《 メッセージ全文 》
夏の高校野球の決勝は、今日午後行われます。2回戦で神戸国際大付属に敗れた山口代表の高川学園の一人の選手のことが新聞に紹介されていました。
高橋柊斗(しゅうと)君は、もともとピッチャーで、昨年秋初めて背番号をもらえたのだそうです。順調に行っていれば、今回甲子園のマウンドに立っていたのかもしれません。
ところが、思いがけず右ひじに痛みが出、やがて右腕全体の感覚が鈍くなりました。
9月末のことです。整形外科や整骨院に通っても良くなりません。これはおかしいと、詳しい検査を受けたところ、「脊髄空洞症」と診断されました。
脊髄に液体がたまり、神経症状や全身症状を引き起こす難病でした。患者は全国に2500人ほどいますが、症状が改善するのはまれで、車椅子の可能性もあるといいます。もちろん、もう野球はできないのです。
高橋君は頭が真っ白になりましたが、野球が続けたくて、せめても進行を遅らせる手術を受けることにしました。結果、やはり腕は元には戻りませんでした。
それでも誰よりも早く練習の準備し、グラウンドの整備やごみ拾いを続けました。
その姿を知るチームメイトが「高橋がベンチに必要」と訴え、地区大会では三塁コーチとしてチームを支え続けました。
コロナ禍で甲子園ではベンチ入りが20人から18人に減らされたので、高橋君は外されてしまいました。けれどもボールボーイとして試合の運営に貢献したのです。高橋君は言います。「プレーだけが野球じゃない。置かれた立場によってやることはいっぱいある」と。
どんなにつらく残念だったかと想像します。でも、彼は自分で語ったように、置かれた立場を変えて、自分にできる精一杯のことを果たしたのです。この切り替えの早さは凄いです。誰にでも真似できることではないかもしれません。しかし教えられることはたくさんあります。
さて、今日与えられたテキストは、小見出しに「天の国のたとえ」とあるように、イエスが天の国について例えで話をした箇所でした。
ここでは3つの例えが語られていますが、最初2つは、それがどれだけ価値のあるものであるかということ、そしてその価値あるものを手に入れるために最大限の行動を取った例えがなされました。
まずは、「畑に隠された宝」という例えであり、次は「良い真珠」の例えでした。
それを発見した農夫、商人は、いずれも全財産をはたいて手に入れたという話です。一見、それのどこが「天の国」なのかと思われます。しかし、すべてを払っても惜しくない、是が非でも手に入れるべき価値があるもの、それが天の国の「価値」だということでしょう。分かるような気がします。
三つ目は、ちょっと形が違います。湖に投げ入れ、いっぱいになった網から、良いものが取り入れられる、悪いものは捨てられるという例えです。その続きの、世の終わりの話では、良いものというより、悪いものをより分けて、捨てるという話になっています。
最初2つだけなら、すべてを引き換えにしても良いほど天の国は価値があるのだから、それを大事にしようと受け取れると思います。ところが最後の例えは、自分の行動にはよらないのです。天の国では、良いもの・悪いものの判別がなされるということ、その判別は自分ではない誰か、ここでは天使が担うことになっていますが、要するに神さまの働きということなのでしょう。
天の国の例え3連チャンはここだけ読むなら、いかにも唐突です。でももともと13章は初めから繰り返し天の国について語られている個所で、今日の箇所はその続きになります。私たちにとって、何だか分かるようで、よくは分からない例えかもしれません。ところが、51節を読むと、「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」とイエスが尋ねたのに対し、弟子たちは、「分かりました」と言ったと記されているのです。彼らは本当に分かったのでしょうか?
原文を読むと、弟子たちはイエスの問いかけに「ナイ」と答えているのです。ナイとは、「はい」という返事に過ぎません。そう訳されている聖書がほとんで、この返事では本当に分かったどうか、分からないのです。尋ねられたから、とりあえず返事をせざるを得なかったというところが現実だったのではないかと想像します。
そしてイエスの問いかけ、「分かったか」と訳されているスニエーミというギリシャ語は、理解する、悟るとも訳される言葉です。厳密には「新しい事柄を既知の事柄と合わせて考え、実践する」という意味の言葉なのです。本当に充分に理解したか?というような問いかけだったと思われます。
弟子たちにとって、天の国は全財産を売り払ってでも価値があるものだったでしょうか?天の国は大事だけれども、全財産を売り払って手に入れるほどのものだとは思えてなかったのではないでしょうか。そこまでして手に入れたいものは、天の国ではなく、この世の名誉や地位であったと推測します。
或いはまた、天の国は良いところのはずという理解はあっても、そこで良いものと悪いものの判別・選別が行われる場所だとは思いもよらなかったのではないでしょうか。恐らく、それぞれ自分なりの天国観があって、しばしば自分に都合の良いイメージが先行するので、優しい場所ではあっても、厳しさもそこにあるとは思ってもみなかったのではないかと想像します。そしてそれは、残念ながら私たちにとっても同じだろうと思うのです。
多分、弟子たちはよくは分からなかったけれど、尋ねられたので「はい」と答えました。でも大事だったのは、イエスが「スニエーミ」と尋ねたことにありました。繰り返しになりますが、それは「新しい事柄を既知の事柄と合わせて考え、実践すること」、イエスはそういう意味で「分かったか?」と尋ねたのでした。
先週、ハロルド・クシュナーという、ユダヤ教のラビが書いた本(ヨベル)を読みました。「人生の8つの鍵」という本です。「ユダヤの知恵に聴く」という副題が付けられています。その7章には「脇役が最高の主役」と見出しが付けられていました。
「他人の中に生きる自分」を見つけましょう、とクシュナーは言うのです。人の生き方の「隠し味」になれるかどうかを感じること、感じさせてあげること。「隠し味」という脇役がその素材を引き立てるのです。そして「隠し味」で人に接する訳ですから、感謝されなくても構わないのです、と書いています。
私たちは一人で生きているのではなく、みんなで生きていますから、自分だけがいつも人生の主人公でおれる訳がないのです。主役は自分と思い込むところで、他人の命が大切にされるはずはありません。
こういう話も紹介されていました。
「各人の人生はジグソーパズルのピースで、ピースがいっぱいある人もいれば、そのピースがバラバラで組み立てられない人もいます。重要なことは、自分の中にあるピースは自分のパズルに会うピースだけではないということです。誰でも誰かのピースを持っているのです。ひとつのこともあるし、それこそ数えきれないぐらい多くのピースのこともあります。人それぞれです。気づいている人、気づかない人、様々です。たとえば、自分には価値がなく必要でないピースが一枚あれば、他人にあげましょう。その瞬間、あなたは天上界から選ばれたのです。」
私はこれを読んだ時、「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」とイエスが語った、その学者とクシュナーが重なって見えました。
高橋君は、去年の9月に難病となって、直ちにそれまでと違う生き方、コーチやボールボーイとして務めを果たす者とされました。私たちならどうでしょうか?
予想もつかない出来事は誰にも起こります。それが小さいことではなく、全く別の選択を強いられるような大きな出来事であることも、時として起こります。その時多くの場合、私たちはそれを「不幸」と捉えて嘆くことでしょう。
無論、嘆いても当然だと思います。でもその不幸(ふしあわせ)にずっととどまることはないのです。
何も人生の幸不幸は、心の持ちよう一つだなどと言いたいのではありません。ただ、自分が捨てざるを得なかったものより、もっともっと価値のあるものを発見することができたなら、どうでしょう?イエスはそれを「天の国」だと語ったのです。それを信じたいと思います。
天の神さま、私たちは自分の思う不幸せを嘆く時もあります。けれどそこにとどまらない生き方、価値観を示して下さい。天の国がこの地上に実現するよう、私たちをお用い下さい。