《 本日のメッセージメモ 》
テキストは、パウロのエルサレム教会への献金依頼。今も変わりないが、献金や募金の依頼はデリケートで難しい。
コリント教会設立後、誰をリーダーとするかの論争が起こり、パウロへの反対者も現れた。テトスからの報告で、誤解が解けたことを知って、今こそ献金再開の好機とパウロは捕らえた。
しかし、あくまでもコリントの人々への配慮がにじむ。マケドニアの諸教会が、自発的に献身的献金をしたことを紹介した後、「命令ではない」(8節)と切り出す。
この世的観点で言えたら楽だったろう。が、パウロはあくまでも信仰に訴える。そのためにイエスの生きざまと、エジプト脱出時の神の過不足ない働きを紹介する。
これらの配慮が功を奏したかどうかは分からない。ただ、パウロの切ない思いは理解できる。
私たちならどうか。
格差のひどい時代。お金も生き方も困っている人がたくさんいる。過不足だらけの人間の現実。
パウロの言葉はコリントの信徒にとって「苦い」ものだったかもしれない。が、忘れないための目覚めにはなったのではないか。
おいしいものが体に悪いという不思議は、神の働きによる。何故そうなのかを考えることは、献金に並ぶ私たちの「生涯のささげもの」だろう。

《 メッセージ全文 》
 今週は説教を作るのにとても苦労しました。それは与えられたテキストが、献金を呼びかける箇所だったからです。正直あまりありがたくありません。と言うか、牧師としてはできたら語りたくない、嬉しくない部類のテキストです。普段よりたくさんの本を読みましたが、面白いものも役に立つものもありませんでした。
 自分で選んだのではありません。教団の聖書日課によります。「生涯のささげもの」というテーマになっています。しかし「生涯のささげもの」と言われても、教会への献金であれ、何かの募金であれ、お金を集めること、それを依頼することは簡単ではありません。とても難しいことです。聞く信徒の皆さんにとっても面白くはない話であるでしょう。

 お寺とか神社とかへ行くと、境内の中にお布施をした人の名前が石柱などに刻まれているのを目にします。ただし、お金の額によって、文字の大きさが違うのです。言うまでもなく、多額の人ほど大きいのです。嫌らしいと言っては他宗教に失礼かもしれません。実にこの世的配慮だと思いますが、キリスト教的にはちょっと受入れ難いところがあります。

 テレビのコマーシャルで、ユニセフの募金の訴えには、腹が立つことがあります。食べるものがなくて、とても痩せている子どもたちが映されるのです。それ自体には反論はありません。事実だし、ただただ可哀想で、同情します。ただ、ご飯時にそれを流されると、普通にご飯が食べられることが罪のように感じるのです。そして、こんなに飢えている人たちがいるのに、何で軍備にお金を使うのか、憤りを感じます。そのお金があったら、庶民に募金を訴えなくても、十分に食べさせることができるじゃないか、そう腹が立つ訳です。CMだって結構お金かかるのに、ユニセフは各国政府にもっと詰め寄ったらどうだ?などと思うのです。

 コロナとの戦いを「戦争」と評したのは前の首相だったと思います。戦争はないだろと反論したかったのは、爆弾が落ちる訳でもないし、食べ物に困る訳でもないだろうと思ったからです。ステイホームの不自由さはあるにしても、住む所・食べるものはある。「戦争」と一緒にしてはいけないと思いました。

 ところが、そうでなくても生活が大変だった、例えば幼子を抱えたシングルマザーたちの中に、コロナ禍で仕事を失って、それこそ今日食べる物に困窮する人たちが少なからずいることを知らされました。そういう人たちへ、食料や生活品などを無料で分けるところがあちこちに生まれたことをニュースで見ました。
 お金がない、物がないことは、やはり自分の想像以上に大変な事態です。そして困っている人が現にいる。このことを身近に思うなら、やっぱりほんの少しでも何かできることをしたいと思うのは、自然な流れです。残念ながら、行政はスピードが遅くて当てにならないから、ということも大いにあるでしょう。募金は案外に庶民にとって案外に大事な助け合いの手段かもしれません。

 さて、今日のテキストですが、最初に言いましたように、パウロが、エルサレムの教会への献金を、コリントの信徒たちに呼びかけている個所でした。書かれた場所はエフェソ、紀元55年頃ということです。聖書の裏の地図8をご覧ください。手紙が書かれたエフェソと相手方のコリントの位置については、次の9の地図のほうが分かりやすいかもしれません。
 第2回めの宣教旅行で、パウロはアテネを経てコリントに行き、教会を建てました。1年ほど滞在して、海路エフェソに戻るのですが、パウロが出た後のコリント教会では、リーダーとしてのパウロへの反対者たちが現れてもめました。パウロにつく、アポロにつく、ケファにつく、キリストにつくなどと様々なグループが出来て論争したのです。その辺のことはコリントの信徒への手紙Ⅰに書かれています。

 この混乱に心を痛めたパウロでした。本当は直接行って誤解を解き、語りたいことも多々あったでしょう。それを手紙にしたのです。コリントの信徒への手紙Ⅱは、実は一気に書かれたものではなくて、時間を置いて書かれた幾つかの手紙の合本です。
 コリントに送ったテトスからの報告を通して、教会の混乱が収まり、パウロへの誤解が解けたことを知らされます。今こそチャンスだと思ったでしょう。この時を狙って、中断していた献金の依頼をしたのです。それが今日の8章と後の9章の文章になります。
 その献金の依頼とは、エルサレムの教会への献金でした。エルサレムは総本山のように思われますが、総本山は総本山でもユダヤ教の総本山であるのです。相変わらず教会への迫害も続いていたでしょう。エルサレム以外が楽ということではないのですが、エルサレムの教会の信徒たちが置かれた状況は、大変厳しいものであったのです。
パウロからすれば、それはかつては熱心なユダヤ教徒として自ら迫害した人たちの状況になります。イエスと出会い、今や外国伝道の先頭に立っているパウロには、どうしてもエルサレムの支援をしたい気持ちが熱くあったことと想像します。
 既にマケドニア州の、例えばフィリピやテサロニケの教会はエルサレム支援の献金をして来たのです。決して裕福ではないこれらの諸教会が、自らをいとわず大いに賛同し、献金をしたのでした。それもどこかからの強制ではなくて「自発的」に、そうしたというのです。それが8章1節からの一段落に書かれています。
比べてコリントの教会は裕福でした。献金が成功すれば大きな成果となりますが、あらゆる人々が集まっているコリントの教会で、そこまで気運を高めることは容易ではなく、とてもデリケートなのです。ですからパウロは懸命に配慮して言葉を綴っているのです。
 マケドニアの諸教会が頑張ったことをまず紹介した上で、コリント教会への献金依頼を「命令として言っているのではない」と切り出します。そして、この献げ物を行うことを通して、あなたがたは「豊か」になる、このことは「益」になると訴えたのでした。持つ者が持たない者の欠乏を補うことは、「釣り合い」が取れることだとも述べました。
 もし、命令として言えたら、ずっと楽だったでしょう。或いは、献金することへの見返りを語れたら、もっと強烈に訴えることができたでしょう。献金の額に合わせて、献金者の名前が大きく彫られる、そういうこの世的見返りがあれば、大いに気持ちをくすぐることができる訳です。

 或いはこれが、何かしら災害への支援のような具体的募金であったら、あれこれ言わなくても直ちに実行できたかもしれません。でもそうではないのです。献金を訴えることは本当に難しいことです。送る相手方の現状が見えないと、なかなか心を動かせません。しかしこの時代、写真もなければ映像もないのです。エルサレム教会の困難を訴える術がないのです。
 パウロは、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」(9節)とイエスの恵みについて書きました。また、ユダヤの民がエジプトを脱出し、食料に困窮した時、神が天からマナを降らせたことを例に挙げ、「多くの集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」(15節)という出エジプト記の文言を述べたのでした。

 イエスがどうであったかということ、神の働きは過不足ないものだということ、これだけをパウロは訴えの力として書きました。信仰への問いかけです。それは懸命に考えた挙句の、苦渋の文章にも思えます。献金を依頼するに、現代の私たちには、いかにも足らない、頼りないイメージに映るかもしれません。もしこれが私たち東神戸教会の信徒に向けて書かれた手紙であったら、私たちはどこかの教会のために献金に励むことができるでしょうか?

 これらのパウロの文章が、ではコリントの教会で効果を発揮できたのか、そのための最善の文章であり得たのか、明らかではありません。しかし、決して偉ぶらず、懸命にコリントの信徒のことを大事にしながら言葉を綴ったパウロの切ない思いだけは、よく分かります。彼らに思寝くことをしないで、しかし言うべきことはしっかり言う、普通のことのようで、普通できにくいことです。

 この時代もそうでしたが、今もひどい格差の時代です。お金に困っているところがいっぱいあります。でもお金だけではありません。生き方に困っている人がたくさんいます。神様の働きに過不足はないことを教えられていながら、私たち人間の現実は余りにも過不足だらけです。

 「良薬口に苦し」と言います。コリントの教会の信徒にとって、パウロの言葉は或いは「苦い」ものに感じられたかもしれません。でもその苦さが、困っている者がいることを忘れないための目覚めとなったでしょう。それは私たちにとっても同じです。おいしい物は不思議なことに体に悪いのです。何故でしょうか?それはきっと神の過不足ない働きの一つによるのです。何故体に悪いのか、それを考えること、それは献金に並ぶ私たちの生涯のささげものであるでしょう。 

天の神さま、他者・隣人の困窮に目を止める者でありたいと願います。イエスがそうだったように、また神さまがして下さったように、その必要に対して祈り、捧げることができますよう、お導き下さい。