたり」だとか「呪い」だとか言うのと大差ありません。禍々しいということです。通常一般的な病気の患者と違うのです。それが、治ってもなお冷たい反応の中にあることの理由かと考えられます。すなわち、この人が置かれていた場所には、恐るべき孤独の闇が横たわっていたということです。現代だけでなく、この時代から孤独の課題は大きかった。しかもそれは人為的に起こされた孤独で、まさに強いられた孤独といって良いでしょう。

 かつて人権意識がなかった時代の刑務所には、信じられないような独房がありました。それは座ることもできないほどの狭さで、窓も明かりもない、真っ暗な小部屋でした。看守から声もかけられません。何も見えず、音も聞こえない、狭い暗闇の中にいると、言葉さえ忘れて行くそうです。何日も耐えられる人はほとんどいません。独房拘留が長期間に及ぶと、多くの人は精神的におかしくなる、他者とまともに対応できなくなる、或る意味で暴力を使うより悲惨な拷問部屋でした。人間って、よくもこんな残酷な仕打ちを考えつくものでしょう?ですから、目が見え耳が聞こえしゃべることができる人でも、それらを遮断してしまえば、それこそ「強いられた恐るべき孤独」へと追いやられて行くのです。

 悪霊に取りつかれたとして、人々から忌み嫌われ、言葉をかけられることもなく、まして温かい対応をされることがない人が、もともとの原因に加えて追い詰められ、精神的に参ってゆくという悪循環があってもおかしくなかったと推測します。

 「奇跡の人」という映画がありました。1962年の作品ですから、いささか古いかもしれません。見た方もいらっしゃるでしょう。見えず聞こえずしゃべられず、の三重の障がいを負ったヘレン・ケラーと家庭教師として呼ばれたアン・サリバン先生の出会いの物語でした。

 様々な格闘の末、家庭教師として約束した時間が迫り、サリバン先生が半ば諦めかけた頃に、冷たい井戸水に触れることを通して、それが「水」つまりウォーターだとヘレンが気付く感動のシーンが終盤にありました。ワーラーという叫びをよく覚えています。

それは、実際には見えないのにあたかも見えるにようになった、聞こえないのに聞こえるようになった、ちゃんとはしゃべられないけどしゃべられるようになった一瞬でした。その後のヘレンの人生を決定づけた光の一瞬であったとも言えます。

 サリバンを演じたアン・バンクロフトという俳優は、アカデミー主演女優賞を受賞するのですが、徹底的にヘレンと付き合うその名演技さながら、映画題名の「奇跡の人」とは、ヘレンではなく、アン・サリバンのことだとかなり経ってから知りました。

 先週はマタイ4章から「悪魔」について学びました。もともとは「誹謗中傷する人」という意味で、実際には架空のキャラクターでしかない悪魔の、その心は実は人間の中にあるのでした。

 今日は「悪霊」が登場しました。悪魔よりも更に、現実にいるとは言い難い正体のものです。ギリシャ語では「ダイモーン」と言います。これが英語の「デーモン」になりました。でもどうやらデーモンも人に関係ありそうです。

得体の知れないモノへの恐れは、今も変わりません。私たちもそうです。デーモンです。感染防止策は当然取らないといけませんが、ただ同じ店の中で何度も検温や消毒を繰り返されると、嫌になります。自粛警察という言葉が流行ったように、事細かい監視の目が産まれます。必要以上の自粛を強いられて、言われること=耳にすることはいつも一緒、巣籠りで外を見ることもできない。人にも会えないので、いきおい会話も減って来る。決して昔の独房と同じではありませんけど、あれこれ奪われて孤独感が一層増すということはきっとあるのです。人そのものがデーモンになりうる訳です。

イエスは、そういう人に寄り添いました。どうやって癒したか、それは科学的にどうだったかなどの話ではないのです。「悪霊に取りつかれた」ことで、恐らく誰も近寄ろうとはしなかったその人の傍らに、イエスは立ったのです。まさしくこの人が「奇跡の人」でした。

そして見えるようになった、聞こえるようになった、語れるようになったその人にこそ聞かせたくて話し続けました。一番伝えたかったに違いないのは、28節の言葉だったでしょう。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」

ベルゼブルがどうのこうのなど、どうでもいいことでした。悪霊に取りつかれたと言われ、今までまるで真っ暗闇の中に一人ぽつんと置き去りにされていたこの人は、イエスのこの言葉を聞いた時に、光に包まれたことと信じます。自分は神の国に導かれたのだ!それはまぶしく、まことに温かい光で、イエスの胸の奥から発された神の夢のような光景だったでしょう。その夢の中に私たちも包まれています。 天の神さま、イエスの命の光をありがとうございます。強いられた孤独から私たちを救い出すあなたの温かさに感謝します。どうか私たちも隣人にその光を、それぞれの仕方で証しする者として下さい。