「コロナ下の運動会」No.83 牧師 横山順一
一年生の孫の小学校の運動会を見て来た。もう片方の祖父母の都合がつかなくて、私にお役目が回った次第。我が子の時以来だから、何十年ぶりになるだろう。
もちろん楽しかった。特に「マスカット」と題された集団演技のダンスは、可愛らしくて、ほっこり涙が流れたじいじであった。
ただ、久しぶりの運動会は、別途感じること多々あり。まさにコロナ下故に起因したことだった。それに時代の変化がプラスされた。
まずは、各学年の徒競走すべてで、先生のスターターの出来が悪かった。
「位置について」「ようい」のあと、いきなり「ピー」と笛が吹かれた。「よういピー」なのだ。
一九六四年、東京五輪の百メートルスターターを務めた佐々木吉蔵さんは、スターターの神さまと呼ばれ、「ようい」のあとに一秒六の「間」を固守された。
この絶妙の「間」を通して、選手たちはフライングのほとんどない最高のスタートを切ることができたのだった。
「神さま」と比べては、先生たちが可哀想だが、競技を早く進めたい一心で、「間」のない「ピー」を繰り返し、結果フライングの嵐だったのが残念でならなかった。
もう一つ、BGMが余りに受け入れられなかった。最近流行りの歌謡曲は、子どもたちには当たり前なのかもしれまいが。
私たちの世代は、例えば入場はワーグナーの「双頭の鷲の旗の下に」が定番だった。
運動音痴で、緊張ばかり強いられる運動会が苦手だった。それでも流れる曲によって、普段にない高揚感を与えられたものだ。
競技中は、オッフェンバックの「天国と地獄」、カバレフスキーの「道化師のギャロップ」、ネッケの「クシコス・ポスト」、アンダーソンの「ラッパ吹きの休日」、スッペの「軽騎兵」などなどが非日常の空間を彩った。(子どもの頃は曲名など知りませんでした。ネットですぐ聴けます。聴いたらワクワクするはずです。)
そしてラストは、表彰式のヘンデル「見よ、勇者は帰る」で締めくくられた。
それらが一切ない(それに対抗競技もない)ので、どうにもピンと来ないまま、サクサク進んで3時間ジャスト、午前中のみの運動会を終了したのだった。子どもたちは教室でお弁当ということで、早々に帰路についた。
観客は、児童一人につき家族四名まで。体温測定・消毒・マスクなど、きょうび当たり前の対策の上に、場所取りを禁じて椅子の持ち込みもできない。結構日差しのきつい中、立ちん坊の観戦。疲れましたわ。
恐らくこれまでは、教員やPTAの競技もあっただろう。何だか今いち違うな、と感じてハッと気づいたのは、「応援」だった。だから妙に静かだったのか。
そう言えば、「玉入れ」の数かぞえも極力小さくて、迫力なかった。 応援団も応援合戦もなかった。保護者からの「がんばれー!」もない。「声」が禁じられていたからだ。これこそが「盛り上がり」に欠けた最大の原因だった。
声って大事だな。戻って欲しい一番のものを知らされた。今、全身から声を出したくなった。