《 本日のメッセージメモ 》
 首里教会のU牧師から送られた「建物の色」という動画。首里教会には、76年前の戦火で残った十字架が今もある。それを見て、平和を作り出すことを想起することが、首里教会の宣教とU牧師。それこそが「奇跡」に思える。
 テキストは、いちじくを枯らせたイエスの奇跡。そもそも実のならない時期のことで、どうにも納得しがたい。無理につじつまを合わせる必要はないようにも思う。
 むしろ「奇跡」について考えたい。私たちが普通願う奇跡は、「驚くべき業」で、通常あり得ないこと。それ故、願う一方で、諦めもある。
 しかし聖書に描かれる奇蹟「デュナミス」は、振るわれることが前提の、神の「大いなる業」だ。
 テキストのイエスの言動は、理解しがたいものの、大いなる業について弟子たちに「信じよ」と呼びかけた思いは分かる。
 この時弟子たちにその思いは伝わらなかっただろう。だが、彼らには信仰が与えられた。それが奇跡だった。
 日毎奇跡を願い続ける私たちの足元にも、信仰という名の奇跡が置かれている。「枯らせる」ことを通して、人間の勝手な期待から訣別したであろうイエスを思う。

《 メッセージ全文 》
 先週、沖縄の首里教会のU牧師が、一つ動画を送って来てくれました。それは9月26日にRBCテレビで放映された、「時の首里彩画(スイサイガ)」という数分間の短い番組で、「建物の色」というタイトルが付けられていました。本当は、その動画をここで紹介できたら良いんですが、関心ある方はユーチューブで探して見て下さい。

 76年前、沖縄戦によって首里の町の光景は一変しました。焼野原です。でも、首里教会は、相当に傷つきながらも残ったのです。「変わり果てた故郷、けれど奇跡は起きた」とテロップにありました。首里教会に通うHさん(86歳)は、疎開先から帰って来て、首里の惨状に「ここはどこなんだろう」と思うほどでしたが、そこに残っていた首里教会の姿を思い起こすと、「今でも胸がドキドキするくらい感動する」と語っていました。
 私も2016年に首里教会に伺ったことがあります。今年で創立113年になる沖縄の中心的教会です。壊れて傷ついた十字架がそのまま塔に立っていました。その翌年、会堂建築がなされてすっかりきれいになりましたが、十字架だけはそっくり残されたのです。
 「傷ついた十字架を見て、平和を作り出すことを想起することが、首里教会の宣教です。」と、上地牧師はメールに書いていました。「建物の風景」と題された映像でしたが、その首里教会で活き活きと働いているU牧師、また篤い信仰生活を続けておられるHさんの姿を見て、私には「建物とそこに生きている人の風景」に感じられました。
 激しい戦火の中で、残った首里教会の建物、それは確かに「奇跡」的な出来事だったろうと思います。しかし、それから76年、傷ついた十字架を残して、それを見て、平和を作り出すことを想起すること、それが首里教会の宣教というU牧師、そして首里教会のあり様こそ「奇跡」だと思えてなりませんでした。首里教会の動向を何も知りませんが、教会を新しくするに当たって、塔の十字架だけは変えないと決断するのは、実に大変なことだったと思うのです。

 さて、今日与えられたテキストは、数あるイエスの記述の中でも、飛びぬけて信じがたい、理解し難い出来事だと思います。書かれていることは、一つの奇跡が行われたことなのに、どうにもそれが奇跡だと受け入れられないのです。

 舞台の全体像を紹介すると、これはいよいよイエスが逮捕される直前の出来事なのです。21章の最初の段落には「エルサレムに迎えられる」と小見出しが付けられていて、各地での宣教を終えて、ついに都エルサレムに入城するイエス一行のことが描かれています。ちょうど過ぎ越しの祭りで都は多くの人々であふれていた時でした。

 今日のテキストには「いちじくの木を呪う」という小見出しが付けられていて、18節冒頭には「朝早く」と時間帯が記されています。一つ前の17節には「都を出てベタニアに行き、そこにお泊りになった」とありますから、いったんエルサレムに行って、また近郊のベタニアに戻ってそこに泊まったということなのでしょう。ベタニアには、イエスが親しくしていたマリア・マルタ姉妹の家がありました。
 恐らく泊まったのは彼女たちの家で、決してどこかの宿屋ではなかったでしょう。ですから、そこを朝早くに出たとすれば、朝食など取らずに出発したということで、「都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた」という18節の記述は、至極当然だったと想像できるのです。
 ところが道ばたで見つけたいちじくの木に、実がなってなかったのです。「葉のほかは何もなかった」(19節)とは、生々しくも正直な描写ですが、それもそのはず、過ぎ越しの祭りの頃とは3月下旬から4月上旬であって、それはいちじくの季節ではなかったのです。実を捜すほうが無理、無いものねだりに他ならないということです。
 それなのにイエスは腹を立てて、木を枯らせてしまったというのです。多分ここにしか記されないイエスの「無茶ぶり」の記述だと思います。そうだよなあ、誰だっておなかが空いたらいら立つよなあ、イエスだって同じだよなあ、と私などは微笑ましい思いさえするのです。プロのテニス選手でも、思うようなプレイが出来ない時、腹を立ててラケットを壊したりします。
 しかし、事はイエスの「腹立ち紛れの八つ当たり」では済みませんでした。イエスの態度を不審に思った弟子たちへ、イエス自身がいかにもとってつけたような、言い訳がましい言葉をかけたからです。「はっきり言っておく。」とまで言いました(21~22節)。大仰に思えます。「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」-そう続けたのでした。
 これがまた、答えになっていなくて、引いてしまうのです。いちじくの木を枯らせてしまったことは、とても小さなことです。それを引き合いにして山を動かし、海に飛び込ますとの例えは、とても大きなことですが、それをする、言う意味が分かりません。イエスの行動より、後の弟子たちへの言葉がつながらなくて、これは無理につなげて解釈しなくて良い箇所、そもそも別の出来事が一つにされた箇所ではないか、そういう疑問も沸いて来ます。

 昔からこの出来事は、救い主イエスに似つかわしくない出来事として捉えられて来たでのです。この時、逮捕直前にあって、イエスの緊張も最大限の時だった。一つ前の段落には、神殿の境内で商売をしていた人たちを怒って、彼らを追い出し、机や椅子を倒したと記されています。皆の平安こそを第一に願うはずの場所が、そうではない神殿の現実を見て、心底怒りを覚えたのだ。その神殿の模様や、必要とされた実をつけていないいちじくの木、いずれも神さまに応えようとしないイスラエルの民の姿がそこに重ねられているのだ。怒ったというよりも、イエスの深い嘆きの現れなのだ。・・・というような事が注解書には書かれています。そうなのかもしれません。
 けれど、いちじくの木を枯らした同じ出来事が記されているマルコによる福音書では、神殿の境内での出来事は、前ではなく後の出来事として書かれています。どちらが本来の順序であったのか、よく分かりません。
 分からないというより、それは本来の問題ではないのでしょう。イエスらしからぬ言動について、無理やり意味をこじつけることより、「奇跡」について考える端緒にしたいと思います。

 この出来事を読んで、最初に思わされることは、枯らすことができるなら、何故実をつけることをしなかったのだろう?という素朴な疑問です。あの魚2匹とパン5つから5000人の人たちに給食をした出来事が脳裏をよぎるからです。或いは、悪霊を追い出すことや様々な病気を人を癒すこと、その数々の出来事も思い起こされます。
 それらは確かに「奇跡」の出来事でした。英語で言うと「ミラクル」の世界です。ミラクルは、ラテン語のミラクルムから来ています。ミラクルムは、「驚くべき業」という意味です。

 イエスがなした数々の奇跡の力は、私たち人間にとっては確かに「驚くべき業」であったでしょう。通常、ありえないことだからです。科学的に、物理的にあり得ない出来事とも言えます。

 けれども、聖書に登場する「奇跡」という言葉は、それとちょっと意味合いが違うのです。ギリシャ語で言うと「デュナミス」という言葉になります。不思議な現象と言う意味の「テラス」という言葉も使われていますが、デュナミスは「力ある業」という意味なのです。このデュナミスから、英語のダイナミックやダイナマイトという言葉が生まれました。力ある業が活き活きと広がって行きました。ちなみに、ノーベルさんは、ダイナマイトでなく、最初「デュナミス」と付けたかったそうです。

 この力ある業を振るわれるのが神さまなのです。数、回数としては多くはないかもしれません。でも、その力は振るわれることが前提となっているのです。私たちが思う「奇跡」は、それと反対です。まず滅多には起きません、というよりも科学的・物理的に言うならあり得ないことです。力が振るわれることが前提となっていないのです。それを私たちは通常「奇跡」と受け取っています。だから、奇跡を願いつつも、一方では「あり得ない」こととして、どこかで諦めてもいるし、冷めてもいるのです。

 重ねて言いますが、聖書の世界の奇跡は、神さまが振るわれる力ある業、振るわれることが前提の力です。もちろん、どんなに私たちが願ったところで、山が海に動いて飛び込むような超常現象など起りはしません。でも、山のように頑なだった人の心が、全く思いがけず潤されて温かく溶けるということは起こるのです。
 いやいや、それだってまずあり得ない話だと思われる方もいることでしょう。でも自分自身、私自身を振り返ってみれば、気づかされます。信仰を持つということ自体が、自分の力ではあり得ない奇跡の結果ではないですか。
 いちじくを枯らせてしまったのは、もうええわいという投げやりのような思いもないではなかったかもしれません。が、マルコでは枯れたのは翌日の出来事になっています。もしかしたらもう食べることはない、これから進む道(つまり十字架への道)を引き返すことはできないという、イエスの訣別の決意だったのかもしれません。それがいちじくを枯らせたということにつながれたのかもしれない、そういう想像があります。枯らせることを通して訣別した。何だか傷ついた十字架にも思えて来ます。それは実をならせるよりも大きな力ある業のようにさえ思えるのです。そして同時にそこには、力ある業への、それを振るわれる方への揺るぎない信頼があったと思いたいのです。それが弟子たちへの言葉となりました。敢えて傷ついた十字架を残した首里教会の決断を、そこに重ねて思います。
 不思議な力、驚くべき業の実現を期待してばかりいた弟子たちに、この時イエスの真意は何も伝わらなかったことでしょう。それでもふと足元を見れば、それぞれ一人びとりに相応しい形で信仰が与えられていました。それこそが、奇跡です。何かいい事起きないか、いちじくの実がならないか日毎願って待っている私たちの、足もとに、今を生きよう、これからを生きようという、信仰と言う名の奇跡が置かれているのでした。

天の神さま、私の足元に置かれている奇跡を通して、偽りの奇跡、形だけの奇跡を望む生き方から訣別させて下さい。