《 本日のメッセージメモ 》
1985年、ヴァイツゼッカー西独大統領が、「荒れ野の40年」という演説をなした。「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」とのフレーズは有名。そこで繰り返し「想起する」(エアインネルン)ことが語られた。
 アブラハムへの子孫繁栄の約束の中で、後に異邦人の奴隷となり400年に渡って苦しみが続くことが予告されている。
その通りになって、モーセが誕生し、エジプト脱出のリーダーとして立てられることとなった。だが、不満や弱音を再三口にするモーセと、にも関わらずあれこれの支えを与える神の姿が出エジプト記に描かれている。
目の前の苦悩への不満をぶつけ続けるモーセだったが、神はアブラハム・イサク・ヤコブらと交わした契約を忘れてはいなかった。思い起こされたと訳されている単語は、ドイツ語版では「エアインネルン」が使われている。神は想起されたのだ。
荒瀬牧彦教授は、日本聖書神学校学報に、沖縄戦の遺骨収集を続ける具志堅隆松さんを紹介され、同じように「掘り起こす」人であるよう文章を書いている。
「十戒」にも匹敵するモーセの述懐。そこに共に立つ神は、想起する方、忘れない方だった。私たちもまた、掘り起こす者・想起する者でありたい。

《 メッセージ全文 》
 1985年5月、当時西ドイツのリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領が、連邦議会でドイツ敗戦40年の節目の演説をしました。「荒れ野の40年」と題された演説です。それは第二次大戦のこと、中でもナチスドイツが行ったユダヤ人を筆頭とする人たちへの虐殺のことを心に刻もうという内容でした。途中で語った「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」という文言は特に有名になりました。(個人的には、今は盲目という言葉はあまり使いたくはないのですけど)。
 私はこの演説を「世界」という岩波書店の雑誌で知って感激しました。翌年1986年に同志社大学へ編入学しましたら、何とドイツ語の授業でこの演説が取り上げられたのです。この演説では、「心に刻む」「思い浮かべる」という言葉が繰り返し用いられているのですが、その訳は後で変えられた訳で、初めは「想起する」という訳がなされていました。このドイツ語の原語が「エアインネルン」という単語で、繰り返し使われているので、それこそ強烈に心に刻まれました。あれから35年経つ今でも、想起する、思い起こすと聞けば、即座に「エアインネルン」という単語が口をついて出て来ます。
 さて契約節の今、旧約聖書を通して神さまが結ばれた契約の文書を読んでいます。先週は創世記の中からアブラハムの記述を読みました。まだアブラムと名乗っていた時の出来事です。そこで神は彼の子孫について(繁栄)の約束をします。夜空にまたたく数えきれない星々のようになる、と。
 しかし、うれしい約束ばかりでなく、うれしくない予告も付け足されました。深い眠りのうちに、恐ろしい大いなる暗黒が彼を包んだ、と創世記15章12節にあります。よく覚えておくがよい、と言われた上で、「あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。」―こう神は語り伝えたのです。「しかしわたしは、彼が奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう」と更に言葉が続く訳ですが、ともかく、この時点で異邦の国で400年に渡って苦しい奴隷の日々が与えられることが預言されているのです。
 これが史実かどうかは別として、聖書は神の言葉に嘘偽りはないということを伝えようとする書物です。アブラハムの後、イサク・ヤコブと続いて、更にその子孫たちがエジプトに寄留する時代となりました。初めはヤコブの子どもの一人ヨセフのお陰で、その頃のエジプト王に歓迎され、受け入れられるのです。
 しかしその王が亡くなって、ヨセフのことを知らない王に代わり、エジプトで増えたユダヤ人が厭われる存在になりました。そして奴隷として過酷な境遇に置かれるようになるのです。ユダヤ人にとって長い長い暗黒の時代となりました。
 そして彼らをエジプトから脱出させるリーダーとして立てられたモーセが誕生するのです。その生涯が出エジプト記に描かれます。彼はその誕生の時から王であるファラオに抗う者として描かれていますが、アブラハムと同様に、何故そうされたのかはほとんど何も書かれていません。大人になって神の命令に応じてエジプトを出るためにファラオに相対した時、80歳だったという記述となっています。
 この年齢もまた75歳で行き先知らずの旅に出たアブラハムを彷彿とさせますが、神さまに何も問わないで命令を受け入れたアブラハムに対して、モーセはいちいち弱音を吐くのです。
 どうやったら民を信じさせられるか、自分はしゃべることが苦手だ、などなど。
神は最初は優しくモーセの弱音を聞くのです。それで蛇に変わることができる杖を与えたり、人々が信じるための不思議な力を二つ授けます。
 ところが4章の10節には「それでもなお、モーセは主に言った。」とあって、あれこれのサポートを受けても、まだ自分は弁が立たないので、と言い訳を重ねるのです。語ることは私が教えるからと神から言われても、「誰かほかの人を見つけてお遣わし下さい」と逃げています。この辺りは、思わず「モーセのへたれ!」と叫びたくなるような漫才の記述です。
 4章14節には、「主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた」と続くのです。神さまもさすがに我慢できなくなりました。ですが、だからと言って何か罰でも与えたのではなく、兄であるアロンを語る人としてパートナーにするのです。
 これほどにモーセに対して手厚く助けを出す神なのに、いざリーダーを引き受けてからも、モーセの思いは神への不満でいっぱいです。ファラオとの最初の交渉に失敗した後、「わが主よ、あなたはなぜ、この民に禍をくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」これが今日のテキストの直前の、5章最後の記述になります。あ~あ、とため息が出て来ます。
 でもよく考えてみれば、モーセの立場からしたら、彼の訴えも分からなくはないのです。と言うより、モーセの主張の方が、当たり前でしょう。私たちは目の前の痛みやしんどさに、耐えられない存在です。それが事前に分かっていて、恰好つけて受け入れるほうが間違いとさえ言えます。
 このしんどさに何故神は対応してくれないのか。神は何もされない方なのか。こういう不満や憤りが、私たちのうちにもあることを、モーセの述懐から暴かれる思いがするのです。当初の頃のモーセの態度は面倒臭いですが、正直私たちもそうです。
 けれども、この書物の著者は、壮大な物語の中で、私たち人間の小さな思いをないがしろにされる神ではないことを、はっきり書くのです。「わたしは主である」と、今日のテキストには2度書かれています。かつてアブラハム・イサク・ヤコブたちと契約を立て、カナンの土地を与えると約束したこと。エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞いていること。それを語り、「わたしの契約を思い起こした」と5節で記しているのです。
 これは実は2章の終わりに、既に描かれた文言です。2章の23節から、「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」
 ここにも「思い起こされた」と記してあります。思い起こされたとは、まるで人々のうめきを聞いて、ようやく忘れていたことに気づいたかのような印象ですが、そうではありません。思い起こすと訳されているヘブライ語の原語ザーカーという言葉は、覚える、心に留めるとも訳される言葉です。想起するとしても良いでしょう。神は心に留め、刻み、思い起こした、想起したのです。それは、「忘れない」という意味でした。
 思い起こすとあったので、今回ドイツ語の聖書を読んで見ました。ドイツで今一番用いられているルター訳の2017年版の聖書を見ると、ここでエアインネルンという単語が使われていました。想起する、です。35年ぶりに、聖書の中でエアインエルンという言葉に再会しました。
 9月に届いた日本聖書神学校の学報巻頭言に荒瀬牧彦先生が「掘り起こす人」という文章を書いておられました。沖縄の辺野古では、住民・県民の反対にも関わらず、埋め立て工事が延々続いています。これから埋め立てに使われる土砂が沖縄本島南部から採取される予定となっています。ところがそこには沖縄戦で亡くなった多くの戦死者の遺骨が含まれているというので、自然破壊に加えて強く反対している人たちがいます。
 荒瀬先生は、その代表の一人である具志堅隆松さんを取り上げて、彼の著書「ぼくが遺骨を掘る人ガマフヤーになったわけ」を紹介しています。「著書に掲載された生々しい発掘現場の写真の中に、具志堅さん自身が遺骨の体勢を取って横たわっているものがありました。その人の身になって、どのような最期であったのかを思いめぐらしているのです。土の中に埋められた一人ひとりへの深い敬意に感銘を受けます。そして同時に、その姿勢から一人の説教者としての自分が揺さぶられるのを感じました。」と書かれて、「聖書には、声なき者の声を聴き取ろうとする姿が様々な仕方で描かれています。(中略)これらの姿を通して私たちは、神が声なき者の声を聴きとり、奪われているその者の尊厳を取り戻すことを願っておられる神である、ということを知らされます。」と続けられているのです。
 神学校の通信ですから、神学生や卒業生である牧師に向かって書かれた文章ではあるのですが、「労を厭わず、歴史の土を掘り起こし、そこに埋もれている声を聴き取る者、そして、目の前の現実の中に埋められている人の声を掘り起こす者」とは、ひとり説教者だけに託された働きではなく、多くの人に託された務めでもあると思っています。掘り起こすとは、忘れないための作業です。それが想起することです。
 モーセはあれこれ愚痴やら小言やらをつぶやきながら神に従いました。そのモーセに放ったりしないで向かい合った神がいました。モーセの述懐があってこそ、これらの記述がなされたのです。そもそもモーセも掘る人の一人でした。後に与えられる十戒は有名ですが、それと匹敵するほどモーセ自身の言葉の振り返りに意味がありました。ましてやそこに共に立つ神はそうでした。神自身が掘り起こす者、想起する方でした。それにならって私たちも、埋もれている声を掘り起こす一人でありたい、想起する者でありたい、そう思うのです。

天の神さま、私たちには嫌なこと・逃げたいこと・つらいことがあります。忘れてしまいたいと思います。でもそのすべてから逃げ出すのではなく、どこかで想起し、掘り起こし、見つめる者とならせて下さい。