《 本日のメッセージメモ 》
「前政権の姿はサルの社会そっくり」と山際寿一さん。姿勢が問われている。が、どうも表面の言葉ばかりの現状が続いている。
テキストは、イエスの言葉じりを捕えようとした悪だくみの話。既に失敗し、悪くなる立場を恐れたファリサイ派の彼らは、いったん退いて綿密な計画を立てて臨んだ(15節)。
万一失敗しても責任を取らないために、弟子たちを派遣した上、本来は相容れないヘロデ党とも結託した。
皇帝の税金を払うべきか否か。どう答えても窮地に立たされる嫌らしい質問だったが、イエスは見事に喝破した。「神のものは神に返せ」とは、まさに誰の顔色もうかがわない、神第一の姿勢だった。
北海道・置戸教会の通信「なきうさぎ」から。コロナ禍で集まれなくなり、荒谷陽子伝道師は、礼拝堂の椅子に、ぬいぐるみたちを並べて、心からの礼拝をささげた。「神のものは神に返す」思いと姿勢を感じて、胸が熱くされた。
権力におぼれて自らが見えない「はだかの王さま」と現在の政治家の姿がだぶる。神のものを自分のものとする危険は誰にもあるが、中でも権力者だ。「神に返す」思いと姿勢を肝に銘じたい。
《 メッセージ全文 》
ゴリラ研究で知られる京都大学前総長の山際寿一さんが、少し前に前政権について文章を書かれていました。特に6名の学者が日本学術会議の会員からはずされたことについてです。そこをちょっと紹介します。
『私はこれらの言動を見ていて、サルの社会とそっくりだと思った。サルはボスの前でおべっかを使い、弱いものを見つけるとこぞってそれをいじめて自分の地位を確保しようとする。菅さんを取り巻く人々の態度はこれ
とよく似ているではないか。
問題の本質は、重箱の隅をつつくように日本学術会議の欠点をあげつらうことではなく、理由を言わずに学者を排除しようとしたことにある。それは、「自分たちで忖度しろ」と言っていることに等しい。総理の権力を用いて、自分の意に沿わないものは理由なしに排除できる。それは言わなくてもわかるはずだという政治圧力である。そんなことがまかり通った
ら、民主主義は崩壊する。
民主主義とは多数決で選ばれた代表者が、それを理由に権力を掌握して意のままに政治を操ることではない。いついかなる時でも国民の声に耳を傾け、たとえそれが少数派であっても根拠がある主張ならば慎重に吟味する。その姿勢がなければ、いくら人事権を行使して自分に従うものだけを集めても、やがて国民の反発を買って力を失う。そのことを菅さんは十分
理解していなかったのではないだろうか。』
今月末に衆議院総選挙が行われることになりました。既に新たな政権が発足していますが、山際さんが「姿勢がない」と指摘されたことが新政権に伝わっていると幸いです。
私たちは、前前首相の時から、発言が中身を相当に伴っていないことを繰り返し知らされました。それが「しっかり」という言葉に象徴されていました。何かにつけて「しっかりと〇〇する」とおっしゃるのですが、とてもそうは思えなかったのです。だいたい、「しっかり」という言葉は、おおむね他者にかける言葉で、自分で自分に使うのがピンと来ないのです。
昨秋、政権が変わっても、それは同じでした。やっぱり「しっかり」という言葉が多用されました。そして更に今般。先週火曜日の首相会見で、「しっかり」が58回使われました。私が数えたのではありません。新聞の記事に書いてありました。
新しい政権の支持率が各社の調査で出ましたが、いわゆるご祝儀相場がなくて予想外に低いものでした。これについて新首相は、「低い数字もしっかり受け止め、自分自身をしっかり振り返りながら、これから選挙に向けてしっかり取り組んでいきたい」と記者団に答えました。思わず、「しっかりしてぇな」と言いそうになりました。
言葉尻だけ捕らえたいのでは決してありません。今日与えられたテキストから、言葉尻に潜む真相の醜さを教えられるからです。今日の一段落には、「皇帝への税金」という小見出しがつけられています。ファリサイ派の人々がイエスの言葉尻を捕えて罠にかけようとした出来事です。
少し前からその経緯を追うと、そもそも神殿で教えていたイエスに、祭司長や長老たちが「何の権威でしているのか。誰がその権威を与えたのか」といちゃもんをつけに来たのです。前の21章に記されています。
この時は、彼らはイエスからの逆の問いかけに答えることができずに終わりました。それでイエスは続け様に3つの例え話を語るのです。「二人の息子」のたとえ、「ぶどう園と農夫」のたとえ、「婚宴」のたとえです。
そのどれもが、祭司長や長老、或いはファリサイ派など当時の権力者たちに都合の悪いたとえ話でした。どれもこれも、どこかで自分たちを指しているのが明白だったのです。「ぶどう園と農夫」のたとえ話の後、21章の45節46節にはこう書かれています。
「祭司長やファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」
彼らからしたら、もう我慢の限度となりました。一刻も早く捕まえて黙らせないと、どんどん自分たちの立場が危うくされるのです。ですから今日の箇所では、綿密に計画を立てました。15節、「それからファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。」とあるように、いったん退いて計画した訳です。
その計画に従って、万一失敗した時、自分たちが責任を負わないようにするため、自分たちは直接、前面に出ないこととしました。代わりに弟子たちを遣わして物を言わせたのです。
しかも、ファリサイ派の弟子たちだけではありませんでした。どのように持ち掛けたのか、ヘロデ党の人々と一緒に行かせたのです。16節にある通りです。ファリサイ派は、基本律法を守って生きるユダヤの人々です。でもヘロデ党は、ローマからガリラヤ地方を治めることを許されたヘロデ・アンティパスを支持する人たちで、言わば政敵なのです。両者は本来相容れない立場であるのです。それが、ことイエスを貶めるために手を握ったということで、おぞましい闇を想像します。
結果から言えば、イエスはこの薄汚い計画を見事に論破、喝破しました。皇帝に納税することが律法に適っているとすれば、ユダヤの人々からの怒りを買い、適っていないとすればローマを支持するヘロデ党からも、ひいてはローマ帝国側からも目をつけられることになるところでした。
どちらを答えても窮地に立たされる嫌らしい質問を、彼らはネコナデ声でしたつもりでした。はじめ最大限にイエスを持ち上げました。「人々を分け隔てなさらないから」という16節の言葉は、直訳すれば「人々の顔色を見ないから」となります。まさしくその通り、イエスは皇帝を含めて、権力者の誰の顔色をも見ずに返答したのでした。
まず、1デナリオン銀貨を持って来るよう命じました。そこには当時のローマ皇帝ティベリウスの肖像が彫られていました。それを厳に見せた上で「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(21節)と答えたのでした。本当に見事な返答で、22節の「彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」のは、当然の結果だったと思います。もはや何も返す言葉がなかったのです。この言葉に、神を第一とするイエスの思いと姿勢が如実に現わされていました。
過日、北海道の置戸教会から「なきうさぎ」と題された通信が送られて来ました。荒谷陽子伝道師が主任をしておられます。申し訳ないことに、置戸という町が北海道のどこか分からなくて、調べました。道東の常呂郡にあって、北見市の近くになります。人口3000人ほどの町で、教団年鑑で見ると2019年で平均出席者が8名の教会でした。
コロナ禍は、この小さな教会にも容赦なく影響を与えていました。教会に集まる礼拝が中止されたのです。この時、荒谷伝道師は、空っぽの礼拝堂、空っぽの椅子を前に語ることの寂しさから、ふと思い立って、牧師館の住人を総動員して最前列に座らせました。そして、そのおのおのの前に献金も置きました。それがこの写真です(小さくて見えないでしょうから、刷りました)。大きなクマのぬいぐるみ、スノーマンの人形、小さな猫とコグマの人形、そして亡くなった二人の女性会員の写真が並べてあります。「一人でもれい拝、四匹でもさん拝」と題が付けられています。
途中からですが、紹介します。
「10時20分、祈祷室に行くのはやめ、皆と向かい合って礼拝前祈祷を捧げました。礼拝意欲が増してきました。10時29分、鐘を鳴らす時間です。置戸教会の屋根の鐘は、半端な力では鳴りません。クマ(大)を従えて向いました。全体重をかけてひもを引く・・・安息日の重労働は重罪です。普段は信徒に任せていますが、今日はクマの手に託しました。
礼拝が始まりました。みんなちゃんとわきまえていて、讃美歌を声に出して歌う人はいないようです。感染症からの癒しと復興を祈る連祷も、会衆のところは黙読です。でも、説教になると、まぁ!皆、なんて生き生きと耳を傾けてくれるのでしょう。クマ大の、「うん、うん、そうだね」と言いたげな顔。ノッポの雪だるまのピン!と伸びた背筋。いつも目を閉じている猫は、実は黙想していたのだなと判明しました。二匹の小熊たちは、「兄弟が共に座っている(詩編133)」喜びを全身で表現しているようです。そして召された姉妹の見守ってくれるまなざしの、いつもに増して温かなこと・・見ると涙が出て来て、見られません。この素晴らしい会衆に励まされ、むくむく元気が湧いてきました。心をこめて祝祷をし、下手っぴいなギターで後奏曲を弾き終えたら、自然と感謝の言葉がこぼれ出ました。「一緒に礼拝してくれてありがとう!!!」
私は、荒谷先生と、このぬいぐるみたちとの礼拝の様子を想像して、胸が熱くなりました。この優しさ、この温かさ、何と言う切なくて、素敵な温かい礼拝でしょう。小さなことかもしれません。でも、これこそが私たちが大事にしなければならない「神のものを神に返す」世界であり、姿勢だと思ったことでした。
今日の説教題はいつもにも増して変だったと思います。48人という数字に実は意味はありません。はやりの「〇〇48」に合わせてみただけです。
政治家たちから、最近「統治」という言葉を聞くようになりました。選挙によって選ばれた方々は、託され委ねられその仕事をするだけであるはずなのに、まるで王さまかのように、君臨し、民を統治すると考えているのでしょうか。大きな勘違いです。そういう勘違いの人が48人どころではないように感じます。妙に権力が集中し、黙って従うしかない構造が強まっています。でも、本当は真実を語らない周囲に調子に乗っている、自分の姿が見えない「はだかの王さま」なのではないでしょうか。
「神のものは神に返せ」とイエスは明確に語りました。私たち一人びとり、しかと覚えておきたいと思います。けれども、神のものを自分のものと勘違いする具体的な危険性を一番持っているのは、権力者です。私たちはそこにも注意を払わねばなりません。
荒谷先生の文章の最後はこうです。「共に座る人たちがいるって、こんなに嬉しいことなんだ―普段のれいはいに集う顔ぶれを思い浮かべて思いました。そういえば、「ありがとう」のはんたいは「ごめんなさい」じゃないよって、誰かが書いていましたっけ。「ありがとう」の反対は、「あたりまえ」。あたりまえと思ったら、ありがとうは出てこない、と。日曜日ごとに集まるという当たり前が崩れて、ありがとうがあふれます。―とありました。
心から賛同します。私たち、はだかの王さまであっても、なかなか抗うことができません。でも「神のものは神に返そう」って、肝に銘じて、ありがとうの世界とその姿勢を広げて行きましょう。
天の神さま、真実を語る勇気と知恵を与えて下さい。