《 本日のメッセージメモ 》
今年93歳の関田寛雄先生は、今なお現役牧師として立つのは、①廃科された青学大神学部の教師として②川崎の社福法人青丘社の働き③不当に免職された北村慈郎教師に対する教団の姿勢の三つの責任からだと書かれる(「目はかすまず 気力は失せず」、信教出版社)。その誠実な生き方に、心から敬意を表したい。
テキストは有名な「迷い出た羊」のたとえ。迷い出た羊の事情は何も問われず、ただ見つけて喜ぶ飼い主(神)の姿が語られる。
松本敏之牧師(鹿児島鍛冶屋町)は、その神の愛はいても立ってもおれない愛で、その愛をもって神はずっと人間を追う、と書いておられる。改めて、聖書の主人公は神なのだと知らされる。
関田先生の本のタイトルは、申命記34:7に由来する。120歳で亡くなったモーセは最期まで、目はかすまず、活力もうせていなかった、と。
残念ながら、モーセや関田先生と同じようにはゆかなくて歯がゆく思う。しかし、たとえ目はかすみ、気力は失せても、なお、である。
深い神の愛を知らされた者として、自らに託された責任の故に、魂はそこに置き、今日立つ者でありたいと切望する。

《 メッセージ全文 》
 この夏の自分の課題図書として読もうと思っていた本が、これです。関田寛雄先生の「目はかすまず 気力は失せず」(新教出版社)。これは関田先生のこれまでの講演や論考や説教から47篇を収録したものです。
 関田先生は今年93歳になられました。詳しく紹介していると、それだけで時間が足りなくなりますが、青山学院大学で教えながら、主に在日韓国朝鮮人問題と関わりつつ川崎の桜本教会、戸手伝道所、二つの教会を作られ牧会されました。「目はかすまず、気力は失せず」とは、まさに先生にぴったりのタイトルだと思っています。
この本の帯に、先生の言葉が記されています。
ブルトマンの「非神話化」も結構です。ティリッヒの「相関の方法」も結構です。しかし、最終的に勝負するのは方法論の問題ではなく、罪を赦し弱さを慰めたもうイエスの福音を自らの人格的事実にしている者との出会いに他なりません。」
この言葉こそ、先生の生き方をよく表しています。「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会」通称「求めつくる会」の世話人代表をずっと務めてこられました。この会の集会が行われる時、いつも始めに先生のリードで「主われを愛す」の讃美歌を歌うのです。
壮大な中身ですが、今日はあとがきから一文を紹介します。終わりに臨んで記しておきたいことは、今なお筆者は3つの課題の故に現役牧師としての責任を負っているということである。―そう書かれて3つの責任について述べておられます。
その一は、1977年、青山学院大学神学科廃科後の卒業生に対する責任である。2018年、体調不良のため同窓会会長は信頼する牧野信次氏に継承していただいたが、第二期の卒業生として、28年間の、恩師によって始められた神学科の歩みの全てを担ってきた者として、廃科を阻止できなかったことについての負い目を覚えないわけにはいかない。本当に申し訳なかったと言わざるを得ない。そして卒業生に対する教師としての数々の過ち、躓きをゆるしていただきたいと思うと共に、それぞれが主にある生涯を全うしていただくことを祈るものである。
その二は、筆者の牧会者としての生涯に決定的な転機を与えてくれた故李仁夏牧師より受け継いだ、川崎市の社会福祉法人青丘社の後援会長としての責任である。最近衆知のようにヘイトスピーチの集団が青丘社をターゲットとして動き、「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例」(差別を犯罪とする条例、2010年)にもかかわらず執拗な攻撃を続けている。多文化共生を旨とするこの法人の運動は、人類史的な和解と共生の「館」としての使命を全うしなければならない。あらゆる差別の根絶は変わらない筆者の祈りである。
その三は、日本基督教団教師委員会による、内容上も手続上も不当極まる北村慈郎牧師の免職に対する抵抗である。ただの一度も北村牧師に対する「勧告」なるものをしていないのに、「度重なる勧告を受けるにもかかわらず」と免職通告に記す教師委員会委員長も、神奈川教区決議として北村牧師免職再検討を三回にわたって教団総会に提出しても議場にのせることもなく黙殺し続ける総会議長も、また「教団におれなくしてやる」とおぞましい暴言を吐いて免職のためだけに教師委員会の規則までも変えて暗躍した元常議員の東京教区K牧師も、すべてキリストの憐れみの故に生かされている人々であろう。私はそれを信じているが故に、問い続け、対話を求め続けているのである。当事者の声を一度も聴取することなく、まず結論として北村牧師排除を前提して対話も審議もない免職という措置は、教団のあり方としてどういうものであろうか。五十余年も着実な牧会を続けてきた牧師の召命を無視し、生活問題にも何らの顧慮もしない決定がゆるされるであろうか。その一方で、「教団教師論」なるものを提示するという、このような流れもパワーハラスメントとしか言いようがない。主イエス・キリストの和解の福音に今一度皆で与かろうではないか。教団の現執行部の猛省を願うものである。
―以上、長くなりましたが、関田先生の三つの責任を全文紹介しました。ご自分に与えられた責任に対して、真摯に誠実に向き合われるこの姿勢、生き方に心から敬意を表するものです。
さて、今日与えられたテキストは、イエスの例え話の中でも最もよく知られたたとえ話でした。「迷い出た羊のたとえ」という小見出しが付けられています。どのような事情でそうなったのか、百匹の羊のうち、一匹が迷い出てしまったというのです。
話の焦点を仮に「迷い出た」点に当てるなら、迷い出てしまったその一匹は、羊飼いからすれば面倒をかける困った奴と言えるのかもしれません。何でも自己責任が問われる現代であれば、いよいよ責められることでしょう。迷い出た責任は、迷い出た者にあるのだ。それで何かあったとして、本人に原因があるのだから仕方がない。後の99匹はちゃんとルールを守っている訳で、一匹のせいで大勢が不利を被るならいい迷惑だ。そんな陰口や罵声が聞こえてくる気がします。
しかし言うまでもなく、このたとえ話の主人公は、99匹を残して、迷い出た1匹を捜しに行く飼い主であるのです。10節の文言は岩波書店版聖書の訳がすこぶる良いです。「心して、これらの小さい者たちの一人をもさげすむことのないようにせよ」とあります。一人もさげすまない。それが主人公である神の思いであって、ここには迷い出てしまった羊の事情など何一つ問われていないのです。ルカによる福音書15章の平行記事では、迷い出た羊ではなく、見失った羊と書かれていて、むしろ責任は飼い主にあるとさえ読み取れる記事になっています。
鹿児島鍛冶屋町教会の松本敏行牧師が、この箇所に関して、「愛とは、いても立ってもいられない」ということなのだ、と文章を書いておられます。自分の愛する羊が、どういう理由でか他者からさげすまれるような事態が起きたとしたら、飼い主たる神様は、いても立ってもいられないということか、と想像します。ちょっと松本牧師の文章を全文紹介します。
聖書の神さまもそういうお方です。神様なら、もっとどっしり構えて、少々のことでは動じないほうが神様らしいと思うかもしれません。しかし聖書の神さまは、そうではないのです。いても立ってもいられない。これが、聖書の神様の本質的な姿です。「神は愛なり」とは、そういうことなのです。
実は、この神様、旧約聖書の最初からそうです。エデンでは、アダムとエバが神様の言いつけに背いて、「絶対に食べてはいけない」といわれていた木の実を食べてしまいました。蛇がそそのかしたのです。「どうしよう」。そのとき、彼らは神様に顔を向けられないことをしてしまったということを悟ります。神様が近づいてきました。彼らは隠れました。神様は、こう言うのです。「どこにいるのか」。もちろん、神様は彼らがどこにいるのかわからないはずはありません。彼らはやがて、エデンの園を出て行くことになります(創世記3章)。その時、神様はどうなさったでしょうか。そのままエデンの園に鎮座して、ああこれですっきりした。これでエデンの園も平和になったと思われたでしょうか。そんなことはありません。心配で心配でしょうがない。アダムとエバに皮の衣を作ってやりました。それでも心配で、ずっと追いかけてくるのです。
いつか小山晃佑氏がこうおっしゃっていたのを思い出します。「だから聖書は、こんなにも分厚いのです。もしもエデンの園で、神様と人間の関係が終わっていたならば、聖書は最初の5ページで終わっていたでしょう。むしろ、そこから始まっていくのです、人間を探し求める神の物語が」。
―こう書いておられました。率直に、その通りだなと思いました。聖書の主人公はやっぱり神なのです。神の愛は、いても立ってもおれない愛で、その愛をもって人間を追う方、それが神なのだと改めて教えられました。ですから、このたとえ話が以前にも増して、好きになりました。
今日初めに紹介した関田先生の本のタイトルは、実は旧約聖書の申命記34章7節から取られているのです。モーセが死んだ時の記述です。そこには、「モーセは死んだとき120歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった」と記されています。
その記述は、決してただ体力のことだけを指しているのではないと分かってはいますけど、私はモーセはおろか、関田先生のようにもとてもおれる自信はありません。もう既に目はかすむこともあり、気力も相当失われている気がしています。心身ともに、いつまでも元気ではおれない者と思っています。言い訳がましくて、情けないですが、事実です。
しかし、イエスを通して、いても立ってもいられない愛をもって私たちに迫る神の姿を知らされました。たった一匹が迷い出たとして、その一匹のために全精力を傾ける神です。ルカによる福音書の平行記事では、その一匹を見つけ出すまで探し周り、見つけたら、「喜んでその羊を担いで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。(ルカ15:6)
と書かれています。迷い出た羊を見つけた喜びは、自分だけのものでなく周囲と分かち合うほど大きな喜びだと言うのです。
 愚にもつかないヘイトスピーチをして他者を脅し傷つけて自己満足に浸るような、一人の牧師の人生をよってたかって貶めるような、そんな卑小なあり様とは正反対の愛が、神の愛なのです。それを知らされたが故に、93歳の今も関田先生は今日に立ち続けておられます。
 全く同じにはできそうにありませんが、私も、この貧しい者にもなお愛をもって迫る神を知らされた者として、例え目はかすみ、気力は失せても、なお、視線と魂をそこに置いて歩みたい、私には私に与えられた責任の故に今日立つ者でありたいと思うのです。きっと皆さんもそうであることでしょう。

天の神さま、あなたの深い愛に感謝します。それに応えてそれぞれ託された責任を果たす者として下さい。その体力と気力を保っていたいと願いますが、たとえそれが足りないとしても、魂を向ける者とならせて下さいますように。