《 本日のメッセージメモ 》
病院に行くバスの優先座席に座り、高齢男性から叱責を受けたHさん。運転手がヘルプマークを付けているのに気付いて助け舟を出した。二人は同じ停留所で降り、謝罪し合い、病院で一緒にお茶を飲んだ。温かい話である。
テキストは、信じがたい額の借金を王から帳消しにされたのに、自分はごくわずかな借金の人を赦さず牢に入れたという、それこそ許しがたいイエスの例え話。
しかし、その不条理を黙っておれず、王に告げた仲間たちがいた(31節)。本日の聖書日課テーマは「隣人」だが、彼らこそ隣人だった。
「自助」ばかりが叫ばれ、知らない人への恐れが膨らむ現代。まるでオバケに対するかのような。
しかし、オバケではなく、相手も自分も人間なのである。
 「内科・オバケ科 ホオズキ医院 オバケだって、かぜをひく」(富安陽子著、ポプラ社)は、5年生の恭平君がホオズキ医院の助手となって、様々な患者と出会って行く物語だ。
よしんば、オバケだって、カゼを引くのである。そういう柔らかな心の扉を開いていたい。それが隣人への最初の扉ではないか。

《 メッセージ全文 》
 ネットで拾ったニュースです。或る男性(Hさん)が、病院に行くためにバスに乗って、優先座席に座りました。何歳の方か知りませんが、お二人小さい子どもさんがいるというので、比較的若い方だと想像します。思いがけず正義感の強そうな高齢の男性から、「席を譲りなさい」と叱責されたというのです。恐らく彼は困惑したことでしょう。すると、これまた思いがけずバスの運転手さんが、「お客様、お座りのお客様はヘルプマークを付けていらっしゃいます。体調がすぐれないご様子なので、お許し下さい」と助け船を出したのです。
 ヘルプマークとは、赤地に白の十字とハートマークが描かれたもので、外見からは分からなくても、義足の方とか内臓の病気とか妊婦とか援助や配慮を必要としている人のために、2012年に東京都が発案しました。名札とかステッカーとして、全国に広がっていますが、まだまだ認知度は低いかもしれません。
 ともかく素早く助け船を出した運転手に彼は救われたのです。それだけでも、心温まる話だと思います。でも、それだけで終わりませんでした。病院最寄の停留所には、彼だけでなく、その高齢男性も降りたのです。彼は「若いのに済みません」と自分から頭を下げました。男性も「私こそ自分が情けない」と言って謝罪しました。お互い同じ病院に向かっていると分かって、二人で病院に行き、一緒にお茶を飲んだというのです。男性のSNSには「友達になっちゃった」と書かれていました。
 こんなこと滅多にないことかもしれません。むしろ大方は、事情を知らない人から突然怒られて、ひどく気分が沈んだ嫌な出来事で終わることの方が多いのでしょう。ほんの少し事情が分かってみれば、全然違うドラマが待っていました。切れない展開、途絶えない物語で良かったと思います。

 さて、今日与えられたテキストは、これと違って、「事情を知っていたのに」というイエスの例え話です。もともとペトロの「何度兄弟を赦したら良いか」という問いかけから始まるたとえ話なので、「赦し」がテーマの話ですが、小見出しには「仲間を許さない家来のたとえ」とつけられています。
 その通り、自分は王に許してもらったのに、自分は仲間を許さなかった、その家来がメインの話なのですが、イエスは随分と大げさな話に仕立てているのです。この家来は王から1万タラントン借りていたという設定になっていて、まずあり得ない額なのです。
 しばしば紹介しますが、当時の労働者の一日分の給料が、1デナリオンと言われていました。1デナリオンの6000倍が1タラントンなのです。ですから、1万タラントンは、6000万タラントンになります。労働者一人の賃金として、6000万日分になる訳です。単純に365日で割ると、何と16万年を超えます。16年じゃないですよ。信じがたい巨額の借金です。まともに推測するなら、王が一家来にそれほどの巨額のお金を貸すはずはありませんし、借りた方も返せる訳がありません。万一、少しでも利子が付いたら、それだけでアウトでしょう。
 王は、それを返せない家来に、「自分も妻も子も、また持ち物を全部売って返済するよう命じるのです。ここだけ聞いたら、何と冷酷な王かと思ってしまいます。けれど、すべてを売ったところで返せる額ではないのです。それなのに家来は「きっと全部お返しします」とひれ伏したのです。その時点でできもしない不誠実な返答でした。
 にも関わらず、王はその姿を哀れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやったというのです。「哀れに思って」と訳されていますが、もっと直訳すれば「はらわたがちぎれるほどの思いがした」となります。到底返せるはずもない借金なのに、ひれ伏し、しきりに「全部返す」と願った姿を、王は心から憐れんだということなのです。
借金の額にも驚きますが、それを帳消しにするという王にも驚きます。現実にはあり得ない話です。しかしもちろん、これはたとえ話です。しかも、天の国の例え話であるのです。「そんなアホな話はない」と切ってしまったら、ここで終わり、後には続かないのです。
 さあ、信じがたい額の借金を帳消しにしてもらった家来は、この後、自分に100デナリオンの借金をしている仲間と出会うのです。先ほど言いましたように、それは労働者一人の100日分の賃金になる額でした。現代に分かりやすく言えば、100万円くらいでしょうか。もちろん、それでも相応の額ではあります。ただし、自分が王から借りた借金に比較したら、実に微々たる額です。もし王から1億円借りたと換算したら、この仲間に貸した額はわずか160円となる計算です。
 本当は、金額に関わらず誰でも借金などしたくありません。まして仲間から借金するのは、よほどの事情がある場合です。利子までは無理だったり、とても急いでいたり、何かしら事情があることでしょう。何よりもどうしても必要に迫られているのです。だから嫌でも恥を忍んで頭を下げる訳です。貸す方もそのよんどころない事情を知っていればこそ、普通は自分も苦しいのであっても貸すのでしょう。苦しい事情は貸す方も知っていたに違いありません。
 ところが、この家来は仲間に会うやいなや、捕まえて「首を絞め」て、返済を迫ったというのです。この仲間もひれ伏して「待ってくれ、返すから」としきりに頼んだという、その姿はたった今、自分自身が王に対してなした姿そのものでした。それなのに許さないで、結局牢に入れたという話です。この仲間の負っていた事情を知りながら、それを何も思いやらず、まさに冷徹な仕打ちをしました。この時、二人の関係の糸は切れてしまったのです。もう後には続かないでしょう。
 このイエスの例え話は、用いられた額などは通常あり得ないもので、そこに驚いてしまいますが、もちろんイエスの言いたいことは、神と人間との関係です。もともと「何度許せばいいか」というペトロの問いに、「七の七十倍までも許しなさい」と答えたイエスでした。到底返せるはずもないほどのものを神からいただき、それを返すよう迫られてもいない、その深い感謝があるならば、お互いに何度でも許し合って生きようというたとえ話であることは言うまでもありません。
 しかし、このたとえ話には意外な隠し味が用いられています。「自分は許されたのに、仲間を無慈悲にも許さなかった」という単純な話にはなっていないのです。もしそれだけなら、この無慈悲な家来は何と言う手前勝手な奴だろうという点で、聞く多くの人の怒りを買うでしょうし、そんな奴こそ牢に入れられ鞭うたれて然るべきという悪人懲罰の成り行きに満足させられる話になります。
 けれども、悲しいかな、あってはならない、こういう無慈悲な出来事が、例ではなくて実話として、ごろごろ身近にあったに違いないのです。無慈悲な悪人のほうが何も罰せられることもなく、のうのうと生きている現実がどれほどあることでしょう。当時はもちろんですが、現在でもそう変わりはないように思います。相手を同じ人間と思っていない、オバケくらいの扱いの何と多いことか。本当に不条理です。

 イエスのこのたとえ話では、そういう不条理を不条理のままにしていません。牢に入れられた家来に起こった出来事に黙っていなかった人たちのことが、少しですが、確かに語られているのです。31節です。「仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。」とあります。この31節は、岩波書店版の訳が心を打ちます。「そこで彼の僕仲間たちは、ことの次第を見て はなはだしく悲しみ、彼らの主人のところにやって来て 起ったことを彼にすべてつまびらかにした。」
 100デナリオンを仲間内から借りざるを得ない事情を抱えていた家来には、同じようにその事情を普段からよく知っている仲間たちがおりました。たまたま仲間に起こった突飛な不条理の事件ではなく、自分たちにも十分に起こり得る、同じ環境の中で生きる、まさに「仲間」うちで起きた不条理であったのです。黙ってはおれません。人生を共にする人間関係がそこにありました。
 それ故に王の元を訪れ、説明したのです。「すべてつまびらかにした」とは、ただ首を絞められ、牢に入れられたという起こった現実のことだけではなく、何故お金を借りることになったか、その差し迫った事情も含められていたでしょう。また牢に入れられた結果、自分自身でお金を返せる目途が立たず、或いはその代りに自分の所有物や家族などを売り渡すことに同意するという書面にサインすることになった、との結果も含められていたでしょう。王が激怒したのは当然の結果でした。
 赦しについての例え話が本日のテキストではありますが、実は今日の聖書日課のテーマは「隣人」なのです。思いがけず不条理な目に遭った家来、その隣人は事情を知り、動いた仲間たちだったと言えます。

 ところで、2006年に「内科・オバケ科 ホオズキ医院 オバケだって、カゼをひく」という児童書がポプラ社から出ました。作者は富安陽子さんです。たちまち人気シリーズとなって全7巻になりました。小学校3~4年生向きの児童書です。今年の夏、電子書籍版が出されました。
この本の主人公は小学校5年生の峰岸恭平君です。ひょんなことから異次元の世界に入ることになるのです。そしてたまたま道に迷って出会ったのが、世界で唯一、オバケ科を持つホオズキ医院でした。恭平君は、またまたひょんなことからホオズキ先生の助手になって、のっぺらぼうとか鬼とか、人間以外の様々な患者と出会って行くのです。はっきり言って、大人が読んでもおもしろいです。

 今日のテキストの解説の中に、「互いに許し合い、助け合い続けること。裁きではなく憐れみをもって相手と向き合うこと。その時、隣人としての関係が始まります。ある瞬間をもって隣人になり、それが永遠に続くものではありません。」とありました。

 その通りだと思います。けれど、ほんのちょっとの赦し合いで、もしかしたら新た出会いと交わりが始まるかもしれません。「オバケなんてないさ」という可愛い歌もありますけれど、オバケなんてそもそもいないという前提に立ったら、オバケが風邪をひくという話にはつながらないのです。そこで終わりです。

 「自助」ばかりが叫ばれる風潮の中で、知らない人を怖れ、初めから除外してしまう空気が充満しているように感じます。相手はオバケではないのです。よしんば、オバケだって風邪を引くのです。誰かとつながるために、オバケだって風邪をひくという柔らかな心の扉を開いていたいと思うのです。それが隣人について考えるための最初の扉ではないでしょうか。

天の神さま、私たちが本当に隣人の関係を深め、広めてゆくために、あなたが示された赦しの心を持つことが出来ますよう導いて下さい。まずは心の扉を開いておけますように。