《 本日のメッセージメモ 》
「再出発」をテーマにした新聞の投稿特集から。再出発を強いられる理由は様々だが、本人の失敗という文章に強い共感を覚えた。失敗自体に勝って、世間の目を恐れ、外出できない事態に追い詰められたという。
似た体験を持つ者として、立ち直りのために「誰か」の存在や言葉が必須だと改めて感じる。私の場合は、詩編(51:19)の言葉だった。
テキストは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(28節)の有名な語句を含む。具体的な対象は明らかではない。時代背景も考慮せねばならないだろう。
だが、二つ前からの段落の出来事と合わせ読むと、悔い改めない町々には、知恵があり賢いと称された人々がいて、神の救いや赦しについての条件を作って影響力を持っていたと想像される。
イエスは、それらは彼らには「隠され」、幼子のような者に示された(25節)と語った。粗暴で尊大な空気に惑わされることはない。「休ませてあげよう」とは、直訳すれば「わたしが元気づけてあげよう」である。再出発への励ましだった。
二度としたくない失敗であるが、お陰で欲望から解き放たれた。強くされたのではない、「無欲」とされたのだ。それはイエスからの元気づけであったと信じる。

《 メッセージ全文 》
「私の再出発」というテーマで、新聞の投稿特集がありました。採用された投稿を読むと、一口に「再出発」と言っても人それぞれ、色々な「再出発」があることを知らされました。

 中学生の頃、いじめに合っていた人が成人式での同窓会をきっかけに過去を払拭できたという告白。夫を若くして失った女性が、特別支援学校に勤め、生徒たちとの触れ合いから元気を取り戻したという話。或いは学校卒業後、職場が合わなくて居場所を見つけるまでに何年もかかったという振り返り、或いは年老いて長年住んだ家を売って、夫婦で老人ホームに入ったという報告など・・。

 色々な再出発があるのですが、再出発そのものは新しい自分の出発というよりは、本来の自分自身を取り戻すという内容がほとんどでした。再出発を強いられることとなった原因のほうが色々あるのでした。そのつまづきの原因は思いがけない病気とかいじめとか外から来るものが多い中で、私が一番関心を持って読んだのが、自分自身の失敗による投稿でした。その方Fさんは30年余りも老人ホームの職員として働いて来た方です。十分ベテランと言って良いキャリアでした。ところが、失敗してしまったのです。ここからFさんの投稿を紹介します。

「失敗は、行政の手続きに関するものでペナルティが伴いました。発覚後、上司の指示のもと通常の業務をしながら休日に失敗について点検し、原因を調べる作業を約1年間続けました。最後には私は自分がすべて否定されたような気になり職場を休みました。自宅にいると世間の目が怖くて日中、外出できなくなりました。」

 こう書かれていました。この方の場合は、仕事上の自分のミスなので、こればかりはどうしようもありません。ペナルティが伴うケースで、中身は知り様がありませんけど、逃げようのない事態です。

 Fさんは一年余りも原因を調べる作業を続ける羽目となり、どれほどしんどかったか想像するのです。決して自分から望んだ失敗ではなかったでしょう。慣れによるうっかりミスの結果が、予想外の大きいものとなったのか・・。その失敗自体より、自分がすべて否定されたような気になるまで追い詰められてしまい、世間の目が怖くて外出もできなくなってしまったというのです。

 全部が分かる訳ではないですが、私にも同じような経験があります。そういう意味でここからは半分個人的な告白になります。若気の至りの失敗ではなく、それなりに積み重ね歩んで来た末の失敗ですから、情けないし恥ずかしさでいっぱいです。でも自分が原因なので逃げられません。Fさんと同じです。内容について今日話せませんが、そういうつらさを少しは理解できます。失敗とかつまづきそのものに勝って、周囲の目を恐れて小さくなってしまうのです。これは大変よく分かります。常に不安や焦りが襲って、寝られなくなりました。結局、心療内科に通いました。薬によって、眠れないとか、不安感とかは、それなりに解消されました。しかし罪意識からは逃れられませんでした。

 Fさんの場合は、上司が訪ねて来てくれたのです。「Fさん働きましょう。原因は仕事を任せきりで点検する者がいなかったからですよ」と言ってくれたそうです。この一言が励ましとなって、二か月後に元の仕事に復帰できたと書かれていました。再出発というよりも、立ち直るためには誰かの存在と、何かの言葉がどうしても必要なのだと改めて思わされた投稿でした。

 さて、今日与えられたテキストには「わたしのもとに来なさい」という小見出しが付けられているように、28節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」という有名なイエスの言葉が記されていました。

 奴隷制度があった時代、自由に生きる権利がなかった時代、手助けのための制度がなかった時代です。一口に疲れた者、重荷を負う者と言っても、それは誰を指すのか、どういう事情であるのか、現代とは相当に中身が違ったであろうことは、意識しておきたいと思います。

 ただ気になるのは、この言葉が語られる前にイエスが語った言葉なのです。25節で、イエスは祈りをささげるようにして、神に呼びかけ、その名を讃えています。その上で「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と語っているのです。

 そして更に一つ前の段落を読むと、そこでは悔い改めなかった町々について叱り始めたと書かれています。本当にこういう順番で、一連のイエスの語りが続いたのかどうか明らかではありません。しかし、悔い改めなかった町々、それも数多くの奇跡が行われた町々と20節にありますので、神の業が示されたにも関わらず聞かなかった町々であり、人々だった訳です。

 この話に続いてイエスは「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して」と祈りのうちに語りました。これらのこととは、神の救いについてであり、赦しについてであり、思いについてであり、業や計画についてであったでしょう。悔い改めず、聞かなかった町々には、この世的に見て知恵があると言われる人や賢いと称される人たちが少なからずいて、彼らの影響力が強かったのだろうと想像します。

 彼らは神の働きについて、知恵で理解し、戒めや定めなどのこの世的な業で判断したものと思われます。ですから、救いとか赦しという時、それに叶う条件を自分たちの基準で設定しただけでなく、その反対の叶わない条件をも設定して世間へ関与しましたし、それが圧力となったのです。

 例えば、今コロナ禍で、どこが正式に定めた訳でもないことを、自粛警察と呼ばれるような意見で、人々を委縮させるというようなことが起りました。どこかでクラスターが発生すると、一斉に責任を問うて攻撃したりする訳です。それと同じように、何らかのつまづきや失敗が起ると、その人は救いや赦しから洩れた存在ということを神になり代わって暗に追い詰める空気を醸成します。それがその人を追い詰める恐ろしい力となるのです。

 イエスはそういう構造を、ここではっきり「違う」と宣言したのです。知恵あると言われている人、賢いと称されている人たちは分かっているようで分かっていない。それを彼らには神は「隠された」と表現しました。そしてそれは幼子のような者に示されたのだと語ったのです。神の救い、赦し、思いは、幼子のように単純に、ありのままにそれを受け取る者に示されるのだ、と。

 私も自分の失敗を本当に悔やみました。何度かは泣きました。繰り返しその出来事の日よりも前に戻る夢を見ました。反省が足りないのかと自問自答を重ねました。長くひきずりましたが、或る日「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神は侮られることはない」という詩編の言葉に出会った時、ようやく救われ、赦された気持ちとなりました。ただ単純に、ただ反省すればそれで良いのだ、それを神は受け入れて下さるのだと思えるようになりました。3年かかりました。

 「だれでもわたしのもとに来なさい。」と語った後のイエスの言葉を続けて思い起こします。「わたしは柔和で謙遜な者だから」と自分の性質についてわざわざ語っています。意味深です。柔和の反対語は粗暴であり、謙遜の反対語は尊大です。疲れた者、重荷を負う者の具体例は分かりませんが、そうであるのに休めない状態が強いられていたのだと推測します。粗暴で尊大な雰囲気が満ちていて、休むことを許さないのです。イエスは「休ませてあげよう」と語りました。世間に充満している休むことも許されないような厳しい監視の目、無言の圧力は、イエスと無縁のものでした。だからこそ自分のくびきは負いやすく、荷は軽いのだと語ったのです。

 ここで「休ませてあげよう」と訳されている個所は、直訳すると、「わたしがあなたを元気づけてあげよう」となります。元気を失って立ち上がる気力も奪われている人に、イエスは「元気づけてあげよう」と語ったのです。休ませるとは、その人それぞれ具体的に元気が出るよう励ましを与えるということではないかと思います。それはイエスによる再出発への力づけです。

 自分自身の失敗を振り返って、二度とあんな失敗、体験をしたくないと当然思っています。けれどもそれ以上に、自分はそういう失敗をした人を追い詰めるようなことをしてはならないと強く自戒しています。機会があるなら失敗談ではなく、この失敗から得たものがあることを語りたいと思っています。それは自分の欲望を捨てることができたということです。何も有名になりたいとか地位を得たいとか、そういうよくある願望を持っていた訳ではありません。でも、一定の存在感を備えたいとか、発言力ある者となりたいとか、密かな欲望、少しばかり偏った願望は正直あったのです。

 失敗を通して、否応なくそれらから引きずり降ろされました。失敗自体が秘密ではない以上、密かな欲望も何もありません。はぎ取られたという恰好です。にも関わらず、それで良かったと思うのです。決して一切の欲がなくなって、めちゃくちゃ良い人間に生まれ変わったのではありません。でも、個人的・独善的な欲望が失われて、それ以上に大事なことがあることが見えて来ました。後はそれに単純に向かえば良いのです。

 涙の数だけ強くはなれませんでしたが、泣いた分だけ無欲とされました。私は、元気づけられました。失敗することを勧める訳では決してありません。が、失敗しても、つまづいても、なおそれに見合った再出発は与えられます。それがイエスの元気づけだと信じるのです。

天の神さま、イエスのように私たちの心を柔和で謙遜なものとして下さい。もし躓いた時、素直に悔い改められるよう、元気づけて下さい。