《 本日のメッセージメモ》

いつの頃からか、映画のエンドロールは長くなり、出演俳優はもとより、事細かい制作スタッフの名前までが記されるようになった。

テキストは、いよいよ十字架の出来事へ。そもそも正しい手続きや審理を経ずに「死刑」となったイエスを、あらゆる人々が「もてあそび」ながら刑場へと送る。そのほとんどが名前も分からない。これを映画のエンドロールに表すとすれば、延々無名の演者が数字で流れることになろう。

まずは、よってたかってリンチしたローマの兵士たちが200人!わざわざ見にやってきた一般人たち(人数は不明)。

死刑へ追いやった張本人の祭司、律法学者、長老たち。サンヘドリン(最高法院)のメンバーであったら、都合71人。これも数字でしか表せない。

更に、共に十字架刑となった強盗2人が加わる。ざっと見積もっても300人の人々が、侮辱のうちにイエスを死に追いやったのだった。

松田幸雄「十字架」の詩にあるように、誰であっても結果は同じだった。虚しさの極みである。

 今週金曜日に受難日を迎えるにあたり、これが私たちの救い主の最期の惨状だと覚えたい。エンドロールに組まれた「その先」への期待と一緒に。

メッセージ全文

 今コロナ禍でなかなか映画館で映画を観ることができませんが、皆さんは、映画の終わりのエンドロール、エンディングロールを最後まで観られますか?

 私は基本的に観るほうです。ただし、2時間半を超えるような長作だと諦めてトイレに行きたくなったりしますし、余りにも駄作だったら、一刻も早く出たいと思うような時もあります。それでも、大体は観るのです。それは、やっぱり余韻に浸りたいからです。特に涙なしには観られないような作品だと、ちょっと時間を置いて顔が乾くのを待つ必要性を感じます。

 もっとも、エンドロールが昔から当たり前にあったのではありません。ちょっと古い映画を観ると、邦画だったら「完」という字が出て、洋画だったら「ジ・エンド」という字が出て即終了となるのです。余韻もへったくれもありません。終わりったら、終わり、という雰囲気に満ちています。

 出演俳優だけでなく、詳細な制作スタッフたちまで名前が記されるようになったのは、1977年の「スター・ウォーズ」からだと聞きました。延々流れる小さな関係者の文字の中に、日本人っぽい名前を発見して、ちょっと嬉しかったりします。完成まで何年もかかるようなディズニーの作品などは、その間に生まれたスタッフの赤ちゃんの名前まで出るそうで、ちょっとやり過ぎかもしれません。

 最近の映画では、このエンドロールに仕掛けがあって、映画のストーリーの続きがそこで流されることもよくあります。それを観なかったら、空しいというか、もったいないという作りになっていて、もうちょっとだけトイレを我慢してでも観た方がよろしいと思われます。

 さて、今日はイエスが亡くなる直前の箇所を読みました。聖書日課では56節までになっていますが、ちょっと長いので44節までにしました。この一段落に登場する人物たちがイエスの死に直接関わった人々で、誰もが悪い意味で重要な役割を果たしました。6週間に渡るレントの時も、最後の週を迎えました。金曜日には受難日となります。いよいよイエスの人生が終わろうとしています。まもなく世界のエンドロールです。

 その十字架の出来事に当たって、思いがけずたくさんの人々が関わっていました。それも様々な立場の人たちでした。それが今日のテキストに、ざっと記されていました。敢えて言うなら、イエス召天の際のエンドロールに最初に名前が登場する人々でした。今日はその光景を想像して頭に思い描いて見たいと思うのです。

 第一が、総督の兵士たちでした。一つ前の段落には、総督ピラトからついに死刑が下されたあと、この兵士たちからイエスが徹底的に侮辱されたことが記されています。27節には、「部隊の全員をイエスの周りに集めた」とあります。ここにある部隊は原文では「スペイラ」と書かれていて、そうなら600人の部隊となります。しかしこの時の部隊はマニプルスという部隊で、その「全員」とは、おおよそ200名程度だったと推測されています。それにしても200名であるのです。

 この200名ものローマの兵士たちが、もはや死刑が確定したイエスに茨の冠を載せ、侮辱の言葉をかけ続け、唾を吐きかけ、葦の棒で頭をたたき続けた(29・30節)というのです。原文では、兵士たちは「彼の中」まで唾を吐き続け、彼の「頭の中」まで叩き続けたと書いてあります。おぞましい記述ですが、200人からの兵士たちが、それをしたのですから、もはや死刑前の集団リンチそのものです。彼らの名前は分かりません。エンドロールに記されるとすれば、イエスを侮辱した兵士1から200まで数字が並ぶことでしょう。

 次にイエスの十字架を代わりに背負うことになったキレネ人のシモンが登場します。シモンは全く、予想もしない形で、それを強要させられることになる訳ですが、その原因は、兵士たちからの容赦ない暴力にあったのです。それがなかったら、十字架を担げないほどのイエスの疲労はなかったと想像します。

 続いてゴルゴタと呼ばれる処刑場で、二人の強盗が登場します。この場所で、兵士たちはイエスの服をくじで分け合ったといいますので、どこまでしたい放題なのか呆れます。強盗二人とイエスは十字架につけられ、その時点で既に息も絶え絶えであったことでしょう。

 その処刑場を通りがかった人々が次に出て来ます。「人々」とありますから、何人かは分かりませんが、複数人いるのです。十字架刑は、見せしめのために行われるので、偶然その場所を通りがかった者も中にはいたかもしれません。しかし、そこは「ゴルゴタ」しゃれこうべと呼ばれていた、誰もが知っている処刑場であるのです。知らずにたまたま通りがかったというよりは、敢えて見にやって来た者たちだったに違いありません。彼らがイエスに投げつけた「神の子なら、自分を救ってみろ」(40節)というののしりからもそれは明らかです。これも名前は分かりませんが、通行人1から少なくとも幾人かがエンドロールに記されることになります。

 この調子に乗った一般人たちの、更に尻馬に乗ったのが、あろうことか死刑への道筋を作った祭司長たちや律法学者たち、長老たちでした。41節には「同じように」侮辱したとあります。「侮辱した」と訳されている単語は、別の訳では「もてあそんだ」とされています。自分たちが一番にイエスを死刑にしたかった張本人、中心人物なのに、その感覚は「遊び」なのです。しかもまるで一般人に煽られてあざけっているかのようです。

当時「サンヘドリン」と呼ばれたエルサレムの最高法院は、大祭司を長として、祭司、律法学者、長老合計71人で構成されていました。恐らくその全員が集まっていたでしょうから、エンドロールには大祭司だけはカイアファの名前が出ますが、後はサンヘドリンのメンバーとして、祭司24名、長老24名、律法学者22名がそれぞれ1から24の数字で記載されることになるのです。

 ここで一緒に十字架についた強盗二人は、ルカでは一人は最後にイエスに声をかけましたが、マタイでは二人ともイエスをののしったことになっています。強盗1と2です。

 この後、ついにイエスは死を迎えることになります。次の一段落を読むと、そこには遠くから見守っていたという「大勢の婦人たち」という記述がありますし、具体的にマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母という名前も挙げられています。ですから実際には相当の人たちが集まっていたのです。兵士が200人、最高法院の議員たちが70人・・・と数え上げるだけでもざっと300名に及びます。実際にはもっと多くの人がいたのでしょう。

 そのほとんどが名前も分からず、エンドロールでは数字でしか表せない人たちです。でももっと情けないのは、そのほぼ全員がイエスを侮蔑した人たちだったということです。直接の暴力に及んだ兵士たちは問題外ですが、皆が皆、それぞれの仕方で、もう残りわずかなイエスの人生の最後を侮蔑しました。もてあそびました。しかも、もはや名前も分かりませんから、訴えようもありません。これが私たちの救い主イエスの最後であるのです。

 松田幸雄(ゆきお)というクリスチャンの詩人が、「十字架」という作品を残しています。

 私が見たことを話そう・・・

「あなたがユダヤ人の王であるか」と 総督が尋ねたとき、彼は言った、「そのとおりである」と。

誰が尋ねても、彼はそう言っただろう。 だが、祭司長や長老たちが糾問しても、ピラトが取りなそうとしても、彼は不思議なほど一言も答えなかった。誰が何を言っても、

彼は答えなかっただろう。 たぶん、彼は知っていたに違いない、民衆は「十字架につけよ」としか言わないことを、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」とピラトに言うだろうことを。

 兵士たちがクレネ人シモンに十字架を運ばせたが、彼が運んでもシモンが運んでも、同じことだった、ユダヤの民が負うべき十字架が、彼に引き渡されるということにおいて。 釘が彼の体に打ち込まれたとき、彼の顔に苦痛と安らぎの表情が同時に走るのが見えた。ユダヤの民と子孫の責任が彼の痛みとなり、永遠に張りついたのだろう、と同時に、釘は、人の子、彼を十字架にとめて 永遠に天の柱に結びつけ、安んじて 人の子を超えさせようとしたのだろう。 だから、祭司長、律法学者、長老たちが、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ・・・」と嘲弄しようと、彼は自分を信じていたはずだ―自分の血が彼らの罪を贖う、それによりみずからを救うのだと。

 正午、地上の全面が暗くなった。暗黒の三時、彼は人の子として最後の声を挙げた。雷鳴が轟き、垂れ幕が裂けた。岩が、地が裂けた。雷は垂れていた人類の負い目を引き裂いたのだ。あの地の裂け目はエジプト、アラビア、ローマまで、いや、私の知らぬ世界の涯まで拡がったに違いない。そのとき私の目に見えたのは、みじめで気高く血まみれで汚れなき彼の立像、それは十字架の縦木のように、稲妻のように垂直に天まで伸びていった、腕は十字架の横木のように、地と岩の裂け目のように地平に拡がっていった。そう、これが、あの日、私が見たことだ、いや、むしろ、深く心に感じたことだ・・・・

 松田さんが「誰が何を言っても、誰であっても同じだったろう」と書いている通りです。もはや名前も分からない数多くの人たちからもてあそばれてイエスは亡くなった。例え名前が分かったとしても、関係ないことです。誰であっても同じだったのなら。直接には関りのない私たちであっても同じだったのでしょう。そうやって私たちの救い主が亡くなった。エンドロールに、それに関わった人たちの数字が延々と映し出されます。空しいです。その虚しさを今日は覚えたいと思います。

天の神さま、余りにも無残なイエスの死を想い、人間の愚かさを懺悔します。しかし、例え一人子イエスが亡くなったとしても、世界の終わりではありませんでした。このエンドロールには、全く思いがけない次の展開が用意されていました。それら一つひとつを思い描く受難週を過ごさせて下さい。