《 本日のメッセージメモ 》

或る70代の女性は、病気で迷惑をかけた夫から厳しい言葉を吐かれ、立ち直ることができない。「家族とは何?」との重い問いかけに、回答者の上野千鶴子さんは「悪い事だけじゃなく、良いこともあったでしょう。家族こそ「戦友」なのです、と答えた。

テキストは、イエスを訪ねて来た母と兄弟たちへのイエスの言葉。「家族とは?」の問いかけである。

家族はこの時自分たちの言い分だけで頭がいっぱいだったろう。それを受け入れたとして、周囲から疑問もなかったはず。だがイエスは、血縁を超えて「天の父の御心を行う人」が家族(49節)と語った。

米映画「私の中のあなた」(2009年)では、難病の長女を思う余り、他を顧みない母、それに半旗を翻す次女を通して、それぞれの人生の重みが描かれる。

悪いこともあれば、良いこともあった。人生は喜びも悲しみも良く歳月である。母マリアも兄弟たちも後に変えられて行った。

私たちの人生もそうであって欲しいと願う。命を一人びとりいとおしむこと。それが「神の御心を行う」ことだと信じる。

《 メッセージ全文 》

或る70代の女性が次のような相談の投書をしました。

「主人は希少ガンで入退院を繰り返し、一昨年に他界しました。私は20年間、そううつ病を患ったあと、5年ほど前にようやく主治医から薬を飲み続けることを条件に、「もう大丈夫でしょう」と言われました。

 主人が亡くなる半年前のことです。「あなたの病気のために大変な思いをした。精神的にも身体的にも大変な思いをした。もう顔を見たくない、話もしたくない」と言われました。そして、「人殺し」とも。

 悲しくて悲しくて、がく然としました。でも、そう言われても仕方がないことだとも思いました。主人は出世もあきらめ、やりたいこともできなかったのです。想像を絶するような犠牲を強いてしまったのです。謝っても謝っても許してもらえないと思いました。

 いまさら供養になるとも思いませんが、仏壇にお線香をあげ、お墓参りをし、般若心経をあげています。それでも、いまだに遺影を正視することはできません。誰にも話すことができず、ため生きばかりが出てきます。主人から言われた言葉は寝ても覚めても耳から離れず、心が晴れることはありません。

 子どもたちにも筆舌に尽くしがたい迷惑をかけたことを、大変申し訳なく思っています。この先、どういう思いで生きていけばいいでしょうか。」

 こういう相談です。ものすごく重いです。皆さんなら、どう答えられるでしょうか。

私はにわかに何も思いつきません。悲しいかな、言葉が出ないです。

 回答者の上野千鶴子さんは素晴らしい返答をされていました。

「それはおつらいですね。それでなくても心が折れやすいのに、亡夫から言われた言葉が耳について離れない、そしてそんなことを言われたなんてつらすぎて誰にも告げられない・・・よくぞ思い切って投稿なさいました。

 心の病と診断されてよくも死なずに生きてこられましたね。まずそれだけでも自分をほめてやりましょう。もし万が一あなたが自殺でもしていたら・・・「人殺し」として自分を責めなければならないのはご家族の方だったでしょう。少なくともあなたが耐えて生き続けたことで、ご家族をその思いから救いました。

 心の病を抱えた家族と共に暮らすのは筆舌に尽くしがたい経験でしょう。ご家族はそのあいだもあなたに寄り添ったのですね。自分の時間が残り少ないと感じた時に、「大変な思いをした」と気持ちをぶつけたくなるお気持ちもわかります。「人殺し」はきつい言葉ですが、「あなたのせいでボクの寿命が縮んだよ」と言いたい思いだったのでしょう。

 とはいえ、人の気持ちは言っていることではなく、やっていることで判断するしかありません。「別れたい」と常日頃言い続けている夫婦が最後まで添い遂げたら、結局「別れる気がなかったのね」と解釈するほかありません。20年前に発症なさったのなら何かきっかけがあったのでは。夫があなたの病気に忍耐強くつきあってきたのは、もしかしたら贖罪のお気持ちがあったのかも。死の半年前に心無い言葉を吐かれても、最期をあなたに委ねるという選択をなさったのでしょう。その言葉を口にした時には死期が近いとも思わず、とりかえしがつくと思っておられたかもしれません。この私も、死にゆく父に向かって取り返しのつかない言葉を投げて、臍(ほぞ)を噛む思いをしたことがあります。

 ご家族も大変な思いをなさったでしょうが、一番つらく苦しいのはご本人。追い詰められている時には、周囲の苦しみに気持ちが届かないものです。いま、夫や子どもの苦しみを理解し感謝なさるほどに回復したご自身を認めてやりましょう。あなたの方でも夫の希少ガンの闘病に付き合ったのですし。

 成人した子どもたちと夫の思い出話をしてあげてください。きっと悪いことだけでなくいいこともあったでしょう。つらかった時間をよく乗り越えたね、とご家族でいたわりあってください。家族こそ「戦友」なのですから。」

 本当にしみじみと心に染み渡るアドヴァイスだと思います。家族って何でしょう?夫婦って何でしょう?この深い問いかけに、上野さんは、悪い事だけでなくいいこともあったでしょう。家族こそ「戦友」なのです、と答えられました。

 これを、とても短くまとめることができなくて、投稿も回答も全文を紹介しました。さて今朝与えられたテキストもまた、「家族とは?」という深い問いかけがなされた箇所でした。

 いわゆる共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカすべてが同じ出来事を記しています。少しずつ違うところはありますが、合わせて読んで見ると、イエスが群集に話をしている最中に、母と兄弟たちがやって来たのです。母とはマリアであり、兄弟たちとはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダだったと推測されます。

 何をしに来たのかは書かれていません。マタイは「話したいことがあって」とだけ書いています。「外に立っていた」と46節の続きにあります。外とは、普通に想像すれば、家の外ということでしょう。でもイエスの話を聞きに詰めかけた群衆の「外」とも受け取れます。入れなかったのか、入らなかったのか・・・。

 ともかく人が大勢いて、イエスにいきなり近寄れない状態でした。マルコの平行記事では、「人をやってイエスを呼ばせた」とあります。多分そうだったのでしょう。そしてそれが母マリアや兄弟たちの内面の思いを表しているのです。

 どのような用事があったのかは定かではないにしても、外に留まった家族から、緊急事態だったとは思われないのです。更には息子イエスが今、そこでどういう状態にあるかは、見ただけで分かったはずでした。大勢の人がイエスの話を聞きに集まっていたのです。イエスもまたそれに応えて話を続けていたのです。

 しかし、家族にとって、それは他人の都合に過ぎませんでした。母と兄弟という極めて強烈な血縁で結ばれた者、最も身内である者がやって来たのです。いったん中断して、まずは出て来るか、それとも無理にでも自分たちを中に迎え入れるかして、自分たちの伝えたいことを聞くべきであろう。そういう一方的な思いが十分に透けて見える箇所だと思います。

 家族がやって来た理由は何も書かれていませんが、彼らからせめても肉親の愛情が感じられる言動があったなら、事態は違っていたのかもしれません。ただ本来、長男が負うべき責任を放棄し、家族を捨てて伝道の旅に出たイエスでした。家族からすれば、説得して連れ帰るか、それがダメでも何某か不満やら言い分やらをぶつけたいと思ったとして、無理からぬことだったでしょう。その結果、冷たい態度しか思い浮かばない訪問となってしまいました。

 血縁関係はなかなかに難しいです。何も問題がなければ、他人には結び得ない絆があり、黙っていても受け入れられる温かい素地があることでしょう。しかし、そこにひとたび世間体とか、この世的価値観が顔をのぞかせた途端、身内なのに他者以上の圧力がかかり、途端に憎しみさえ沸いて来ることになるのです。始めに紹介した女性も、夫でなく他人から言われたのであれば、そこまで傷つきはしなかったでしょう。夫だったから衝撃が大きく、かつ消えないのです。お気の毒と言う他ありません。

 しかし、ここで何もイエスが家族を嫌っていたなどと書かれている訳ではないのです。自分たちを優先してしかるべきと思っていたに違いない家族。それが当然だと感じたかもしれない目の前の弟子たちや群衆たち。その双方に向かってイエスはこれが家族なのだと宣言しました。それは、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人」なのだ(49節)と。

 これは聞きようによっては、血縁関係を否定したとも言える衝撃的な出来事だったと思われます。もしイエスが、話を中断して自分の家族を迎え入れたとしても、誰もイエスをとがめ責める者も、疑問に思う者もいなかったでしょう。衝撃的な出来事なのに、だからこそ記された出来事なのに、それを衝撃として受け止めた誰のことも書かれていないことが、印象的です。多分、マタイは、否定したというより、血縁を超える人間関係をイエスが「選んだ」ということを伝えたかったのだと思います。

 「私の中のあなた」という映画がありました。原題は「マイシスターズ キーピング」ですが、邦題が悪くないです。実話に基づくという2009年のアメリカ映画です。白血病を患う娘ケイトのために、両親、特に母親のサラは懸命に出来る限りのことを尽くすのです。そのため妹アナは小さい頃から献血や骨髄移植を強いられ、体はボロボロになります。兄テイラーは放っておかれ、いつも自暴自棄です。腎臓まで移植を要求された時、ついにアナが拒否して、母を告訴するのです。妹の人生を壊してまで生きたいなどとケイトは思ってはいませんでした。アナも懸命になっている母を憎んでいたのではありませんでした。ただ、誰にも、自分にもそれぞれの人生があると訴えたかったのでした。

家族とは何かを問う映画でした。亡くなる日の晩、精神的にも疲れ切って泣く母サラを、ケイトが病床で抱きしめて「大丈夫だよ」と声をかける場面がありました。死んでゆくケイトの方が母親にも見え、また神のようにも見える場面でした。私の中のあなたであり、あなたの中の私でした。

 家族は、上野さんが書いたように、色々な出来事を誰よりも共有し、思いを分かち合う「戦友」なのかもしれません。だからこそ悪いこともあれば、良いこともきっとあるのでしょう。良いこともあれば悪いこともあるではありません。今日のテキストの出来事は、イエスの家族にとっては、ここでは悪い思い出となりました。けれども、それでは終わりませんでした。母マリアは、この後、イエスの最後までを見届ける人となりましたし、兄弟たちは初代教会を支える人となって行きました。それは、きっとイエスが語った「天の父の御心を行う」人たちが新たな家族だと思える人間関係を与えられて行ったからに違いありませんでした。それこそ、喜びも悲しみも良く歳月と言える人生でした。

 私は先の女性にも、そう言える人生となって欲しいと思います。失敗も後悔も反省も多々ある人生だけど、それだけではない。良いこともあったでしょう。思いがけない出会いも与えられたでしょう。もし私が幸せなら、それを支える周りも幸せでなければ偽りになります。それをこそ思い起こして、後の人につなげて欲しいのです。同じように私たち一人ひとり、そう言える人生であって欲しいと願います。命をいとおしむこと。それは私個人の願いではありません。イエスが語ったように、それが「神の御心」を行うことだと信じる願いからです。

天の神さま、神の御心を行う人が家族との、イエスの言葉に感謝します。どかそのような出会いと関係をそれぞれの人生に満たして下さい。