《 本日のメッセージメモ 》
「〇〇しないと災害を受ける」との某教会からの手紙に失望する。それは脅迫であり、信仰ではない。
「読める、わかる、聖書のストーリー」(キリスト新聞社、竹ケ原正輝牧師著)は、分かりやすい良き入門書だ。お勧め。
同書には、終末はいつかは分からない、その日を見据えて今を生きることの大切さが語られていると「黙示禄」が紹介される。
また本日のテキスト「ヨハネの手紙Ⅰ」について、「愛し合ってるかい!?」と端的に内容が表現されている。
その通りで、イエスの教えを軽んじる「反キリスト」の人たちに惑わされず、互いに愛し合うこと、それを具体的に行うことを著者は述べた。
本日は、宗教改革記念日。およそ500年前、ルターがヴィッテンベルク城門教会の扉に掲示したという「95ヵ条の提題」を改めて思う。
十全な論文や訴状だったのではない。むしろ思いつくままメモのように書いて、仲間たちに「語り合おう」と呼びかけたものだった。しかし、それだけに真実で、だからこそ圧倒的な支持を得て行った。
子どもの落書きのように、心正直に歩みたいと思う。神はそのために人生を与えて下さった。「たとい明日が世界の終わりの日であっても、私は今日リンゴの木を植える」(ルター)
《 メッセージ全文 》
先週、と或る教派の教会(実はカルト教会)の総会長と言う人から手紙をいただきました。ちゃんと私宛で届いたのですが、どうやらあちこちの教会の牧師に出しているようです。何ごとかなと怪しんだ通り、暗い内容でした。
ざっと要約すると、ヨハネの黙示録は新しい契約の書物で、この教会ではその証しをしているので、これを聞いて信じ受け入れて欲しいということでした。そうする人たちは救われるけれど、そうでない人はキリスト教徒であっても災害を受けるようになるというのです。
読んでがっかりしました。がっかりと言うより、がっくりでした。〇〇しなければ災害を受けるというのは預言ではなくて、脅迫だと私は思います。脅迫で行う信仰は、信仰ではないですから、教会の働きでもないのです。
ちょうど、奈良の高の原教会の竹ケ原正輝牧師が、キリスト新聞社から新しい本を出して読んでいたところでした。「読める、わかる、聖書のストーリー」と題された入門書です。とても分かりやすい、お勧めの入門書です。
そのヨハネの黙示禄の結びのところは、次のように書かれていました。
「黙示禄」には、実に様々な破滅のビジョンとでも言うべきものが描かれています。そもそも世界の終わりというものを人が意識するのは、大きな絶望感をもたらす経験であり、疫病の大流行などもその一つでしょう。そのほか、大規模災害や戦争などが起る中で、キリスト教の終末論というのは注目され、見直されもして来たのだと思いますが、その聖書的背景を正しく知ることは、現代においても重要なことであるように思われます。
ここで「その通り」と拍手しました。続いて、
誤った終末理解と言うのは、時に人を破壊的な行為に導かないとも限らないからです。今の世界を壊せば、新しい世界が来ると思う人もいます。「破壊が創造を生む」といった発想でしょう。新世界の到来の前に、破滅や滅亡があるのなら、その破滅や滅亡を自分たちでもたらせば、新しい世界はすぐにやってくるのではないか、そうやって破壊行為に及ぶ人も出てきかねません。しかし、少なくとも「黙示禄」が言っていることは、その日は誰にも分からないということであり、あくまでも神が定めた終わりの日というものがあるということです。目の前の世界が良くも、正しくも見えないとしても、その日を見据えて今を生きることの大切が語られているのです。
こう結ばれて、最期にマルティン・ルターの言葉が紹介されていました。
「たとい明日が世界の終わりの日であっても、私は今日りんごの木を植える。」
全く同感ですし、強く共感します。ちょうどぴったりでした。
さて、今日与えられたのは黙示禄と同じく「ヨハネ」の名前が使われているヨハネの手紙でした。黙示禄とは別の人物による書簡です。ヨハネの手紙は、ⅠからⅢまでありますが、どれも使徒ヨハネを中心とする信仰共同体の一員が書いたとされます。ヨハネとありますが、誰かは定かではないのです。
竹ケ原先生の本では、端的にこうまとめられています。
「ユダヤ教との関係が問題となっていた福音書とは違い、教会内に生じた異端が大きなテーマとなっており、著者は、キリストの受肉を否定したり、愛の行為を軽んじたりする異端を「反キリスト」と呼び、その教えを警戒するよう忠告します。信仰者のあるべき姿として「互いに愛し合う」ということを勧めますが、それが「掟」であると言うところなどは、福音書の13章にあるイエスの言葉を彷彿とさせます。
この手紙が書かれたのは、だいたい1世紀の終わり頃と考えられていますが、教会の中に信仰を破壊するかのような「異端」がこの時代にも大きな波紋を呼んでいたのだと知らされます。
個人的には、異端とか正当とか言い募ることは好きではありません。まあ好き嫌いの問題というより、とても注意を払わねばならないことだと思っています。その言葉を使う人、立場が何なのかをよく見つめないと、正しい考えやそれを主張する人が「異端」とされる時もあるからです。
しかし、ここでは、イエスの立場やイエスが繰り返し大事にした思いを否定する人たちが出現して、手紙の著者は、それは余りに「異端」だと考えたのです。それについては、全く同意したいと思います。
竹ケ原先生の本で特徴的なのは、聖書それぞれの文書の内容をなるべく端的に表現していることで、ヨハネの手紙Ⅰには「愛し合っているかい!?」とまとめてあります。
なるほど、その通りで、今日読んだテキストは、まさに「互いに愛し合いなさい」と教えたイエスの言葉に立っているかどうかが問われているのです。著者は、それを検証するために、カインとアベルの出来事を題材としました。
この出来事について、もう一度竹ケ原先生の文章を紹介します。
私がこの物語を読んで感じることをお伝えしておこうと思います。アベルというのは、聖書が語る人類の歴史においてどのような存在なのかと言うことです。彼は、人類が創造されて最初の死者です。アダムとエバが造られて、その間にカインとアベルが生まれる。そして、その弟アベルは、兄カインに殺された。ということは、聖書は人類史における最初の死は、殺人によってもたらされたと言っているのです。
最初の死者は、天寿を全うしたのではなく殺人事件の被害者として死んだ。語弊があるかもしれませんが、私はこういうところに「聖書って、すごい!」と感じてしまいます。
こう書いているのです。聖書に記されたことが何でもかんでも素晴らしいのではないのです。むしろ素晴らしくないことを書いて、それに込めた意味を伝えている訳です。兄の嫉妬によって弟が殺されてしまった。お互いに愛し合うことをしないで、すなわち自分の立場にこだわって相手の立場を思いやらなかった結果がどうなのかを、聖書は早い段階から示しているということなのです。
今日のテキストでも、「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけはなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(17・18節)と著者が呼びかけているのは、イエスが示し、聖書に記されている事柄の大切さを読み取り受け取っているからに他なりません。
今日は宗教改革記念日です。週報にも記し、牧会祈祷でもお祈りしたように、今から約500年前、1517年のこの日、マルティン・ルターが、ドイツのヴィッテンベルク城門に、正確にはヴィッテンベルク城門教会の扉に、95か条の提題を貼りつけました。これが宗教改革の発端、出発となりました。
もっとも、本当に扉に紙を貼ったかどうかは明らかでないそうです。本当は知り合いに送った書簡だったとも言われています。それ自体は私たちにとって、もはやどちらでもいいことです。
それより「提題」と聞くと、物凄い論文かのような印象を持ちますが、元々は、当時の教会の問題点について「みんなで考えよう」という呼びかけだったのです。ラテン語で書かれていましたが、直ちにドイツ語に訳され、当時発明された活版印刷によってドイツ全土に配布されたのです。しかも読んだ人たちの圧倒的な賛同を得ました。教会には、例えば死んだ人の罪でもお金を払えば許されるとか、誰が考えてもおかしいことが満ちていたからでした。
このルターの提題は、十全によく考え、練りに練って書かれたものではありません。実のところ、ルターが教会の問題点をつらつら考えてとりあえず書いてみた走り書き、いうなればメモ書きのようなものでした。しかし、それが大いに皆の心を動かしたのです。メモ書きではあっても、本心であり、事実だったからです。
正式に何かを訴える訴状を書くとか、論文を書くとかしようとすると、やたら時間を使います。また、整えようとして真意がずれたり、迫力が薄まったりもするものです。思いつくまま正直に書いたもののほうが、多少雑であっても、伝わるのかもしれません。
私の、小学校一年になる孫はお絵描きが好きで、うちに来るたび落書き帳にあれこれをひたすら書いています。それは時に女の子の漫画であったり、おうちの配置図だったりですが、その時々の願望が正直に描かれています。この夏帰ったあとに、落書きの破片が残されていました。そこには落書きの絵とともに「じいじ、おさけのみすぎ、ぷー」と書かれていて、うひゃー!でした。
それはともかく、私たち、落書きするように、心正直でありたいと思うのです。この世的な価値観などに制約されて、思うことを押さえつけ、口を閉ざしてしまうことがどんなに多いことでしょう。
〇〇しなければ救われないのではないのです。そのような考えから解き放たれることこそが救いであり、信仰であるのです。ルターは、「たとい明日が世界の終わりの日であっても、私は今日りんごの木を植える」と言いました。
私たちも、陰に隠れて密やかに何かをつぶやくのではなく、神さまが私たちに下さった人生という大きな落書き帳に、自由に、正直に、自在に絵を描いて歩みたいと思うのです。
天の神さま、宗教改革記念に重なった今日、改めて聖書にのみ立つ信仰を覚えて感謝します。自由に生き生きと生きる者として下さい。