豪雨災害による犠牲者を痛ましく思う。一方で執行された死刑囚は?とも思う。命は本来どんな人も重い。
戦争という文字通りの殺し合いの場でさえ、かつて休戦が実現したではないか。(映画・戦場のアリアより)
テキストの著者は「すべての人々」「王たちや高官たち」のために祈りなさいと第一に勧めた。それは信仰者として生きる本道のためだった。何も権力者が守られるための祈りをささげることではない。神の思いを実現するためだった。当時の権力者を超える世界の実現への祈りがそこに隠されていた。
ブルンナーは「聖霊はただ明るくするだけでなく、広くする」と書いた。かしこくされることでもあった。
デューラーの「祈る手」は、自分を支えた人の絵である。一歩下がった歩みを知らされる。
ある牧師は「イエスを知り、関わるとは、狭い意味のキリスト者になることではなく、本当の人間になること」と述べている。

一歩下がって、歩みたい。へりくだるとは、人ではなく神を誇ることだからだ。広くされ、かしこくされ、信仰を通して本当の人間へ。本当の仲間を得るように。

【メッセージ全文】

福岡と大分での豪雨災害は、またしても大きな傷跡を残しました。犠牲となった人々、その命の重さに誰も変わりはありませんが、まだ26歳、それも妊娠中だった女性が、1歳の長男を抱きかかえて亡くなりました。その光景を見た近所の住民が、「この世に神も仏もないのか」と泣き崩れたという、そのニュースに私たちも返す言葉がありませんでした。
一方、先週2件の死刑執行が行われました。うち一人は再審請求を行っていた死刑囚でした。正直、これまたやりきれない思いでいっぱいです。死刑制度には様々な意見があるでしょうが、やっぱり「死んでしまえ」でばっさり切ってはいけないのだと思えてなりません。誰がどのような立場で行うにせよ、勝手に命を奪って良いのか、心に問いかけます。

2005年に「戦場のアリア」という映画が撮られました。1914年、第一次世界大戦のおり、フランス・スコットランド連合軍とドイツ軍がフランスのある戦場で対峙していた時、せめてクリスマスだけはと内心望んだ両軍の兵士たちによって、奇跡的につかの間の休戦が実現した、実話に基づく映画でした。
戦争こそは異論の余地のない殺し合いです。相手は敵に過ぎません。けれども、実はお互いに国家の命令によって否応なく動かされているだけで、ただの敵と思われている相手は、紛れもなく同じ人間で、本当は人は分かりあえる、手を取り合える、その可能性が十分にあるのです。戦場のアリアはその事実を描いた感動の作品だったと思います。

韓国で通り魔に母と妻と息子を殺されたコ・ジョンウンさんが、死刑判決が既に出ている犯人に対して、死刑廃止運動をしています。ジョンウンさんの家族も含めて21名を殺害した犯人です。誰もが死刑は当然と言ういいます。しかしジョンウンさんは家族を殺されて、かえって生命の尊厳に気づいたと言うのです。そこにはキリスト教の信仰が深く影響しておりました。
さて今日与えられたテキストで、著者は「第一に勧めます」、と呼びかけています。第一にです。願いと祈りと取り成しと感謝を、すべての人々のためにささげなさい、と。王たちやすべての高官のためにもささげなさい、と。「すべての人々」、に続いて王たちや高官という言葉が大きなポイントとなっています。
例えば家族や身内、友人、恋人、同胞、また貧しい人や病床にある人や、課題を負う人など社会的弱者を覚えて祈りなさい、それならよく分かります。でもそうではなく、すべての人々のために願いと祈りと取り成しと感謝をささげなさい、と言うのです。しかも更に王たちやすべての高官のためにささげなさい、と言うのです。私には無理な言葉に思えます。権力者のために祈る前に、祈りを捧げるべき最優先の人を思うからです。若い頃は、この著者の言葉に著しい違和感を抱きました。書き手は日和見主義者か、とさえ思いました。

ところがそこには実は、同胞だけでなく外国人、身内だけでなく対立する人々、弱者だけではなく権力者への視点があるのです。このテキストはいわゆる牧会書簡と呼ばれる書物の一つです。パウロの名前を借りて、おそらくはパウロの弟子が記したのです。弟子は師匠であるパウロが、イエスに出会う前までは熱狂的なユダヤ主義者であったこと、そこで犯した多くの罪についてよく知らされていたことでしょう。権力者たちが、弱者を苦しめる手段についても、大いに教えられたに違いありません。当局が行うのはいつも暴力とは限りません。しばしば脅しやでっちあげも行われ、嘘偽りの証言も横行しておりました。
そのように、当時多くの人々がローマ帝国の圧政のために苦しみ果てておりました。とりわけキリスト者は迫害も重なってなおさらのことでした。その意味でこの時代、弱者とは間違いなく著者も含め自分たち自身をも指すのであって、なぜ苦しみを押し付ける人たちのために祈らねばならないか、疑問も沸きますし、怒りも沸いてくるお勧めに思えるのです。しかもそれを著者は第一に勧めると言うのです。

しかし当時の時代状況をよくよく考えながら読んでみると、それは私たちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためだとあるのです。つまり信仰者として生きる本道のため、本筋だと言うのです。もう少し言うと、自分を第一の正義としない戒めなのです。圧倒的な権力の前で、なおそれに屈せず堂々と生きるために、著者自身が祈りの果てに到達した勧めであるのでしょう。

王たちのために祈るとは、何も迫害がなされている現状を肯定したり、甘んじて忍耐しようと呼びかけたりすることではありませんでした。もとより権力者の生活が守られるよう祈るのでもありません。キリスト者、教会が国家に妥協せよ、ということでもなく、逆に教会が国家に影響力を持つようになることを示しているのでもありません。或いはローマ皇帝を始め、キリスト教に反対する人たちに回心を祈り求めることでもありません。

そうではなく、4節に「神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」とあるように、何よりも神の思いが実現すること、そのような社会になることを指しているわけです。すなわち権力者の力を超える良き世界が実現される熱望が、言葉の裏に隠されている訳です。自分を第一の正義とする時、死んでもいい命を生み出します。師匠パウロがかつてそうでした。今王たちがしていることを、自分もする危険性が十分あるのです。そうであってはならない、と。
エミール・ブルンナーという神学者が、「聖霊は広くする」という文章を書いています。
「聖霊と神の喜びの賜物を心の中に持つことは、美しい家や庭を持つ人の場合とは違っております。彼らはその中に入り込んで外のことには何の関係も持たなくなります。聖霊は自己中心的に閉じこもることと一つにはなりえないのです。聖霊は、常に人類に関わる霊であります。神を心の中に持つ人は、他者の事を常に考える人であります。なぜなら、神を愛する人は、神の被造物と神の子たちをも愛するからです、罪とか悪とかは人の心を狭くし、かたくなにし、偏狭にし、こせこせさせます。神は反対に広くして下さいます。聖霊はただ明るくするだけでなく、広くするのです。」

こう書いています。本当にその通りなので、パウロもこの書簡の著者も、聖霊を通して広くされたのだと思わずにはいられないのです。イエスと出会い、聖霊の力を与えられて変えられたのです。韓国のコ・ジョンウンさんもそうです。

ある牧師の一文を紹介します。
「イエスをキリストと呼び、キリスト教という宗教が作られ、教会という組織が形成されてからはイエスを人間の自由の根拠としてみるよりも、キリスト者という特別の人間の専有とされ、教会の主(あるじ)というような表現でキリスト教の独占するところとなる傾向が始まったように思われます。僕たちがイエスを知り、イエスに関わるという事は、狭い意味でのキリスト者になるというよりは、むしろ本当の人間になるということではないでしょうか。本当の人間とは現代的に表現すれば、疎外から回復された人間であり、ニヒリズムを克服し、いやニヒリズムを活かしつつ生きる人間ということになるでしょう。」
怒りや憎しみの余り、つい人の先に立っている自分がおりました。何でも分かり、批評し、裁く、いつのまにか神になってしまっていた自分がおりました。一人で生きているのではないことを忘れてはならないのでした。権力者が悪い力をふるう時代、聖霊を通して、広くされ、かしこく歩みたいのです。本当の人間になるために、本当の仲間を作るために、一歩下がって歩みたい。すべての隣人を思って祈る人でありたいと思うのです。

天の神様、私たちの狭さを打ち砕いて下さい。高慢さを取り上げ、へりくだる者として下さい。へりくだるとは、あなたを思うことだと教えて下さい。そうして私たちの歩みが強くされますように。