《 本日のメッセージメモ 》
五輪に続きパラリンピックが始まり、再びメダルの話題が続く。我慢とか努力の苦手な私などは、アスリートたちを、ただ凄いと思う。が、予想外の結果に終わった内村航平選手や新体操の選手たちの言葉から、案外に「普通」を感じられて親しい。
テキストは一見、パウロの「将来の栄光目指して、今の苦痛に耐えよう」との呼びかけに思える。だが、彼のいう栄光は「見えないもの」で、真の自由を指している。
パウロもかつては律法厳守の生き方(努力)ができる人だった。しかしダマスコ途上でのイエスとの出会いを通して変えられた。そして「うめき」が聞こえるようにされた。
パウロの言う「忍耐」は、逃げないことではなかったか。
逃げない生き方も色々だ。すり抜け、かわす方方法もある。法外な要求を替え歌を歌ってしたたかに生きた庶民たちもいた。
「人生に悩んだから聖書に相談してみた」(角川書店)は優れものだ。「思い通りにならないところにこそ、神の導きがある」と書く。
かつて意識高く生きたが、その人生計画が打ち壊されたパウロ。だが、それで終わりではなかった。
本当に命を喜んで生きるために、例えば歌いながら耐えたい、逃げないでいたいと思う。

《 メッセージ全文 》
 今日の聖書日課のテーマは「忍耐」です。それを見た途端、わちゃー、無理と思いました。忍耐とか我慢とか、努力ということが大の苦手だからです。「好き」という人もいないだろうとは思いますが、「何かを目指して頑張る」という生き方ができない者に、「忍耐」について語る資格はない気がします。それでも務めですから、受けるしかありません。

 今週はパラリンピックが始まります。またメダルが話題になることでしょう。オリンピックが終わってこのかた、見事メダルを獲得した選手たちが、テレビ番組に出演していました。アスリートである彼ら彼女らこそは、目標を目指して頑張って来た人たちです。それこそ血のにじむような努力を重ねて、遂に念願のメダリストとなりました。
 惜しくもメダルを逃した選手もいて、中には競技が終わった瞬間、(次の)パリ五輪を目指しますと公言した方も少なからずいました。重ねて言いますが、私などからしたら考えられない世界で、ただただ凄いなと驚くばかりです。
 しかし、鉄棒一種目に絞って出場したのに、落下してまさかの予選敗退に終わった、体操の内村航平選手は「代表落ちてから、またはい上がってきて、また今日こうやって落とされたんで、『報われない努力もあるんだ』って思ったし、『努力の仕方が間違っていたんだろうな』とも思うし。でも、『あらためて体操は面白いな』と思いましたけどね、失敗してなお。『人生においてこういうことも大切なんだろうな』って凄く思います」とインタビューにコメントしました。
 新体操女子チームは、何とかメダルをと頑張りましたが、8位でした。彼女たちは、一年のうち360日を合宿生活して来たそうです。一日の練習時間は平均で9時間から10時間、毎日涙を流さない選手はいなかったといいます。まさに血のにじむような努力です。どうしてそんなに頑張れたのかという記事を読みました。
 「みんなが信じてくれるから」「演技を見て元気になってもらいたいから」「世の中が明るくなってくれれば」という答えもありましたが、それらは総じて周囲の応援してくれた人、先生方、仲間、家族への言葉でした。
 内村選手は過去3大会で合計7つのメダルを獲得した選手です。その選手にして「報われない努力もある」という言葉は予想外のものでした。新体操の選手たちの、頑張れた理由も、存外に平凡で(失礼ですが)意外な気がしました。私などには持ちえない根性の人たちの素顔は、思っていたよりもずっと「普通」でした。途端に親しみを覚えました。

 さて、今日のテキストは、パウロが現在の苦難と将来への希望を綴った箇所でした。

 冒頭18節で「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」とあり、この一段落の最後25節では「目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」、そう結んでいます。

 最初と最後をつないで一言で表すと、「将来の栄光を待ち望んで、今の苦しみを耐えよう」ということになるでしょう。単純にそうとだけ受け取るなら、金メダルを目指して懸命に頑張ろうというのと大差ないのでしょう。私などは、それは無理と即座に言ってしまいそうです。でも金メダルが貰えるなら頑張ってみようかと思う人もいるかもしれません。それはそれで別に悪いことではないとも思います。その方が分かりやすいし、頑張りがいがあると言えます。

 しかし、ここでパウロが言っている将来の栄光とは、金メダルのような目に見えるものではないのです。そうではなく、21節にあるように目には見えないもの、「滅びの隷属から解放されて、自由にあずかれること」、それが栄光の意味であるのです。

 残念ながら今は、自由ではないのです。今も自由ではないのです。この世には様々な鎖や縛りが満ちているからです。心からそれを信じ受け入れているのではなく、おかしいと思いながら渋々と、或いは諦めて従っていることがどんなに多いことでしょうか。それこそ声にならない「うめき」であることでしょう。

 パウロは、かつてはうめかずに道を歩いて来たのです。熱狂的ユダヤ主義者として、ひたすら律法を守ることに務めて来ました。「律法を守る人が救われる」と信じること、信じて懸命に努力すること、これは分かりやすい、有無を言わせない生き方だったと思います。そして努力のできる人間に、「うめき」は聞こえないのです。努力しない人の言い訳しか聞こえないのです。「自助」だけを求め強いる人にも「うめき」は聞こえないのです。

 パウロ彼自身には、そういう道を疑いなく生きることこそが栄光だったし、その栄光に輝く自分の姿がずっと見えていたことでしょう。ところが、ダマスコへ向かう途上で、目が見えなくされて三日間を過ごすという事態に見舞われることになりました。これは、現実に目が見えなくされるということと同時に、それまでははっきりと見えていた栄光の自分の姿が見えなくされたということでもありました。

 そうして逆に見えるようにされたのは、輝く栄光とは、自分の姿でもなく、律法を厳守して生きる生き方でもなく、それらの思い込みや呪縛から解き放たれて、本当に命を命として喜びながら生きる自由でした。これこそが神が下さる栄光だったのです。そして周囲の「うめき」が聞こえるようになりました。

 ですから、パウロはここでこの世的にしんどいことがあっても耐え忍ぼう、どんなつらいことも歯をくいしばって我慢しよう、その先に待っているものがあるぞ、などと言っているのではないのです。

 一瞬であれ、パウロはイエスを通して神の下さる自由の栄光を既に見たのです。それが希望となりました。いついつ、どこでとは言えなくても、しかしいつか必ず誰にもその自由があまねくもたらされる、知らされる。それが今を生きる希望で、その希望によって救われているのだと、ここで伝えようとしたのでした。

 そのために「忍耐」という言葉が使われました。「ヒュポモネー」というギリシャ語です。これは直訳すると「下にとどまる」という意味であり、耐え抜くという意味です。つまり、今あることから逃げないという意味です。歯をくいしばって我慢するという意味ではありません。

 そして逃げないことには、幾つか方法があるのです。真正面からぶつかること、これが正道・大道ですが、すり抜ける、かわすというやり方もあると思うのです。かつての庶民たちは、過酷な国からの要求に、しばしば替え歌などを使って陰で密かに笑いを持って、たくましくかつしたたかに乗り越えて行きました。

 現代ではどうでしょうか。そう思っていたら「人生に悩んだから聖書に相談してみた」という素敵な本(角川書店)が最近出ていました。Q&A形式の本です。例えば、「努力することに疲れてしまいました」というQには、「努力はもちろん大切ですが、ときには「風まかせ」も大事です、というアンサーが書かれています。適当なことを言っている訳ではなく、「疲れたら、無理して自分でこごうとせずに、風を待ちなさい。君にふさわしい風を、私が必ず吹かせるから」。神さまは人間に、そんなメッセージを、聖書を通じて届けてくれています、とありました。

 「同僚の意識の高さについていけません」というQには、聖書の偉人に「意識高い系」はいません。人生は思い通りにならないものです、という答えでした。この聖書の偉人には、モーセやダビデに並んでペトロやパウロの名も記されていて、その誰一人として意識の高い人はいないんです、とありました。

 彼らは「自分の道を自分で切り開く!」なんて思っていません。ある日突然、神さまから「君の使命はこれだよ」と言い渡されて、「えー、無理」と思いながらも、目の前の現実に対して神さまに祈りつつ真摯に、ときに不器用に、あまりにも不器用に、向き合った人たちです。そこには「目標達成」も「自己実現」も「人生計画」もありません。むしろそれまで抱いていた「人生計画」を神さまに打ち砕かれ、「台無しじゃないですか神さま、どうしてくれるんですか」とときには愚痴りながら現実と格闘した人たちです。
―こう続けられ、ですから「意識高く生きられない」という方も、「こんな生き方もある」と胸を張っていいんです。そして何より、かつて「意識高く」生きていたけれども挫折してしまった方。そんなこともあるのが人生です。思い通りにいかないからこそ人生は面白いですし、思い通りにならないところにこそ、神さまの導きがあるんです」と結ばれていました。

 私は心から賛同します。パウロもかつては意識高く生きた人でしたが、彼の望んだ人生計画は或る日突然打ち壊されました。でもそれで終わりではありませんでした。内村航平選手も、先の五輪は散々な結果となりました。でも「報われない努力もあるんだ。人生においてこういうことも大切なんだろう」って言える人とされました。これで終わりではないのでした。

 今、コロナ禍で「耐えよう」と言われ続けています。私たちが信仰において目指すのは、ただコロナ禍からだけの自由ではありません。ですが、本当に命を喜んで生きるために、心の中で替え歌を歌って耐えたい、今あることから逃げないでいたいと思うのです。

天の神さま、賢くしたたかに生きるための知恵と力を与えて下さい。希望を抱き、軽やかに歩めるよう後押しして下さい。