2021.10.17 「あなたが大事」 高石教会 一木千鶴子牧師
ルカによる福音書10章38~42節
今年の夏、新型コロナウィルスの感染が拡大し続ける中、東京でオリンピックが開催されました。開催に至るまでに、いろんなことですったもんだしましたが、その中の一つに女性に対する差別発言によって大会組織委員長が開催数か月前になって辞任に追い込まれるという出来事がありました。その前委員長の発した「わきまえない女性」という言葉は世界中に知れ渡るところとなりました。
私は、その出来事を見聞きする中で、40年余り前の出来事を思い出していました。それは私が、牧師になるために神学校に入学しようという決意が与えられた時のことです。私はその決意を所属教会の牧師に話し、神学校の試験を受けるときに必要な推薦状を書いてほしいとお願いをしたのですが、思いがけず大反対されてしまいました。大反対の理由は私が女性であるからということでした。その牧師が言うには、牧師はとても論理的な思考が必要で、きわめて男性的な仕事であるからというのです。それなのに女性が牧師になったら教会の害になると。すでに女性の牧師たちはいましたが、おかげで男性教師たちはひどく迷惑していると実例をあげて言われました。そしてあなたは女性であることを捨てることができるのかと迫られました。
さすがに今は、そこまであからさまに言葉にする牧師はいないと思いますが、本音のところではそう思っている男性教師は今でも多いのだろうと感じています。牧師だけではありません。男性だけでもありません。赴任した教会である女性役員に、「教会は、女性教師を求めてはいない。教師ではなく優しい牧師夫人を求めている」とか「女性教師なんだから男性牧師をもっと助けてあげてほしい」とか「余り出しゃばらないほうがいい」など、その他にもいろんなことを言われてきました。
オリンピックを巡っての出来事から、私は教会でのそうしたことを思い出して、教会でも社会でもみんな、そして特に男性は「わきまえない女性」が本当に嫌いなんだなあと思った次第です。
今日の聖書に登場する二人の女性たちは、実はどちらも「わきまえない女性たち」です。マルタはイエスさまをもてなすために台所で忙しく働いていました。一方マリアはイエスさまの足元に座り込み、イエスさまの話に聞き入っていました。この箇所でいつもやり玉にあがるのはマルタです。マルタは、黙って食事の準備をしていればいいのに、よりによってイエスさまに文句を言いました。「あなたはこの状況をなんとも思わないのですか。私ばかり忙しくして不公平ではないですか。マリアに手伝うように言ってください」と。
イエスさまは、マルタに「マルタよ、マルタよ。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」そう言われたとルカは記すのです。
このイエスさまの言葉を、教会は長い間、男性に都合よく理解してきたように私には思われます。この箇所からマルタは、黙っていれば教会にとって有用だけど、価値は一段低い存在としてみられてきたのではないでしょうか。そして台所の奉仕も大事には違いないけれども、み言葉を聞くことよりは一段劣る奉仕だと思われてきました。教会では聞く奉仕以上の奉仕はないのだと。そのような説教を聞くたびに、台所を担当してきた女性たちは、少し後ろ冷めたさを感じつつ、自分たちは本質的なことには関われていない、少し劣った存在だとみなしてきたのではないかと思います。
でも、本当にイエスさまはそのような奉仕に序列をつけるようなことを言われたのだろうかと私はずっと疑問でした。マルタの奉仕はマリアの奉仕より劣ったものだったのでしょうか。
ヨハネによる福音書も、このマルタとマリア、二人の女性たちに注目しています。ヨハネがこの二人の姉妹のことで記しているのは、マルタとマリアの兄弟のラザロが死んだときのことです。待ちに待ったイエスさまが彼女たちの家に到着したとき、すでにラザロは死んだあとで、このときもマルタはイエスさまに文句を言っています。
「もし、あなたがここに一緒にいてくださったら、ラザロは死ななかったのに」これは暗に「なぜ、もっと早く来てくれなかったのか」とイエスさまを責めている言葉です。このマルタの言葉が有名なイエスさまの言葉を引き出しました。そしてマルタもまたペトロの信仰告白に匹敵する告白をすることになりました。イエスは言われました「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。このことを信じるか」マルタは答えます。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。
マルタほど自由にイエスさまにものを言い、イエスさまを信頼していた女性はいないのではないかと思います。信頼しているから、愛しているから、疑問をぶつけることも、思いをぶつけることもできたし、イエスさまもマルタの言葉に誠実に答えてくださっている、マルタは、そんなふうにイエスさまと生き生きとした関係をもつことができた女性でした。納得いかないことをイエスさまにぶつけながら、イエスさまとの対話の中で信仰を育てられ、成長させられていた女性でした。そんなマルタのことをイエスさまは、とても大事に思い、愛しておられたと思います。
一方マリアはどうだったでしょう。マリアは妹ということもあり、多くの場面で座り込んでいることが多かったようです。今日の箇所だけではなく、さきほどのラザロが死んだときもそうでした。マリアはイエスさまを出迎えもせず部屋の中に座っていたとヨハネは記しています。今日の箇所で、マリアは良い方を選んだと言われていますが、そして教会はそれをイエスさまの言葉を聞くことを選んだのだと理解し、必要なことは唯一つ、それは聞くことだと説教してきたわけです。
でも、マリアはこのとき、聞くことを選んだというよりは、マリアはマリアらしい振る舞いをしていたのではないかと思うのです。そして、それをイエスさまはそれで善いと受け入れてくださったのだと思うのです。当時の価値観からすれば、マリアは当然台所で姉を手伝うべきでした。当時台所に立つのは女性の役割でしたから。しかし、マリアはその常識に従うのではなく、自分の願いを優先させたのです。台所で働くべきだという価値観にとらわれず、マリアはマリアであろうとした、そういう意味ではまさに、マリアもわきまえない女性でした。でも、それが必要なただ一つのことだとイエスさまは言われたのではないかと私は思うのです。常識や世間の価値観にとらわれることなく、マリアはマリアらしくそこにいる、それを誰であっても取り上げてはならないとイエスは言われたのではないでしょうか。
マルタはマルタでよい、マリアはマリアでよい、ありのままの「そんなあなたが大事だ」と言われているように思います。奉仕に序列はなく、それを善いこととして受け入れ、用いてくださるのはイエスさまなのです。マルタがマリアのようにならなくてもいいし、マリアがマルタのようになる必要もないのです。
牧師になってしばらくしたとき、女性たちが主催する学習会に参加しました。そのとき、男性によって、男性の視点で書かれた聖書の中に、イエスに出会った女性たちの真実な姿を発見するためには、感性も経験も知識も、総動員して、うんと想像力を働かせて聖書を読む必要があるということを教えてもらいました。驚きました。神学校では、神の言葉を聞くためには、知識も経験も、自分の意見もすべていったんわきにおいて、白紙の状態で聖書に向き合い、ひたすら聞く姿勢が大事だと教えられてきたからです。
でも、女性たちは、自分を捨てるのではなく、知識も経験も感性も総動員して、うんと想像力を働かせて聖書を読み始めました。マルタのように、マリアのように、それまでの解釈にとらわれず、自由に、生き生きと聖書を読み、イエスさまと直接対話をし始めたのです。その頃から信徒も牧師から聞くだけではなくて、信徒の立場で自由に聖書を読み始めました。聖書は俄然面白くなりました。
私は、聖書は助け合って読むことが大事だと思っています。自分なりに自分らしく読むとき、それは独善的になる危険をはらんでいます。自分の枠を超えられないということもあるでしょう。だから、助け合う必要があります。男性も女性も、そんな枠組みで自分を捉えていない人も、年をとった人も若い人も、さまざまな環境で違う立場にいる人たちが、自由に聖書を読んで、それぞれ聴いたことを互いに聞きあい、語り合い、その中で自分が聞いたこと、信仰を吟味する、そんな助け合いが必要だと思います。そこではだれも自分が聞いたことだけが正しいと主張することはできません。正しいのは神さまだけという信仰に立って、互いにその聞いたことを分かち合い、自分の考えや信仰を吟味することが、大事なのです。
マルタは、マリアに自分と同じように台所で働くことを求めました。でも、イエスさまから、それはマリアから大事なものを取り上げることになるということを指摘されました。正直なマルタ、黙っていないマルタ、だからこそ大事なことをイエスさまから教えていただくことができたのです。
マリアも自由な女性でした。ヨハネはこのマリアが、イエスに香油を注いだ女性だと証言しています。静かで、いつも座って姉の陰に隠れているかのようなマリア、しかし、あの時は違いました。彼女は高価な香油をイエスに注ぎました。そのことで、なんと非常識な、なんともったいないことをするのだと弟子たちからいっせいに非難されたのです。しかし、イエスさまはそのマリアの行為を、マリアの主体的な精一杯の行為を、よいこととして受け入れてくださったのでした。
私たちの貧しい、もしかしたら間違っているかもしれない、どんなに一生懸命でもたかがしれている。でもその私らしい私の精一杯のイエスさまへの思いや行為を、イエスさまは良いこととして受け入れ、用いてくださる、そうして「あなたが大事だ」と言ってくださる、そんなイエスさまがいてくださる、そのことが私たちの希望です。
そんなイエスさまがいてくださるので、私たちは、自由になれる、そしてまわりの人たちに同調しなくてもいいし、相手に同調を求めることもせず、その人らしさを受け入れることができる、マルタとマリアの物語は、そのことを私たちに伝えようとしているのだと思います。「あなたが大事だ」今日の聖書の箇所から、私には、そんなイエスさまの言葉が響いてくるのです。
(祈り)
いつもわたしたちを愛してくださる主なる神さま、今日は東神戸教会の方々と共に礼拝に招いてくださいましたことを心から感謝いたします。私たちはまっすぐにイエスさまに向けるべき心を、自分や他の人たちに向けて心を乱し、同じであることを求めても、同調してくれないことで、いらだったり、腹を立てたりしてしまいます。でも、イエスさまの招きに応えて、一人ひとりが主体的に選び取った在りようを、誰からも奪い取ってはならないのだとイエスさまは教えてくださいました。そして、何ものにも代えがたい、かけがえのないあなたが大事なのだと、イエスさまは私たちに語りかけてくださいます。どうか、私たちも自分を大事に思うように、自分と違っている隣人を尊敬し、大事にすることができますように。今日の礼拝に出席することができなかった方々の上にも、あなたの守りと祝福をお願いいたします。
私たちの友となってくださったイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン