《 本日のメッセージメモ 》
現在ヤクルトでプレー中の青木宣親選手。大学3年の時の練習試合でミス。監督から叱責され、もう未来はないとくさった。
その時、同級生が「海を見に行かない?」と誘ってくれた。その小さな出来事で立ち直ることができたという。
テキストは10章全体が、12弟子を派遣するに当たってのイエスからの厳しい言葉。これから待つ先の予想について、イエスは一切をごまかさなかった。一見、やる気を失うような予測に満ちる、
けれども、「言うべき言葉は与えられる」「逃げて良い」「師以上でなくて良い」と、真の励ましを随所に盛り込んで語っている。
中島らもさんは「一人の人間の一日には、必ずその日の天使がついている」と書いている。パウロにとってのバルナバは、まさしくそういう存在だった。
イエスの言葉が信じられるのは、見返りが弟子たちにあるとは一言も語っていないことにある。それは聞いた人に与えられる(42節)のだと。弟子たちの業は無駄には終わらず、次へつながれるということだ。
絶対絶命のピンチ、闇夜の道を照らす月は与えられる。そこからの展開がある。一杯の冷たい水を差しだすことのような、万一、闇夜の月、天使として用いられるとすれば、望外の喜びである。

《 メッセージ全文 》
 今日でオリンピックが終わりますが、明日から高校野球が始まります。中断していたプロ野球も今週再開されます。プロ野球では、今年大谷翔平選手や佐藤輝明選手の活躍が注目されていますが、ヤクルトでプレーしている青木宣親選手の素敵な記事を読みました。「もうプロになれない・・絶望から救った「海にいかない?」と題された記事です。
野球に興味のない方もいらっしゃると思います。青木選手は今39歳、早稲田大学からヤクルトに入り、大リーグでも6年プレーして、2018年にヤクルトに帰って来ました。「安打製造機」と呼ばれ、今年の5月には史上4人目の日米通算2500安打を記録しました。そして、なお3000本を目指して頑張っている凄いプレーヤーです。

 その青木選手、早稲田時代の3年生のときの練習試合で、痛恨のミスプレーをして監督から厳しく叱責されました。もう試合に出してもらえないと感じるほどの重圧を受けて、青木選手は激しく落ち込みました。毎日行っていた夜の自主練習も止めました。

 その異変に、同じ学年で学生コーチをしていた竹内さんが気付いたのです。寮を訪ねた竹内さんは憔悴している青木選手を見て言葉をかけました。「明日は休みだから、俺の実家近くの海に行こう!」

 そして翌日、半ば強引に湘南に連れて行って海水浴をしたのだそうです。竹内さんは特別なことは何もしませんでしたし、言葉をかけることもありませんでした。それが良かったのです。宮崎から上京して初めての海。青木選手は少しずつ嫌な気持ちが薄らいで、帰り際にはもう気持ちを切り替えることができたのだそうです。

 翌日から練習を再開し、その年の東京六大学の秋季リーグで首位打者となり、次の年のドラフトでヤクルトから指名されたのでした。
 何気ないことですが、それが自分を大きく変えてくれた。「あの夏がなかったら」と青木選手は今でも思うそうです。もうアカンと一度は思い、意外な短時間で立ち直ったのは、海に行こうと誘ってくれた友人によってでした。全く予想外の支えだったと思います。

 さて、今日与えられたテキストは、12弟子を派遣するに当たって、イエスがかけた励ましの言葉でした。10章全部に続く記録の中の一部です。そして、励ましと言いましたが、「迫害を予告する」と小見出しにつけられているように、まさしくその通りの言葉が語られていました。

 まずは最初16節の、派遣は「狼の群れに羊を送り込むようなもの」という分析です。次には17節の「地方院に引き渡され、会堂で鞭うたれる」、18節「総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」という予測が続きます。

 更に21節の「兄弟は兄弟を、父は故を死に追いやり、子は親に反抗して殺されるだろう。」22節、「私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」という予告となるのです。
 これらを聞いて、心が支えられ、よしと元気を与えられ、いざ出発するぞと気持ちを熱くされた弟子がいたでしょうか?到底そうは思えません。むしろ落ち込むような言葉の連続です。
かつて同志社の予餞会で新卒生への送る言葉に「何一つ苦労しないで、楽しいことばかりでありますように」と書いた先輩がいました。何一つ苦労ないなんて、そんなことがあるはずはありませんし、楽しいことばかりである訳もありません。分かり切っていることです。でも彼はふざけて書いたのではないのです。苦労はあるし、しんどいことも多々あることを十分に知っているから、敢えてそう書いたのです。

 それに比べて、イエスの語った送る言葉は、すべてが冷静な現状分析に立っています。楽しいどころか、ひどい目に確実に合うという身もふたもない予測であり、予告であるのです。頑張るぞという気力がそがれ、やっぱり止めたほうが良いと迷いが出るような厳しさ・冷たさにも感じられます。嘘でもいいから、これからの歩みへの希望が語られてしかるべきではないか、そのようにも思うのです。

 人のためのように装いながら、実は自分のことしかない言動を「おためごかし」と言います。イエスはそのようなおためごかしの言葉をかける人ではありませんでした。しかも相手は自分で選んだ弟子たちなのです。これから先に待つ現実をごまかしたりしませんでした。どこかの誰かのような、根拠のない安心・安全を口にすることなどなかったのです。

 その上よく読んでみれば、厳しい言葉の中に、深い愛から来る真の励ましが随所に盛り込まれていることに気づかされるのです。まずは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」というお勧めです。
 ただし、なかなかそう容易く賢くて、状況を捕えて冷静に行動できはしないのです。だからこそ「何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる」(19節)と断じたのです。
 また、「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」(23節)と語りました。「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」(25節)とも語りました。
 必要なことは与えられるし、無理だと思えば逃げて良い、師以上のことをする必要など何もない。だからどんなことがあっても大丈夫、という影の励ましをイエスはちゃんと弟子たちに与えたのです。細かいことを言えば、そもそも師であるイエスのようには到底なれないという深読みはあるのですが、イエスがここで語りたかった最大のことは、自分一人の努力だけで生きなくても「全て大丈夫」という一点にあったと思われます。

 その逆のこと、個人の努力がすべてという世界だったら、私たちはきっと誰もが「何をどう言うべきか、普段からよく考えて備えておきなさい」と言うでしょう。また、「逃げずに真っ向から挑みなさい」と叱咤するでしょうし、「師を超えるよう努力しよう、そのくらいの気概を持たねば駄目だ」と激励もすることでしょう。世間的な人生の成功を望むのならそうなります。

 けれども、イエスのこれらの言葉は、自分が師であるばかりに引き起こされる「反対」の出来事、すなわち受け入れられない状況に見舞われる弟子たちの予測の元に語られているのです。反イエスの嵐を前にして、絶体絶命のピンチに立つであろう弟子たちです。でもお先真っ暗、もう絶望ではない、暗闇のよういてで、夜道を照らす月がその時必ず備えられることを、イエスは懸命に語ったのでした。

 作家の中島らもさんが「一人の人間の一日には、必ず一人、その日の天使がついている。」という言葉を随想集に残しています。
 「ひどく落ち込み、思い詰めて自死すら考えた時、知人から思いがけない電話がかかってくる。ふと開いた画集の中の一枚の絵に震える。そんな偶然に救われることがあれば、それがその日の天使なのだと作家は言う。幼児や酔っ払いかもしれないが、彼らが神の使いとして日に一度、誰にも訪れるのだと思えば、ふんづまりの毎日にも隙間が空く」と紹介文にありました。青木選手に「海に行こう」と声をかけた竹内さんは、まさに天使だったでしょう。

 私は天使への期待はただの人間的期待ではないと思っています。皆から不信を抱かれ、進むも引くも極まったパウロでしたが、全く思いがけないバルナバという人物との出会いが与えられました。偶然救われたのでは決してありません。パウロにとってバルナバは、必然の月明かりであり、中島らもさんの言葉で言うなら「天使」だったと思います。そしてそこから新たな展開が生まれて行きました。

 イエスは大丈夫という励ましを語りましたが、その結果が弟子たち自身に帰って来るとは一言も言いませんでした。それだから信用できるのです。弟子たちの業が無駄になることはないと保障したのです。
 イエスはこの弟子たちへの励ましの言葉の中で、こうも語っています。10章最後の42節です。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者のひとりに、冷たい水一杯でも飲ませてくれるひとは、必ずその報いを得る。」と。

 私が報いを得るのではないのです。弟子たちに報いがあるのではないのです。誰かに報いがある。イエスの福音に耳を傾ける人に報いがある。その人は必ず報いを得る、とイエスは言いました。無駄にはならず、繋がれて行くということです。それをこそ信じます。報いなどない、私には月もなかったし天使も現れなかったと言って、へそを曲げたくはありません。イエスの福音を信じるが故に、私も私自身が冷たい水一杯を用意する人でありたいと思うのです。

天の神さま、すべてが見えない暗闇をあなたはよしとはされません。必ずそこに道を照らす月を備えて下さると信じます。感謝です。私自身が誰かの月、天使として用いられるなら、なお望外の喜びです。どうぞお用い下さい。