《 本日のメッセージメモ》
釜ヶ崎には、相手の懐にズカズカ踏み込まないという暗黙の不問律がある。故に誰でも受け入れるし、居場所が与えられる。公民権運動では、互いがそれぞれの役割を自覚し、自発的に務め合っている。「同じ釜の召し」である。
聖霊が与えられたあと、初代の教会には各々の務めを果たし、かつ分かち合う素晴らしい共同体が産まれた。(使徒2:43~)。本テキストは、その具体例だ。残念ながら、今はもうない。何故だろう。
キリスト教の黄金律と言われる「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」「神を愛せよ」、「隣人を自分のように愛せよ」(マタイ22:37~39)とのイエスの教え。
そこに用いられた単語から考えると、テキスト4:32の訳は、「心と精神を一つにして」が正しい。そしてそこに「思い」がないのは暗示的だ。
人間の思い、意志は一つにすることは難しい。むしろ、違う。しかしイエスは「一つにせよ」と語ったのではない。思いを隣人に向ける時は配慮が求められるのだ。
釜ヶ崎で実現しているあり様は、本来どこでも同じく必要なこと。一人びとりの務めを十全に果たし、互いを認め合うなら、初代教会とはまた違う新たな共同体を生み出せるのではないか。その共同体を目指したい。
《 メッセージ全文 》
コロナ禍の中で、去年のクリスマスに行って以来、釜ヶ崎に行けていません。自粛中です。連絡は取り合っているので、どういう動きになっているのかは分かっています。でも、やっぱり実際に見て、感じたり思ったりすることができていないのが、残念です。
釜ヶ崎公民権運動の運営会議には、私も含めて何人かの牧師がいますし、信徒の方もいます。けれどキリスト教の集まりではありませんので、会議にしても集会にしてもお祈りしたりはしません。
教区の委員会だとかに出席すると、当たり前のようにお祈りから始まって、お祈りで終わる訳です。それはそれこそ当たり前の世界ですが、一歩そこを出ると直ちにお祈りさえない世界となります。
信徒の皆さんも、教会を出れば同じように直ちに日本の一般的な世界となりますから、お祈りのない世界が珍しくはないでしょう。むしろ、会社なり町内会なり、ほとんどの場所ではないことが普通であるでしょう。
でも牧師の場合は、教区とか教団とかの関わりを持てば持つほど、祈るのが当たり前、そしてそれはまさしく自分の仕事の世界なので、釜ヶ崎に行ってお祈りのない世界を味わうことは、私にとって色々な意味で新鮮です。
釜ヶ崎の場合には、どこへ行っても基本的な不問律があって、それは相手のプライバシーに不用意に関わることをしないことです。どこから来たのか、何をしていたのか、自分から言わないことを尋ねたりしません。だからこそ、どんな人も受け入れるし、誰にとっても居場所が与えられるのです。
ですから親しくなるまで、ニックネーム以外何も知らないのが普通です。一緒に飲み食いし、時間を共にするうちに、少しだけ分かって来る。そして詳しくは知らなくても、そのほんの少しで充分に付き合えるようになります。
公民権運動の会議で、例えば何かの集会を行う際、担当は、ほぼ自発的発言で決まって行きます。ほんの少し知ったことを通して、お互いがそれぞれの立ち位置をよく理解していますし、各自自分の務めを認識していますから、役割分担で問題が起きたことはありません。
司会をする人、語る人、チラシを作る人、配る人、会場設営の人などなど、共同で行うことも含めて、サクッと決まります。これは関わっていて、とてもいい感じです。実際にはちょっとした失敗など起ることもあるのですが、それで責任を問うたり、責めたりはしません。課題を問いかけて、次回に経験を委ねるだけです。その辺が、お祈りしたりしないのに爽やかで、教区と違うのです。
或る友人が、教区は「問いかけ」ではなく、「責めてばかり」と言いました。そうかもしれません。責めるのでなく問いかける。自覚的に働きを認め合う。私はこの釜ヶ崎の在り方を「同じ釜の召し」と呼んでいます。
さて、今日はかつて素晴らしい世界が教会で展開されていた箇所を読みました。教会と言っても、まだまだ始まったばかりで、今の教会とはだいぶ事情は違うのですが。
でも、約束の聖霊が与えられたあと、最初の教会がどうであったかを羨ましく覚えます。今日の4章に先立って、2章の43節からの一段落に、「信者の生活」として記録されています。短いので読んでみます。
「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての者を共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事し、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」
こう書かれています。最初はこんなに素晴らしい共同体が産まれたのです。今日の4章では、それがもう少し詳しく具体的に書かれていました。使徒たちの働き、信者の分かち合う生活、どれも文句のつけようのない生活が描かれていました。残念ながら、今はこんなところは多分どこにもありません。いつの頃まで、この良い状況が続いたのか分かりませんが、どうして続かなかったのでしょう。それを解くカギが、出だしの文章にあるように思うのです。
その32節には「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」とあります。これだけを読めば、何もおかしくはない文章のように思われます。
黄金律と呼ばれるイエスの教えがマタイ福音書に記されています。22章の37節から39節です。イエスはいわれた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい」。
ここでちょっとギリシャ語の勉強をしたいと思います。イエスが語った黄金律の、「心」とは、原文でカルディアと書かれています。或る本(いのちにつながるコミュニケーション・冨坂キリスト教センター)では、カルディアとは人格生命の全エネルギーの座。そこで神との出会いを感じる。心臓と関係がある言葉、と説明されていました。
次の「精神」は言語はプシュケーです。自然的・地上的・肉体的生。プシュケーを通して人間は神と結ばれている。全人格、生命力を含め、自分のいのちを保つなど、様々な意味がある。「呼吸」と関係がある言葉、と同じ本で説明されています。
最後の「思い」とは、原語はディアノイアです。思い、理解、知力、意向など、意志の面を代表する、と説明されています。心と精神は言わば心臓と呼吸、どちらも神さまから与えられたもの。それに対し、ディアノイアは人間の意志です。
先ほどの4章32節に戻りますが、ここで「人々の群れは心も思いも一つにし」とありますが、原文にはカルディアとプシュケーと書かれているのです。そうなら、「人々の群れは心も精神も一つにし」と訳されるべきなのです。カトリックのフランシスコ会訳など幾つかの聖書ではそう訳されています。
イエスが語った、「心と精神と思い」。そのうちの「心と精神」を一つとして最初の教会の人々は共同体の生活を送った訳です。そこに最後の「思い」、すなわち人間の意志が書かれていないことが、実に暗示的、預言的だと思えてなりません。
今日のテキストでは、バルナバと呼ばれていたヨセフという人が、自分の畑を売った代金をそっくり差し出したことが最後に記されていました。ところが、続く次の5章には、同じように土地を売ってお金を作ったのに、それをごまかして一部だけを持って来たアナニアとサフィラ夫婦のことが書かれているのです。
誰に命令された訳でもないのですから、一部だけを献金したところでとがめられることではないはずですが、問題は「ごまかした」ということにありました。人間の思い、意志の問題です。
イエスが語り、生きたように従いたい。そこにつながるため、多分人は「心と精神」は尽くすことができるのです。もちろん簡単ではないですが。でも心と精神を懸命に向けることはできる。
ところが最もやっかいなのは、本人の「思い」、人間の意志なのです。心も精神も向けて、それで十分なようでいて、最後の「意志」において人はそれをすべて尽くすことが極めて困難なのだと想像します。
人間の思い、意志すべてが悪いと言っているのではありません。一つにすることが難しいのだと思うのです。と言うより、できないのでしょう。むしろ違うからこそ、人間であるのです。人の思い、意志は、具体的に違う形で表されるのです。例えばキリスト教も、心と精神は同じであっても、思い、つまり意志である形はカトリックとプロテスタントと違うようにです。
ですが、そもそもイエスは同じにせよ、一つにせよと語ったのではありませんでした。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」「神を愛せよ」と語ったのです。直訳すると、「心の全部、精神の全部、思いの全部」です。「心のすべてにおいて、精神のすべてにおいて、思いのすべてにおいて」となります。その上で「隣人を自分のように愛せよ」と続けました。思いを隣人に向ける時は、それが相手の負担にならないよう、配慮が必要なのでしょう。
最初に釜ヶ崎の話を紹介しました。何も釜ヶ崎が何も最上の模範ということではありません。今上手く行っていても、いつどうなるか、いつまでかは分かりません。釜ヶ崎で他者についてずけずけ踏み込まないのは、人の思いに尽くす一つの形であるように思います。色んな人が一緒に生きて行く知恵であり、思いやりです。
ですが釜ヶ崎でそうであることは、本当はどこでも同じでしょう。私たちは地球という神さまから与えられた一つの場所に生かされています。と同時に、それぞれの務めを与えられています。違う形で召されています。それをお互いに尊重し合い、認め合うことができれば、初代教会とはまた違う新たな素晴らしい共同体を生み出せるかもしれません。神様の力に支えられて、その共同体を目指したいと思います。
天の神さま、どうか私たちがあなたに託されているそれぞれの務めを十全に果たし、良き社会を作り上げることが出来ますよう、お導き下さい。