《 本日のメッセージメモ 》
Yさんは、57年前の東京五輪の折、テレビに映る状況と自分の家の環境の余りの落差に違和感を感じた。大きな感動を与えられたと思い出を語る首相とは随分開きがある。
パウロは神と「和解させていただきなさい」(20節)、と強く勧める。だが、すんなり入って来ない。一つにはイエスの死への受け取り方の違いがある。まさにその死を推進した側に立ったパウロからすれば、イエスの死は「すべての人のため」(15節)だったろう。
「和解」という言葉も、私たちの日常的でなくてピンと来ない理由だ。意味を調べても、結びつきにくい。
しかし原語「カタラッソー」は、もともと或るものを別のものと「取り替える」という意味だ。そうであれば、人を愛する神の愛と、神への恐れを取り替えたいと思う。
 コロナ禍で始まった東京五輪。もはや経済発展を期待できる環境にはない。でも、神さまの示される愛だけは、これからも右肩上がりであって欲しい。
 Yさんが体で歴史を感じたように、私たちも体で聖書の言葉を聴き、歴史を誠実に理解しながら、信仰を耕したいと思う。

《 メッセージ全文 》
 先週金曜日からオリンピックが始まっています。いよいよ始まりました!という高揚感はやっぱり乏しくて、とうとう始まってしまったんですね、という痛々しさの方が先だっているように感じています。
 開会式の前日の新聞に、福岡県にお住まいのYさんからの投稿がありました。全文紹介します。

 「57年前の東京五輪の際、私は小学1年生だった。テレビ中継で開会式が始まろうとしていた時、私は外で野良仕事をしていた父母に一緒に見ようと声をかけた。真っ赤になった顔で笑いながら、「おう、一人で見ておけ」と父。母もにこにこ笑って私を見ていた。
 いよいよ始まる。白黒テレビで色は分からなかったが、白のズボンに赤のブレザー、白いハットの日本選手団が入場してきた。「えっ」。違和感があった。本当に同じ日本人なのか、日本で開会式が開催されているのだろうか。さきほどの父母の働く姿と比べ、環境の違いに泣きべそをかいたことを五輪のたびに思い出す。競技の記憶は、共感できたマラソンのアベベ以外にはほとんどない、他の競技の記憶は、体が消去しているような気がする。
 2度目の東京五輪はコロナ下で開催される。日本の子どもたち、とくに東北の子、医療従事者や飲食業の親を持つ子は、どんな思いで五輪を見るのか。大人になってどんな記憶として残るのか。」

 こういう投稿です。6月9日に、国会で党首討論が行われました。その折、菅首相は相当の時間を使って1964年の東京オリンピックで感動を与えられた思い出を話しました。特に「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーの活躍のことは、他のところでも語っています。その頃首相は高校生でしたが、Yさんとはだいぶ記憶の様相が違うようです。地方出身で苦学生だったという首相と、まだ小学校1年生だったYさんと、オリンピックの思い出のこの違いはどこから来るのでしょう?

 さて、今日与えられたテキストは、小見出しによれば「和解させる任務」が述べられた箇所の一部に当たります。パウロは5章の11節から始まり、6章の13節まで、神から与えられた「和解」という恵みを大事にして生きようと呼びかけているのです。

 18節と19節をもう一度読みます。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」
 こう書き、続く20節では「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」と強い勧めを述べているのです。

 皆さん、いかがでしょうか。「神と和解させていただきなさい」というパウロの呼びかけを、どう受け取りますか?すんなり心に入りますか?
 実は私はすんなり心に入らないのです。二つ理由があります。パウロは一つ前の段落、25節で「一人の方はすべての人のために死んでくださった」と書いています。それはパウロにとって、そう表現するしかないイエスの死への思いである訳ですが、私には、イエスの死が、皆の罪を背負って皆になり代わって与えられた死だと思えないからです。イエスの死は、現実的には、ローマに政治的に売られたことによる死だったし、当時のエルサレム上層部の人々からのやっかみと差別によって行われた犠牲の死だったと思うからです。
 何よりも、イエス自身が「自分は人々の罪を背負って死を選んだ」と言ったなどと、福音書のどこにも書かれていません。本人が言ってもいないことを、勝手に美徳のようにして祭り上げるのはおかしいと思うのです。これが一つの理由です。
 もちろん、当時でさえ法的にも無理があった十字架刑で、明らかな冤罪でした。理不尽、不条理な死であったことは間違いありません。その非常識な十字架刑に、もし自分がその場にいたとしたらという想定をします。多分、弟子たち同様に逃げ去ってしまったに違いないと想像するのです。或いは、総督からの「誰を釈放するか」の問いかけに、背後の声に煽られて「イエスを十字架につけよ」と叫んだ群衆の一人だったかもしれない、そうも想像するのです。少なくとも、そのところで皆に冷静に自制を求め、「死刑反対!」を叫ぶことはなかった、勢いを止める何の力も手立てもない者だったと認めるのです。

 その意味合いで、自分は、十字架刑を結局手助けした側に立つ者だという罪意識を自覚します。でも、では、同じように十字架の下で何もできなかったマリアら婦人も同じように罪があるとは言えないのです。むしろ彼女たちは、あの場でできる最大限のことを確かにしたのでした。
 しかしパウロは、イエスの死後、思いがけない出会いがあってキリスト者とされた人間です。イエスの死までは、熱狂的なユダヤ律法主義者としてキリスト者を迫害して来た側の人物でした。イエスに対して具体的な罪の意識があって当然です。にも拘らず許されたとすれば、イエスの死は自分のためだったと受け取ることも自然な流れでしょう。パウロと私たちはちょっと立場が違うと思っています。

 その上での「神との和解」という言葉を、ですからパウロとは違う立場から考えたいのです。「和解」という言葉は、それほど日常的に用いる言葉ではありません。ピンとこないのです。それがすんなりと受け入れにくいもう一つの理由です。

「和解」を辞書で調べると、概ね二つの意味があります。一つは、争いを止めて、仲直りするという意味です。もう一つは裁判用語で、争いを生じている双方が、互いに落としどころを探って、少しずつ譲歩して、適当なところで争いをやめるということです。これは本当の意味での仲直りではなく、言い分は本当はまだあるけれど、平行線のままでは仕方がないので、この世的に「妥協」することと言っていいでしょう。

 パウロの言う和解は、どう考えてもこの世的な妥協ではないはずですから、本来の意味合いでの、争いを止めて仲直りをするということだろうと思われます。しかしその場合、神と人との争いとは何なのでしょうか。私たち人間が神に抗うことはあり得るとしても、神が人間に何の争いをするのか見当がつきません。神からの争いはないのに、なお一方的に「神に和解させていただく」、もっと端的に言えば「神と仲直りさせていただく」とは、どういう意味なのでしょう。正直に言って、私にはよく分かりませんでした。

 「和解させる」と訳されているカタラッソーというギリシャ語、これはたくさんの聖書を調べましたが、どれも「和解させる」と訳されていました。けれどカタラッソーは、もともとは或るものを、別のものと「取り替える」という意味であるのです。例えばそれは敵意を友情に取り換えるというような、対立しているものをそっくり交換するという意味の言葉なのです。
 であれば、人間の思いと神の思いを取り換えるということになるのかと考えます。人間は、結構普段、自由自在に生きていながら、どこかで神を恐れています。私たちにとって、神は愛の存在であるということ以上に、罰を与える怖い存在である訳です。だからこそ、パウロも罰の神を恐れ、ひたすら律法を守ろうと頑張って生きたのです。

 しかし、罰の神のイメージは、実は人間側の勝手な想像に過ぎません。それこそ、イエスをこの世に送りたもうた神の愛を思うなら、そこには罰を与える神の想像はあり得ないのです。勝手に怖がっている人間と、どこまでも人を愛する神、その思いを取り換えること、それが和解するという意味であったなら、パウロの言葉が違った新鮮さで迫って来るのではないでしょうか。

 菅首相は、ご自身地方の出身で、苦学生だったと聞いています。それでも、というよりそれだからこそ、1964年の東京オリンピックに輝く未来を見たのでしょう。何も間違いとは言いません。実際、その後の1970年大阪万博までは、戦後の日本が高度経済成長を遂げた、一面では輝く軌跡を描いたのでした。

 それを否定しないのですが、一方で、この高度経済成長は、各地に数々の公害をもたらしました。車の排気ガスなど大気汚染があり、工場排水が垂れ流され、深刻な健康被害を起こしました。また、日本が経済成長してゆく陰には、それを陰で下支えする人たちが悲惨な環境のもとにいましたし、日本の経済発展が発展途上国の元にあったことも忘れてはならないことです。そしてそれは今も続いている訳です。

 Yさんは57年前の東京と地方の格差に愕然とし、マラソン以外の競技の記憶は体が消去しているような気がする」と書きました。彼は当時のオリンピックとそれに伴う格差を体感覚で、生活の中で感じ取ったのです。そして7人に一人が貧困家庭と言われる現代、今も格差は厳然とあります。だからこそ、「日本の子どもたち、とくに東北の子、医療従事者や飲食業の親を持つ子は、どんな思いで五輪を見るのか。大人になってどんな記憶として残るのか。」と言葉を続けました。

 同じ時代に私たちも生かされています。コロナ禍、無観客のオリンピックを、私たちは信仰者として、どう見ることでしょう。見たい人は見る、見たくない人は見ないといった、映像を見るかどうかの話ではなく、アスリートを応援しながらも抱いている違和感をどう受け取るかということです。1964年のような経済上昇への期待はもはや望めません。多分望んでは駄目なのです。予測によれば今後、日本の人口は加速度的に減って行きます。

 パウロは2000年前に「取り替えよう」と呼びかけました。お金による幸せでなく、心の幸せへと取り換えて行きたいと思います。聖書の言葉を体で受け止め、時代を受け止めたいのです。何があろうとも、愛だけはこれから先も右肩上がりであって欲しいと切に望みます。

天の神さま、言葉を吟味し、時代への誠実な理解のもとで、私たちの信仰を耕したいと願っています。どうぞ固くお導き下さい。