《 本日のメッセージメモ 》
「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会を作る宣言」へ、現在4053名の賛同者が名を連ねている。うち30名近くが東神戸教会員。問題は未だ解決をみないが、決して多い訳ではないこの名簿に変革への風を感じる。
聖霊が降り、ほかの国々の言葉で話し出した様子に、五旬祭でエルサレムに集まっていた各地のユダヤ人たちが「驚いた」(7節、12節)とある。 これは外に叩き出されるような衝撃の驚きを意味する。
言葉は仲間意識形成に重要な要素だ。家族のような弟子たちはイエスと共にガリラヤ訛りの言葉でそれを確認したことだろう。けれど家族は時に仲間内に偏る危険をも孕むことに注意したい。
各地のユダヤ人は、そこでは少数者で、意識されない寂しさを抱いていた。祭りで母国に戻っても引きずったに違いない。
ガリラヤ組であるはずの弟子たちが彼らの国の言葉を用いて話した。それは確かに衝撃で、神の偉大な業を実感させるものだった。
教会の誕生と言われるペンテコステ。その最初から、仲間内に留まらない出来事があった。心を動かす風と心を熱くする炎が聖霊の内実だ。
コロナ禍で内向きになりがちな私たち。今こそ、それを打ち破り乗り越える聖霊の風と炎を祈り求めたい。

《 メッセージ全文 》
 少し前、「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会」の通信が送られて来ました。教会宛にも届いていますので、関心ある方は御覧下さい。通信と共に、「処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる宣言」への賛同署名をした方々の名簿が同封されていました。この5月3日現在で4053名の賛同者となっています。

 北村牧師の処分が一方的に下されてから10年以上が経ちます。教団は依然としてこの問題は済んだこととして何も顧みようとはしません。幾つかの教区が議案として訴えても全く応じようとはせず、常議員会でも取り上げられないままです。もう終わったこと、過去のことのようになっている感があります。

 けれども、この賛同者の名簿をつらつら眺めているうちに、改めて力を与えられたような気がしました。教団に属する信徒数は現在おおよそ16万人くらいでしょうか。そのうちの4000人の署名は3%にも満たないものです。これを少ないとみるか、それとも案外に多いとみるか、数字だけをみるならわずかかもしれません。

 東神戸教会では2014年から2015年に署名依頼をして、30名近い方がサインをして下さいました。4000名の中の30名は凄いと思っています。少しでも賛同者が増えることが力となるのは言うまでもありません。賛同呼びかけは今も続いていますから、これからでも賛同下さり、署名いただけたら幸いに思います。
けれど、必ずしも「数」ではないのです。知っている牧師や信徒の名前を発見すると、正直、うれしくなります。狭い世界だからではあるのですが、顔が浮かびますし、声が聞こえて来る気がするのです。全国各地に、こんなことはおかしいと声を挙げる人たちがいる。数は多くなくても、それは集まって変革を促す風なのだと思います。
この北村牧師処分問題は、争点が色々ありますが、最も大きいことは、一方的に正しさを主張して、そうでない側を断罪したことだと言えるでしょう。違う声を聞かなかったし、今も聞こうとはしないのです。それはうちうちに留まること、それを強制することに他なりません。

 さて、今日はペンテコステです。天からの力、聖霊が弟子たちに贈られた日です。その力を通して、弟子たちがほかの国々の言葉で話し出した(4節)と記されています。

ちょうどユダヤの3大祭りの一つ、五旬祭の時で、エルサレムには当時の世界各地からお祭りのために帰って来たユダヤ人が集まっていました。弟子たちが彼らの地方の言葉で話すのを聞いて人々は驚いた、と記録されています(7節、12節)。

この7節と12節両方に使われていて、「驚く」と訳されている「エクシステーミ」というギリシャ語は、分解するとエク「外に」、ヒステーミ「立たされる」というものです。外に立たされる、外に叩きだされるような衝撃を受けるという意味です。ちょっとびっくりしたという程度ではなく、物凄い驚きであるのです。

その物凄く驚いた人たちが「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか」(7節)と語っています。その通りです。この人たちが言ったように、弟子たちはイエスも含めて皆ガリラヤの人間でした。そのガリラヤの人々が様々他の国の言葉で話し出したこと。これは存外に深い意味が込められた出来事だと思うのです。

言葉は、仲間意識を持つために大事な要素でしょう。中でも最もイエスに近かった12弟子たちは、ガリラヤという、言葉も生まれ育った風土も、みんな同じものを共有していました。食べるものも、飲むものも同じ習慣や好みがあったろうと想像します。

しかもガリラヤは、イスラエルにあっては都エルサレムからはるか離れた片田舎でした。言葉を筆頭にガリラヤを彷彿とさせるものすべてが、ガリラヤ以外の人たちを意識する時、結束を確認する欠かせないものとなったでしょう。彼ら仲間内だけで話すうちは、肩ひじはらずの安心感に包まれたに違いありません。

逆にエルサレムでは、そこで出会う人々に対し、言葉だけでも身を固くする緊張を強いられたのです。ましてイエス亡きあとは、頼る人のいない心細さで、一層ガリラヤ組の中にひきこもることとなったのではないでしょうか。彼らは、もともと小さな家族のような集団でした。

家族は、何よりも大事な人間関係だとよく言われます。何があっても互いを守る、友達とか通常の仲間内の関係とは比べ物にならない強い結びつきなのでしょう。欠点もまるごと受け入れる、他にはない絆で、だからこそそこで育まれた感覚を無条件に大切にする多くの人たちがいます。それはそれで大切です。

ただし、その結束が深く濃いければそうであるほど、他者を寄せ付けなかったり、外部を受け入れないことも少なくはないのです。その家庭、家族だけに通ずるルールは、一歩外に出れば時に非常識だったりもします。それを上手く呑み込めない場合には、一番であるはずの家族が、一番の敵や苦しみの元凶となってしまうこともあるのです。

ペンテコステは、教会の誕生日だと言われます。また、私たちは主にあって、一つの家族だとよく言います。その最初の誕生日に起こったのは、弟子たちがガリラヤではない、ほかの国々の言葉で話した出来事でした。

弟子たちだけであれば、ガリラヤ訛りの方言で充分でした。彼らだけに通じる作法や習慣も黙って許されたでしょう。でもそこには、お祭りの時だったとはいえ、同じユダヤ人だけでも当時の世界各国に住んでいた人たちが集まっていたのです。

そのところで、ガリラヤ人たちだけの話し合いをしたとして、誰にも関心を持たれなかったでしょう。もともと各地にいたユダヤ人は、そこでは少数者として、それらの国の人々から意識はされない環境にありました。お祭りで母国に帰って来ても、同じ寂しい状況を味わうとしたら、悲しいかなそれがこの世の様だと受け入れる他はなかったことでしょう。

ところが、全く思いがけず、ガリラヤの弟子たちが自分たちの言葉で話しているのを耳にしたのです。いつどこで外国語を学んだのか、そんなことはどうでもよいのです。弟子たちが外国語を話したことに勝って、自分たちが意識されたこと。ガリラヤの人が自分たちの存在を覚えて話している!それが彼らに、外に叩き出されるかのような衝撃を与えたのでした。弟子たちが語ったという神の偉大な業とはそれは指すのです。

教会の誕生日という初めての日に、弟子たちが自分たちだけではないと意識させられた衝撃の出来事が起きました。教会の始まりから、それが示されたのです。ですから、私たちは教会を大事にするけれども、教会が教会だけで教会のことだけを生きるのではありません。もしそうなら「あの人たちは酔っている」とあざけられても仕方ありません。

その日、激しい風が吹いて来るような音が聞こえ、弟子たちが座っていた家中に響いた(2節)。そして、炎のような舌が分かれ別れに現れ、一人ひとりの上にとどまった(3節)、とありました。

心を動かす風、心を熱くする炎、この二つが聖霊の内実を表しています。うちうちだけに留まらないための変革の力です。それを私たちはたまたま聖霊と呼んでいます。そうならば、それはきっと誰にも与えられる神からの力です。それがあるから世界は変わるのです。間違ってもクリスチャンだけ、それも洗礼を受けたものだけに与えられる力などではないでしょう。神の力は、そんな狭い限定された力ではないと固く信じます。

コロナ禍で、外へ出られない、仲間とともに会えない、自粛の日が続いています。それでも、「だから自分のことだけで良い」としては駄目なのです。今こそ私たちを揺さぶり、外にたたき出されるような衝撃の出来事、聖霊を祈り求めたいと思うのです。

神さま、信仰は本当の意味で私たちを解放するものと信じて感謝します。どうか聖霊によって、私たちを自由にして下さい。自由な心で他者と関わる者として下さい。