《 本日のメッセージメモ 》
八木重吉の「信仰」を引き合いにして、自分には他のことを何もかも忘れてしまうほど、復活を信じ救われようと言う心はない、と今村嗣夫弁護士は書く。
復活の証言はあいまいであり、今村氏の告白は正直だと感じる。マタイでは、墓の石を取り除けたのは、主の天使だった。
その時、大地震が起こり、輝く天使の登場(2・3節)と記されたのは、復活が神による出来事と伝えたい思いが込められた描写なのだろう。
理不尽な世の出来事に、早い解決を求めたい時、つい「力」を願う自分がいる。イエスの復活に際しても、劇的変化を期待してしまう。
ところが、婦人たちに「おはよう」と声をかけたこと(9節)に象徴されるほど、それは拍子抜けするほど、これまでの日常と変わらない姿だった。見た目だけでなく、イエスの思いも。
今村氏は、信じがたい証言にも関わらず、イエスのそれまでを思い描いて、前へ歩まされると文章を続ける。
イエスの復活とは変わらないことだった。それが「奇跡」。どこでも聞いたことがない話だ。
人間の心の奥底に流れるのは、変わらない思い出とのつながりだ。神はそれを聞き上げられる。
変わる姿を望む限り、イエスの姿は見えまい。復活の中身を大事にしたい。

《 メッセージ全文 》
 今村嗣夫という弁護士がいます。クリスチャンです。「自衛官合祀訴訟」や「津地鎮祭違憲訴訟」など、国家と宗教、少数者の人権をめぐる裁判を幾つも担当して来た弁護士です。その今村さんが、「復活の証言」と題した文章の中で、次のように書かれています。
 「八木重吉に「信仰」という短い作品がある。「基督を信じて 救われるのだとおもい ほかのことは 何もかも忘れてしまおう。」
 この純粋詩人も復活を疑っているように思える。だが、ぼくはもっと「罪」深い。復活の証言のささいな食い違いに目をつぶってしまうこともできなければ、体制に埋没しなければ生活できない現世や、隣人への恨みやうしろめたさや、そのうちにガンに侵されはしないかという不安や、ほかのことはなにもかも忘れてしまうほどに熱心に祈り、復活を信じ救われようという心はぼくにはないからである。」

 証拠とか証言とかがとても大事である仕事をしている人ならではの、しかも正直な文章だと思います。ここで今村さんが指摘している、「復活の証言のささいな食い違い」とは、例えば、イエスを埋葬した墓の入り口に置かれた封印のための石は誰がとりのけたか、いつとりのけたか、というようなことです。福音書によって、記述が違うからです。

 今日読んだマタイによる福音書では、それは主の天使がとりのぞいたことになっています。二人のマリアが墓に行くと、「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」と2節にありました。

 続いて3節には、「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」と記されます。これが事実で、本当であったかどうか、正直分かりません。それこそ調べようもないことです。
 ただ、このこと自体は、イエスの復活そのものを表していることではなく、イエス復活の舞台を盛り上げる演出のようなものと言えます。主の天使が遣わされたこと。墓を封印していた石に天使が座ったこと。稲妻のように輝き、衣は真っ白だったこと。これらは事実かどうかよりも、イエスの復活が、人の力によるものではなく、神の力によってなされたことを伝えたいための表現だと思います。そのことは、出来事を信じる信じないに関わらず、理解できるのではないでしょうか。

 さて、このところ憂うべき事態がミャンマーで続いています。クーデターを起こした国軍が、なりふり構わぬ武力を国民に行使し続けています。小さな子どもたちまで犠牲になっている、犠牲者はもう数百人に及んでいるというニュースに、心を痛めない人はいないことでしょう。
 この事態に、何もできない現状を歯噛みするような思いでいっぱいです。国際介入が叫ばれていますが、それもなかなか困難で、でも何もしなければ犠牲者は増す一方でしょう。こういう不条理や理不尽に対して、つい危険な想像をしてしまうのです。それは、もし、自分に「力」があったら、という想像です。力があったら、国軍の連中を今すぐ、叩き潰してやるのに!と、マンガ的発想ですが、そう思います。悪い奴らの言動を、力で排除し、完膚なきまでに打ち崩して従わせたい、それは実は国軍がやっていることと変わらないことと分かっていても、そんな妄想をちらりと抱いてしまうのです。

 現実味のない想像に過ぎません。でもイエスの復活に際しても同じような期待をイエスにかけたくなります。先週振り返ったように、イエスの十字架の際、何百人と推測される人たちからいわれのない暴力と嘲笑を受けた上で、イエスは亡くなったのでした。これが日本だったら、赤穂浪士のように弟子たちはイエスの墓前に勢ぞろいし、「主君の恨み、はらさでおくべきか!」と、仇討ちを誓ってもおかしくない場面でした。

 生前から繰り返し「三日目の復活」を予告していたイエスです。ついにそれが実現するのです。わずか三日前の仕打ちを忘れる訳はありません。弟子たちが逃げだして、何もしないのであれば、復活したイエス自らが何かをしておかしくありません。生きている間は、わずかな出来事を除けば、神の子としての「力」を何も振るわなかった、そのまま亡くなったイエスでした。しかし今や、存分に力を振るって良い、振るうべき復活の時が訪れたのです。悪い奴らを、たちどころに断じる力こそを、人間は望んで止まないのです。

 それが私たちが普通思い描く復活だと思います。白く輝く栄光の姿は、天使ではなく、イエス本人であるべきでした。ところが、天使の後に登場したイエスは、びっくりするくらい拍子抜けだったのです。復活という言葉への期待を、根底から裏切る姿でした。

 天使から弟子たちへの伝言を託され、走って出かけた婦人たちの前にイエスが復活の姿を現しました。9節にはこうあります。「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」

 大きな地震が起き、まぶしく輝く天使が登場して、さあこれからイエスのどんな復活が待ち構えるのか、期待を抱いた人には、拍子抜けどころか、「間抜け」にも感じられる記述ではないでしょうか。

 イエスは「おはよう」と声をかけたのです。おはようと訳されている原語「カイロ―」は、本来は「ごきげんよう」という挨拶の言葉で、直訳すると、「あなたたちは喜びなさい」という意味です。ですが、ここでは要するに普通の挨拶をイエスはしたということです。婦人たちからすれば、生前何度その挨拶の言葉を聞いたことか、全く何事もなかったかのような、当たり前の挨拶でした。

 出だしの出来事に比較して、続く復活本来の記述はあっけないほど、これまでと変わらない日常の姿でした。それは他の福音書の記述も同様です。何か劇的に変化した、驚くような凄いことが起ったのではありません。イエスはかつてのように、弟子たちを教え、弟子たちと食事し、語り合った、それが福音書が伝える復活の中身でした。

 弟子の一人ユダが具体的に裏切りの行動を起こそうとした時、ユダに向かって「友よ、しようとしていることをするがよい」とイエスは声をかけました(マタイ26:50)。復活したイエスの意識は何も変わりません。婦人たちへかけた言葉は、「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(10節)というものでした。弟子ではなく、友であり、兄弟なのでした。

 先に紹介した今村さんは「復活を信じ救われようという心はぼくにはない」と書いたあと、文章を次のように締めくくっています。
 「非日本人」扱いされるぼくらがどうもがいてみても、今なお繰り返されている歴代首相の伊勢神宮参拝や与野党議員たちの「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の流れを押し留めることは容易ではないように思える。平和を希求する反ヤスクニ運動とのかかわりのなかで、そういう思いにとらわれるとき、ぼくは、あの女たちや弟子たちが、大方の民衆が支持した十字架の前で、そしてあのむなしい墓の前で呆然としたであろう情景をふっと思い浮かべる。と同時に、抑圧される「少数者」の側に身を置いて生涯を過ごし処刑されたイエスの復活をめぐる証言が疑わしいままに、ぼくの体をまた前へのりださせる!」

 これが復活などとはどうにも信じがたい証言にも関わらず、イエスの生涯を思い描けば、それでも前進する力を、今村さんは不思議と与えられているということでしょうか。それは言い換えれば、復活したイエスが生前と変わらなかったこととつながっていると思うのです。

 劇的変化をどこかで期待する人間。生き返ったかどうかではなくて、そういう人間の期待を打ち破って、生前と同じ在り様でよみがえったイエスを、福音書記者たちは描き記しました。あれほどのことがあったのに、それまでと何一つ変わらぬイエスの姿。それが「復活」でした。復活とは、変わらないということでした。これこそが、まさに「奇跡」です。そんな話は、どこでも聞いたことがありません。

 災害や事故や病気などで愛する肉親を失った人たちが、もう一度だけあの人の声が聴きたいとか、あの子の笑顔を見たいと言われます。切ない切ない願いです。変わらないその人に帰って来て欲しい。私たちの心の底を流れている、繋がりたい思いです。神さまはその声を静かに聴いておられるのでしょう。

 いつの日かイエスは再臨すると言われます。キリスト者として、それを是非信じたいと願っています。けれどその日その時、イエスは決して栄光輝く違う姿で、別の存在で再臨するのではなく、かつてと同じように、何も変わらない日常の姿で再臨するのでしょう。違う姿を想像している限り、私たちは再臨の姿を見過ごしてしまうかもしれません。復活と言われる出来事の中身を大事にしたいのです。

 ミャンマーで、三本指を立てて武力に対峙している民衆たちのただ中に、イエスもまた三本指を立てて立っておられる。その姿を信じて従いたいと心から思います。

天の神さま、変わらぬ救い主の復活をありがとうございます。だからこそイエスは、私たちの傍らに立ち続けて下さいます。その力に励まされ、癒され、新たな年度を固く歩む者として下さい。