川江亜希子(かわえ・あきこ)伝道師(南大阪教会)
プロフィール: 南大阪教会伝道師。2008年、梅花高等学校卒業。2018年9月、同志社大学神学部神学科卒業。長岡京市在住、大阪までの通勤電車で韓国ドラマを1話ずつ見るのが最近の楽しみです。
《 メッセージメモ》
「命の息吹に夢」
創世記2章4b節〜9節
昨今、学校や社会では、何かをする際の苦手な部分を異質とみなされて、学校や社会で挫折してしまう、大人や子どもたちがいるというニュースを見聞きする。本来、人は違うように神さまに造られ、むしろ異なる者として命が与えられて働きがあるはずなのに、時にその違いを受け止めることができない時がある。人一人の命を大切にするキリストの教えを、頭では分かっていても、時にその教えを見失ってしまう心の弱さで、異質なものを排除してしまいかねない。
聖書では人が果たすべき役割が「地を耕す」ように造られたということが記される。人が地を耕し、守るようにと神は言われるのが、人の労働は、神のために仕えるためだとは示されていない。命を吹き入れられた人間は、エデンの園におかれたが、その後、蛇に誘惑されて園から追放される。人間は、エデンの園においても「耕す」任務があったが、エデンの園から追い出されても、果たすべき任務が、「耕す」任務であるということが分かってくる。
どのように異なる人々であっても、一人一人が同じ尊厳を持つ。人はどの人も一人として完全ではないが、どの人であっても不完全なままで素晴らしい存在なのだと聖書は語る。神さまの思いはここにあるのだと思う。
東京大学の先端科学技術研究センターの教授である中邑賢龍(けんりゅう)さんは、「発達障がいとされる子の中にも飛び抜けた才能を持つ子もたくさんいます。イノベーションを起こすのは、空気が読めない人間なんだから、空気が読めない特性を大事にしておかなきゃいけない。この社会のみんなが空気を読めたら、変革は起きない。」と語る。
世界中に同じ人が一人もいない世界、異質であること、それぞれがその人だけの個性で与えられて造られたことは、神さまの多様な素晴らしさを知らされるきっかけになるのだと、中邑さんの言葉を読みながら思わされた。
一人ひとりの生を大切にされない人々がたくさんいたからこそ、その尊厳の回復を願うイエスが歩んでこられた。命の根源であり、尊厳は、神から与えられている。だから私たちは、違いを尊重しあって共に生きられる社会を目指すのだ。人ひとりに息を吹き込み、命の尊厳を注いでいてくださる神さまは、違いを積極的に受け入れ、共に生きる世界を私たちが耕していく者として、神の国を作りあげていく夢を託してくださった。私たちは、その愛を忘れない者でありたい。その愛の先に、イエスとの出会いが備えられている。
《 メッセージ全文 》
創世記2章4b節〜9節
読み書きが上手にできない。人付き合いができない。人前で話すことができない。そのように苦手な部分を、一人ひとり、持っていらっしゃることと思います。今、少しだけ自分は何をすることが苦手かなと考えてみてください。・・・いかがでしょうか。私自身、何が苦手か考えた時、「同時に何かをする」ということができないと思い返しました。例えば、電話をしている時に隣で何か話をされたりしても、それに対して上手にジェスチャーをして、「今は無理!」とかそんな風に簡単に言うことでさえも、その時は頭が回りません。こうして、話をしながらジェスチャーをしたり、上手な人はアドリブだって本当に上手にされますが、私はとても苦手です。また、違う作業をしている時に、話をしながらその作業を同時にできる人もいらっしゃいますが、それも一切できません。苦手なことは他にもたくさんあります。しかしながら、なんとかその苦手なことを、周りに頼って甘えて、補ってもらいながら、又、その部分を自分では見ないようにしたり、そうやって逃げたりもしつつ、毎日生きているのだと思います。苦手なことを克服する方もいらっしゃいます。それは本当にすごいことだと思います。
昨今、学校や社会では、何かをする際の苦手な部分を異質とみなされて、学校や社会で挫折してしまう、大人や子どもたちがいるというニュースを見聞きします。「発達障がい」の診断が増加し、その対象者になる人、またその対象にかかるか、かからないかのいわゆる“ボーダー”の人たちも、たくさんいらっしゃいます。例えばそうした人たちが、大学では素晴らしい研究ができる能力を秘めた人でさえも、学習面に少しでも苦手な部分があったりすると、高校まで辿りつくことができない、小中学校で「だめな子」「できない子」だと見なされて不適応を起こしてしまう子も多くいると聞きます。そうして日本の教育は、いわゆる集団教育、つまり戦時中の軍事教育が色濃く残り、一人ひとりの違いを認め合いながら共に生きる教育が行われてきていない時代がありました。そのような教育が、これまでの日本では当たり前でありました。本来、人は違うように神さまに造られ、むしろ異なる者として命が与えられて働きがあるはずなのに、時にその違いを受け止めることができない時があります。日本の教育は、まさにそうであったのです。人一人の命を大切にするキリストの教えを、頭では分かっていても、時にその教えを見失ってしまう心の弱さで、異質なものを排除してしまいかねないのです。そして排除され命の尊厳のない世界が、聖書の時代だけではなく、今もあることを決して忘れてはなりません。
本日の聖書箇所は、人ひとりの「命」に息を吹き入れられた神の創造物語の箇所の一つです。この創造物語、イスラエルを除く古代オリエントの世界では、聖書とは違う創造観が展開されていて、次のように語られたとあります。「昔、神々が神に仕え、神のために必要なものを作り出していたが、神々は労働をきらうようになり、仕事を放棄してしまう。いわば神々がストライキを行ったと。それに手を焼いた神は、神々に変わる奴隷の創造を思い立ち、人間を造ることにした。」と、このようにあるのです。そのような創造観であれば、私たち人間の労働、つまり働きは、神の奴隷のようであると感じてしまうでしょう。しかし聖書では違います。「主なる神が天と地を創られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。」それに加えて、「また土を耕す人もいなかった。」と言われるように、人が果たすべき役割が「地を耕す」ように造られたということが記されています。後の15節でも、「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」とあります。人が地を耕し、守るようにと神は言われるのです。ここで注意したいのは、人の労働は、神のために仕えるためだとは示されていないということです。古代オリエントの創造観でこの物語を読むのなら、人は神の労働のために造られたとあるはずです。しかし聖書において、私たちの働きは、決して神のためだと神さまは言われていません。示されていることは、人は「耕さねばならない」ということです。それは人間にとって、必要な働きなのでしょうか。でも私たちは、自分の命を生かすために、糧を手に入れねばなりません。食べ物を、得なければなりません。けれども、働く目的はそれだけに尽きてしまうのでしょうか。命を吹き入れられた人間は、エデンの園におかれたとありますが、その後、蛇に誘惑されて園から追放される記述があります。3章23節に「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。」とあるようにです。だから人間は、エデンの園においても「耕す」任務があったけれど、エデンの園から追い出されても、果たすべき任務が、「耕す」任務であるということが分かってきます。神が人を追い出したのは、人が蛇に誘惑されてその誘惑に負けてしまったからです。けれども、聖書で記されている神は、決して息を吹き込んだ人の働きである「耕す」ことを奪うことはなく、また誘惑されて追放はされたものの、人をのろうこともされませんでした。
人は、唯一絶対なる尊厳者である「神」に似せて、造られたとあります。その神のイメージも似姿も、聖書の原文を見ると単数形で書かれています。人は「一人」とされているということです。これは、人が「男」であっても「女」であっても、どのような性の人間も、すなわち身体的に異なる者たちがそれぞれ、神さまから同じように共通して一人ひとりが祝福されているということが示されます。どのように異なる人々であっても、一人一人が同じ尊厳を持つ。同時に、どの人も、その人だけが、神のイメージや似姿を完全に現しているとは言えないということになります。人はどの人も一人として完全ではないけれど、どの人であっても不完全なままで素晴らしい存在なのだと聖書は語っている。神さまの思いはここにあるのだと思います。
東京大学の先端科学技術研究センターの教授である中邑賢龍(けんりゅう)さんという方がおられます。中邑さんは、医学部志望であったけれど、山口大学の教育学部へ進み、そこで大学院の恩師から言葉のでない重度障害の青年をコンピュータの力で話せるようにしろと言われたそうです。そこで声を出せば球が打てる野球ゲームをその青年に渡したら、その方の胃潰瘍が治ってしまったというのです。それ以来、中邑さんは、テクノロジーで人が本来の能力を発揮できる研究を続けておられます。また、「凹(ボコ)デザイン塾」という商品開発も行っておられます。これは、あえて不完全な凹(ぼこ)の商品を作り、凹(へこ)んだ部分を人間が補うことで、人が気づき考えるという新発想の開発です。人もモノも、凸凹があることを大切にしたいという中邑さんの思いが込められています。中邑さんはこのように語られます。「発達障がいとされる子の中にも飛び抜けた才能を持つ子もたくさんいます。エジソンだって、スティーブ・ジョブズだって、発達障がいの傾向があったと言われている。イノベーションを起こすのは、空気が読めない人間なんだから、空気が読めない特性を大事にしておかなきゃいけないんです。この社会のみんなが空気を読めたら、変革は起きない。」
世界中に同じ人が一人もいない世界、異質であること、それぞれがその人だけの個性で与えられて造られたことは、神さまの多様な素晴らしさを知らされるきっかけになるのだと、中邑さんの言葉を読みながら思わされました。
しかしながら、人間はそのように多様に異なった人々を尊重しあうということが時に難しくなります。そして、その違いをもって、人を排除し、一人ひとりの生を、存在を大切にしないとき、その尊厳は傷つけられていきます。聖書の時代では、イスラエルの人々、バビロニアの捕囚から逃れられなかった人々、そして貧しさや病気から、社会の片隅に追いやられた命、一人ひとりの生を大切にされない人々がたくさんいたからこそ、その尊厳の回復を願うイエスが歩んでこられました。現代に生きる私たちも、人生の危機に直面して、生きる拠り所を失うような、そのように心揺れ動く時、この命の意味を、又、生きている意味を問う時があります。しかし、自分の中をいくら探してもその意味を見つけることができません。この命、その根源であり尊厳は、神から与えられているからです。「主なる神は、土のちりで人を形づくり、その鼻にいのちの息を吹き入れられた」からです。神が命の霊を吹き込み、与えてくださった命は、一人ひとり違うものとして造られました。あなたの存在は、人とどんなに違っていたとしても、そのままで素敵なのだと、神さまは息を吹き込むとき、信じて願ってくださっているのです。
そして人はなぜ、神さまから「耕す」任務を与えられているのでしょうか。それは、多様に異なった人々が、違いを尊重しあって共に生きられる社会を目指すためです。人ひとりに息を吹き込み、そこに命の尊厳を注いでいてくださった神さまは、どんな違いをも積極的に受け入れ、共に生きる世界を私たちが耕していく者として、そうして神の国を作りあげていく夢を託してくださったのです。そして神さまは、絶望という闇の中に私たちが陥っても、光を与えてくださっている。「食べるために良いものをもたらすあらゆる木を地にはえいでさせてくださった。」私たちは、その愛を忘れない者でありたいと思います。その愛の先に、イエスとの出会いが備えられているのです。
それでは、お祈りをおささげいたします。
命を造り、愛し育ててくださる私たちの神さま
あなたが息を吹き込み、愛で満たしてくださった命が軽んじられてしまう場所があります
そうして、あなたが創ってくださる愛を忘れて互いに傷つけ合い、排除してしまうことがある人の弱さを、私たちは忘れずに、その弱さにぶつかりながら、違いを尊重しあい、命を大切にする者でありたいと願います
誰よりも、社会の中で小さく弱くされてしまった人のもとに、イエスが手を差し伸べて語りかけてくださったように、私たちもその愛を信じて歩んでいくことができますようにお導きください
この小さなお祈りを、今この場と、インターネット配信を通して祈りを捧げておられるすべての方の祈りと、又、祈りを捧げることのできない方の祈りと合わせて、主イエス・キリストの御名を通しておささげいたします。