《 本日のメッセージメモ》

テキストの小見出しは、ヤコブとヨハネの「母の願い」となっている。息子二人をイエスの右・左にと依頼したのだから、確かに遠慮のない「でしゃばり」感が否めない。母親としての月並みな願いは否定できないのだが。

だが、他の弟子たちの怒りに母親への言及がないのが気にかかる。そもそも、直前にイエスは12弟子だけに詳細な死と復活の予告をしている。そして依頼への返答は、母ではなく二人の兄弟に対するものだ。常にナンバー2・3の立ち位置だった二人には、ペトロへの嫉妬が相当強くあったか。

無論、二人の願いは他の弟子も同様だ。だからこそイエスから再三の注意が促されたのだ。つい自分が前に出る弟子たちだった。

最近の政界で「コメントは控えさせていただく」との答弁が目立つ。一見丁寧そうで、相手の意見を拒絶する慇懃無礼の見本である。

弟子たちにもその姿を見る。ただし、後のヤコブ・ヨハネの歩みは変わった(使徒言行録4章及び12章の記述)。

 イエスを信じる者として、せめてもイエスの言葉を遮ることはしたくない。その前では、自分を引いて、まずは耳を傾けたいと思う。

《 メッセージ全文》

初めて主任牧師となった岐阜・各務原教会。その就任式に何を思ったのか、私の両親が岡山から出て来て出席しました。二人は仏教徒で、教会のこと、キリスト教のことは何も知りませんから、戸惑ったことと思います。

それなのに、式の最後になって、司会の方が「今日は横山牧師のお父さん・お母さんがいらっしゃっています。せっかくですからご両親から何か一言ご挨拶を」とマイクを向けたのです。私は「ヤバい!」と思いましたが、どうしようもありません。マイクを渡された父はおもむろに「皆さんの力で息子を男にしてやって下さい」と言いました。あり得ない挨拶です。一瞬会場がシーンとなってしまいました。今でも時に思い出す、穴があったら入りたい思い出です。

 もちろん、父としては何も悪気があった訳はありません。「男にする」など、今ではアウトの言葉ですが、当時は「一人前」という意味で、結構使われていた表現でした。ただし、単に一人前というだけでなく、「成功し、名を遂げる」という意味合いも多分に含まれていたでしょう。ですから、未だに「勝って監督を男にする」というような声をスポーツ界で聞くことがあります。女性監督が「勝って女にする」などとは言われませんから、もう止めた方がいい言葉だと思います。

 さて、今日与えられたテキストには「ヤコブとヨハネの母の願い」という小見出しが付けられていました。20節にある「ゼベダイの息子たち」とはヤコブとヨハネ兄弟を指しています。彼らの母親が来てイエスに願いごとをしたというのです。「ひれ伏し」とありますから、相当にヘり下って依頼したということです。

 しかし、その依頼とは、「二人の息子がイエスの右・左に座る」という、何とも生臭いこの世的願いで、ひれ伏した態度の割には随分遠慮のないものでした。それを母の願いだとすれば、昔風に言うなら息子たちを「男にしてやって欲しい」という、むき出しの欲望であったのです。

 ゼベダイとは、兄弟がイエスの弟子とされた時に、ガリラヤ湖に置いて来た漁師の父親でした。その後この母親も息子たちとイエスの伝道の旅に同行して来たのでしょうか。決して裕福などではない暮らしだったでしょう。残して来た夫のことが気がかりであれば、息子たちがイエスの右・左に着いて欲しいというこの世的な願いも、分からなくはありません。

 ただ、もう既に大人であったヤコブ・ヨハネですから、ついいい年をした息子の母親が相当に「でしゃばった」感を抱いてしまいます。この母は、本当に自分だけの狭い思いから唐突な言動に走ってしまったのでしょうか。

 この母親に、息子が出世して欲しいという、月並みな願いがなかったとは言い切れません。むしろ「あった」と断言してもいいのかもしれません。でも問題は、母親というより息子たちにあったのではないでしょうか。

 と言うのは、事の顛末を知った他の弟子たちの態度にあるのです。24節には「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」とあります。無論、その第一は、自分たちだけが抜け駆けをしようとしたことに腹を立てたのでしょう。けれどその怒りに、しゃしゃり出た母親のことは何も記されていないのです。普通なら、「あの母ちゃん、ずるい」という反応があって当然ですが、そんなことは一切書かれていません。

 もしかしたら、二人の兄弟が母親を連れて無理にも依頼させたのか、女性の立場を利用したのか、ちょっと悪い推測をしてしまいます。そもそも、この出来事の前の記録が重大なのです。一つ前の一段落には「イエス、三度死と復活を予告する」という記述があります。17節の書き出しに「イエスはエルサレムへ上って行く途中」とありますように、いよいよ伝道の旅のクライマックスの舞台エルサレムが近づいて来たのです。その途中でなされた三度めの「死と復活」の予告でした。

 この予告が「12人の弟子だけを呼び寄せて言われた」と、わざわざ記されているのです。周囲には、いわゆる12弟子以外の弟子たちもおりましたし、またそこには女性たちも含まれていたのです。しかしこの三度めの予告は、一つにはこれまでの予告とは違って、最も側近であった12弟子だけに語られたというのです。そしてもう一つは、これまでにないリアルな内容でした。以前のものは、苦しみを受けて殺されるという簡素な内容でしたが、今回は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告し、異邦人に引き渡す。侮辱し、むち打ち、十字架につけるため。―という、とても具体的な内容でした。

 この予告が書かれてある通り、12弟子だけに聞かされたのなら、それを聞いて極度に焦り、不安に陥ったのはヤコブ・ヨハネ兄弟だったでしょう。だからこそ、イエスは母親に向かってというより、既に予告を聞いた二人に向かって「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」問いかけ、二人は「できます」と答えたのでした(22節)。そこには母親への対応は何もありません。

 母親にも母親なりの思いはあったかもしれませんが、母の願いというより、あくまで二人の願いが強かったというべきでした。マルコによる福音書の記述には、母親は登場しないのです。それなら小見出しは「母の願い」ではなく、あくまでも「ヤコブ・ヨハネ兄弟の願い」とすべきだろうと思われます。福音書を振り返れば、二人はいつも12弟子の中でナンバー2と3という立ち位置にありました。彼らの上に常にペトロがいました。相当に嫉妬の思いが強かったのでしょう。

 もちろん、上に立ちたい、成功したい、名を挙げたいという夢や欲望は、他の弟子たちもみんな持っていました。決してヤコブ・ヨハネ二人だけの嫉妬ではありませんでした。だからイエスはここでは「あなた方の中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になり、いちばん上になりたいものは、皆の僕になりなさい」と一同に対して語りました。が、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と、同じような注意をこれまでも再三繰り返しているのです。弟子たちの誰もが、つい自分を優先してしまう悲しい姿を見続けて来たからに違いありません。

 今の政権が発足した頃、首相や官房長官が「お答えは控えさせていただく」「コメントは控えさせていただく」というような答弁をしきりにしていました。「〇〇させていただく」とは、一見丁寧な言葉遣いのようでいて、要するに相手の問いかけには答えないという、拒否の姿勢で、慇懃無礼の極みでした。そこには自分の世界と価値観しかありません。イエスの予告を聞いてもなお、関心は自分たちの出世でしかなかったら、弟子たちもまた慇懃無礼だったと思います。

 最近「聖書はもういらない」という本を読みました。著者がそう感じたこと、それで楽になったということを否定はしません。でも、私は必要です。牧師だから言うのではありません。イエスの言葉に聞きたいと思うからです。だからこの本は誰にもお勧めしません。買いましたけど、お貸ししません。

 ヤコブ・ヨハネ二人のために後のことに言及しておきますが、最終的には逃げませんでした。ヨハネはペトロと共にイエスを大胆に証しする人となりました。挙句に逮捕されています。これは使徒言行録4章に記されています。ヤコブも教会で働く人となりました。そしてヘロデ王から憎まれて迫害を受け、剣で殺されてしまいます。使徒言行録12章に記録されています。最後は無残でしたが、彼らはイエスに聞いて生きる人生を歩んだのです。

 私たち、いつでも間違いなく絶対にイエスを第一とすると、強く自分を律することはなかなかできません。けれど、イエスを信じる者として、せめてもイエスの言葉を遮ることをしたくないと思うのです。イエスの前では、それぞれのコメントを控え、いったん自分を引いて、黙ってその言葉に耳を傾けたいと思います。本当に語らねばならないことは口を閉ざしておいて、欲望に過ぎないチャラい事をしゃべり続ける自らを戒めたいのです。

天の神さま、この世的理屈や感情に流される私たちをお許し下さい。救い主に聞いて歩む者へと変えて下さいますように。