《 本日のメッセージメモ 》
「声」も色々だ。愛がなく、騒音でしかないもの。騒音ではなく絆の声。声から何を聴くか。
テキストには「神の怒りと憐れみ」と小見出しがつけられている。パウロは9章の始めから、ユダヤの民への愛を示しつつ、神の選びは自明の理ではなく、異邦人も救われること、それは全て神の計画によると書いて来た。それに続く本稿も、再度神の計画による異邦人の救いが語られる。
本日の聖書日課は、新約からもう一か所、百人隊長とイエスの会話の箇所(マタイ8:5~)が示される。異邦人の救いという意味で、こちらの方が明快な出来事だ。だが二か所とも、「神の声をどう聴くか」が問われている。
青野太潮(西南学院名誉教授)先生が、「どう読むか新約聖書」(ヨベル新書)の中で、S・スピルバーグ監督のインタビュー返答を紹介されている。彼が神さまからの「感謝」を期待して、神さまの意図を問い続けたように、私たちも緊張をもって神の啓示を出来る限り意図に即して解釈しながら、その啓示に基づいた預言を語り続けたい、と。
どのように聴くことも許されているわたしたちは、せめて自分の都合の良い聴き方に注意し、自分の声を優先することを戒めたい。迷う時、答えは実は分かっている。すぐに「立ち帰り」ができれば幸いだ。
《 メッセージ全文 》
今日は兵庫県知事選挙の投票日です。私も朝、投票して来ました。しかし、この辺りには候補者が誰も一度も来ませんでした。知事選ですから、すべての地区を回ることは不可能ですけど、直接声を聞けないということは、本当に盛り上がりに欠けますね。
代わりに、先週は教会周辺で大きな声を二つ聞きました。一つは、どこかの教会が「イエス・キリストは愛です」とか結構な音量で流す宣伝カーでした。うるさいだけで、騒音でしかなくて、愛を感じませんでした。
もう一つは、何か自分の思い通りにならないで駄々をこねる3歳くらいの女の子の泣きわめく声です。凄い大声だったので、思わず何が起こったのか、外に見に行ってしまいました。するとどうなだめても、静まらないので、お母さんがほとほと困っていました。それでも、女の子はお母さんとずっと手をつないでいるのです。わあわあ泣いてても、手は離さない訳です。お母さんには同情しましたが、何だかホッとしました。騒音ではなく、かえって親子の絆を感じました。
今日は「神の怒りと憐れみ」と小見出しがつけられた箇所が与えられました。パウロの書いた書簡です。この9章前半では、パウロ自身ユダヤ人としてユダヤの民への熱い思いを告白しています。しかし、神さまは選ばれた民とされるユダヤ民族だけを特別に愛される訳ではないこと、ユダヤに生まれたから自明の理で、即選ばれ愛される民になるのではなく、それはすべて神さまの計画によるもの、ということを書いて来ました。
今日のテキストはそれに続くものです。19節に「ところで」とありました。ギリシャ語のオウルという接続詞の訳です。が、「ところで」と訳すると、それまでとは違う話が始まるものと意識されるでしょう。でも、そうではなく、17節・18節で述べたことを受けて、それに関わる話が続けられるのです。ですから、「ところで」ではなく、「それでは」とか、「そこで」と訳したほうが良いのです。新共同訳以外の聖書は、みんなそう訳しています。
で、前二つの節で書かれたのは、かつてエジプトからユダヤの民が脱出した時のことです。エジプトの王ファラオが再三に渡って脱出の邪魔をしました。ユダヤの民からしたら、それは迷惑でしかない行為です。と言うより、命の危険が伴いました。とんでもない「敵」であった訳です。
しかし、そのファラオを立てたのは、他でもない神さま自身で、それはファラオを通して神の力が現わされ、神の名が世界に告げ知らせるためだったと、出エジプト記に記されている通りのことをパウロは書いたのです。人への憐れみもかたくなさも、すべて神自身の計画の中にあるということでした。
そして「それでは」、と続きます。パウロには彼に反論する人、或いはグループの人たちの姿が具体的にあったに違いありません。ですから、その反論の内容も容易に想像し得たことでしょう。ここでは相手が誰かは明示されず、仮想の敵として言葉が続けられます。
ユダヤの民を苦しめたファラオであっても、それも神の計画によるものであると言うなら、何故神さまは人を責めるのか。神のみ心に逆らう、反対することなどできるはずはない」そういう論理の反論です。これは一見その通りに思えます。
けれども、パウロの論点はそこにないのです。焼き物師と焼き物(これも私たちにはなじみが薄いですが、旧約聖書では神と神が造られた人間の関係を表すのによく用いられた例えです)を引き合いにして、悪い焼き物であっても良いものとして使おうとされる神さまの心をこそ思って語っているのです。そのように神は私たちを「怒りの器」ではなく、「憐れみの器」とされるのだと。
そしてそれ、つまり憐みの器とされるのはユダヤの民だけでなく、異邦人もそうであって、そのことは旧約聖書のホセア書やイザヤ書などに繰り返し記されて来たことなのだ、これが今日のテキストの内容なのです。ユダヤ人だけと言うのは、勝手な思い込みの世界ということです。
新約聖書における今日の聖書日課の箇所は、別にもう一つ、マタイによる福音書8章5節からの一段落が選ばれています。そこではローマの百人隊長がやって来て、自分の部下が中風で苦しんでいると訴えるのです。イエスは「癒してあげよう」と即答しますが、百人隊長は、自分はイエスをお招きできるような者ではない、と身を引いて、一言の言葉をお願いするのです。この謙遜な姿勢にイエスは感心し「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と最大級の賛辞を述べたのです。更には、ユダヤの民が救われて当然と考えている人々に「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。」と、異邦人の救いを明言したのでした。そうして直接会うことがなかった部下も癒されたとあります。こちらの箇所のほうが、くどくど書いているパウロに比べて、はるかに分かりやすく、しかも強烈にイエスの思いが伝わって来ます。ただ今日の二つの聖書日課のテキストは、いずれも神の声をどう聞くのかが記されている訳です。もちろん多くのユダヤ人たちは、少なくとも表向きは律法を守り、神を第一にする生活を送っていたことでしょう。けれども、一方で自分たちは選民だから当然というおごりの思いがあり、神の計画について深く知ろうとする態度には著しく欠けていたのだろうと想像します。当たり前と受け取るなら、深く知る必要がない訳です。
青野太潮先生(西南学院大学名誉教授)が「どう読むか新約聖書―福音の中心を求めて」と題された本の中で次のような紹介をされていました。
「ユダヤ人の映画監督スティーヴン・スピルバーグは、かつてNHK―BS1のアクターズスタジオのインタビューの中で、「天国に迎え入れられるとき、あなたは神さまにどういう言葉をあなたに向かって語りかけてほしいですか」という司会者からの恒例の質問を受けた時、ただ一言、「サンクス、フォア リスニング!」と答えていたのがとても印象的でした。「あなたは私の声によく耳を傾けてくれたね、どうもありがとう」という神からの「感謝」の言葉を彼は期待している、というのです。彼は自分のすべての映画製作において、常に「神さまは何を意図しておられるのだろうか」と問い続けているのでしょう。」
もし同じ質問をされたとして、例えば私は神さまからの言葉を何も考えもしていなかったので、まして神さまから感謝の言葉など思ったこともなかったので、スピルバーグの返答に驚きました。青野先生はこう続けておられます。スピルバーグと「同様に私たちも、「私の声をよく聴いてくれてありがとう」という神さまからのお言葉をいただけるように、「緊張」をもって、その神の「声」が語られているはずの「啓示」を出来る限り神の意図に即した形で解釈しながら、その「啓示」に基づいた「預言」を日々語り続ける、そのような歩みを与えられていきたい」と書かれていました。
神さまの言葉をどう聴くか、について、それは私たちに委ねられています。と言うより、基本的にはどのように聴いても「許されて」いることなのでしょう。私たちは日々の生活に追われて、いつもいつでも静かに誠実に適格に聴くことができる者ではありません。重い課題の中で、思うようにならず、願いは聞かれず、その結果神さまに八つ当たりし、暴言を吐き、ついには「神などいないのだ」と諦めてしまうこともあるのでしょう。もともと神の存在など証明しようもないことですから、その諦めも含めて、「許されている」のだと思います。
けれども、いるかいないのか証明しようのない神に聴くことは、何も現実の出来事への対処についてだけのことではないのです。青野先生の恩師である神学者エドアルト・シュヴァイツアー先生は、よくこんな話をされたそうです。
「つまらない説教を聴くよりもひとりで山に登って大自然の中で神と対話するほうがはるかにましだ、などと言う人が時々いますが、しかしその場合には人は、自分の聞きたい声しか聴こうとしないのが常です。ですから、どんなに退屈であっても、自分の思いに逆らった、思いがけない内容を語ってくれる可能性のある説教を、やはり人は大切にしなくてはならないのです。」
これ、私のことを言っているのではありませんよ。どのように神の声を聞くか、それは人に委ねられているけれども、相当に注意しなければ、人は神を自分の自由にできる存在に貶めてしまう危険性がある、ということです。それより、自分より広い深い世界は、必ずある訳です。
やっぱり自分の立場やプライドやしがらみをいったん脇に置いて、客観的に自分ではない彼方からの声に耳を澄ませてみることは、大切なことと思います。最初に泣きわめていた女の子の話をしました。幼子は今は自分のことだけで、何も分かっていないし、意識もしていないことでしょう。それで泣きわめいてはばからない。それがまるで自分の仕事かのようにです。でもいつの日か、それなのに手を放さずにいてくれた人の存在に気づいたり、思い出したりすることがあるかもしれません。
「私の声」を優先することを少し手放してみれば、大抵のことは答えは初めから与えられているのです。帰ろうかな、どうしようかなと迷っているフリをしているだけで、本当は「帰った方が良いに決まっている」と答えは出ているのです。
「悔い改め」とはヘブライ語で「シューブ」と言います。ですが、シューブはもともと「立ち帰る」と言う意味です。あれこれ屁理屈を重ねないで、すぐに立ち帰られたら、きっと幸せだと信じる者です。
天の神さま、あなたは私たちの思いをよくご存じです。その上で私たちのアクションを待って下さいます。どうかその深い思いに応えて、あなたの元にいつも立ち帰ることができますよう、お導き下さい。