《 本日のメッセージメモ 》
意図しない出会いが重なって、忘れ得ぬ本にたどり着いた経験を、笹森田鶴司祭が記している。それを読んで、自分もそうだと、デジャブ(既視感)を感じた。
テキストは、サムエルと2代目王となるダビデの出会い。サムエル記のほとんどは、初代王サウルと2代目王ダビデの記述だが、二人ともサムエルから油を塗られた。
ダビデの生涯を振り返ると、凄いこともあったが、悪いことも多々あって、名君とされる理由が分からない。けれども遡のぼれば神にたどり着く。(「イラストで読む旧約聖書の物語と絵画、杉全美帆子著、河出書房新社」は、文章の苦手な方にお勧め。著者はこれを書いて、善く生きようと思ったとある。)
普通、未来は新しく、過去は古い。故に、過去から努力して学び、未来へと考える。しかし、キリスト教は、その逆を示す。イエスから、まだ見ぬ未来を、現在に垣間見て生きる生き方を示された。
作家の中澤晶子さんは、場に立つことで理解できたり感じたりする感覚を大切にして、広島を語り続ける。体験を重ねて研ぎ澄まされる感性を思う。デジャブもそうだし、信仰生活もそうだ。
過去はいつも新しく、未来は常に懐かしい。そこに生かされることは、ただ感謝である。

《 メッセージ全文 》
 「本の広場」という小冊子12月号に、笹森田鶴という聖公会の司祭が文章を書かれていました。「おいで子どもたち」という、斎藤惇夫さんが書かれ、2016年に聖公会から出された本が紹介されているのですが、本以上に、その本にたどり着いた軌跡の方に興味が湧きました。
 元々子どもの頃から絵本が好きだったという笹森さん。でもファンタジーという分野には縁がなかった。子育てで出会ったといいます。そして所属していたグループの講演会で、児童文学者の斎藤惇夫さんと出会うのです。更に後になって、ご自分の仕事つながりの中で思いがけず再び斎藤惇夫さんと直接出会いを与えられ、先ほどの「おいで子どもたち」という本と出合うことになったのです。
 ご本人が何か特別な努力をなさったとか、計画的に準備されたとかではなくて、その時々に思いがけないつながりや出会いが与えられ、大きな刺激や学びとなって今に至っている。後から考えると、一筋の道のようにつながっているような―そんな出会いの体験が皆さんにもあるのではないかと思います。私にもあります。ですから、笹森さんの文章を読んで、これはどこかで体験したこと、見たことのある道筋に思えました。
 その場所や人を直接知らないのに、まるで既に知っていたかのような感覚を覚えることをデジャブと言います。日本語で言うと、「既視感」という感覚です。笹森さんの文章を読んで、笹森さんの体験なのに自分の体験のように感じて、これはデジャブだと思いました。
 このデジャブ(既視感)は、まるで畑違い、全く関心がないような領域ではまず起こらないそうです。どこかで似たような体験や思いのあることの中で、時として「これ、知ってるかもしれない」という不思議な思いに満たされるのです。
 さて、今日与えられたテキストはサムエル記でした。ダビデが王として選ばれた時の話です。実際に王になるのは、まだ後のことではありますが。サムエル記は上下2巻に渡る長い書物で、サムエル記と題されていますけど、サムエルのことは実は少しで、イスラエル初代の王となったサウル、そして2代目の王となったダビデの生涯がほとんどを占めています。
 サムエルは最初神殿に仕える者でしたが、先見者として生きるようになります。言わば、預言者のような存在でした。初めはイスラエルに王はいなかったのです。民たちが王を望んだのです。サムエルは、それは「王の奴隷になることだ」という神の言葉を伝えるのですが、それでも民たちは「王が必要だ」と言い張った結果、王が生まれることになりました。
 初代の王サウル、二代目のダビデ、共に神さまが選びました。サムエルは神の選びを聞いて実行したのです。ですが、記述を読むと、神の選びにも関わらず、人間の思いがかなり込められているように感じられてなりません。
 例えば、サウルについて、サムエル記上9節の冒頭にこうあります。「ベニヤミン族に一人の男がいた。名をキシュといい、家系をさかのぼると、アビエル、ツェロル、ベコラト、ベニヤミン人のアフィアに至り、勇敢な男であった。彼には名をサウルという息子があった。美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった(1~2節)。
 ちなみに、2019年に河出書房から「イラストで読む旧約聖書の物語と絵画」という本が出されています。新約篇もあって、いずれも杉全(すぎまた)美帆子さんというグラフィックデザイナーの方が書かれました。
 この本の帯に、「ああ、楽しかった。旧訳聖書でこんなに笑ったの、人生で初めてだ」というヤマザキマリさんの言葉が載っています。その通りで、サムエルがサウルと初めて出会った時のマンガが「うわっ!一目でわかるわ、あやつに違いない」とサムエルが叫んでいて、肩一つ抜きんでて長身、超美男!というサウルが描かれています。
 ちょっと前に竹ケ原正輝牧師の入門書を紹介しましたが、文章を読むのは苦手、漫画のほうがいいや!と言う方には、こちらをお勧めします。暇な時、つらつら読むのに最適です。ついでにマンガによる旧訳聖書は里中満智子さんも描かれています。
 繰り返しますが、サウルも神が選ばれたのです。ただ現実にそれを実行したのはサムエルで、人間の視点から見たら、サウルの見た目はいかにも良かった訳です。
 しかし残念ながら、サウルは調子に乗ってしまいました。初めの働きは良かったのですが、功績を上げるうちに神の命令を聞かなくなってしまったのです。当然王の地位を神から切られます。あっと言う間の転落でした。
 サウルに油を注いで王として立てたのは、サムエルでしたから、サウルの行状を知り、神の思いを知ってなお、この顛末を嘆き続けたのです。そういう経緯が15章までに記述されています。
 そして今日の16章。サウルを思って嘆き続けるサムエルに、「しっかりしろ」と神さまからの一喝がなされます。そしてベツレヘムのエッサイのもとに行くよう命じられるのです。エッサイの息子たちの中に、次の王となるべき者がいる、と。
 さあ、その舞台はベツレヘムで、表向きサムエルが主催する会食の宴となりました。そこへエッサイとその息子たちが招かれたのです。そして食事の前に、一人ずつ無薄子たちを見定めすることになりました。そのトップバッターである長男エリアブを見たサムエルは、6節にあるように「彼こそ主の前に油を注がれる者だ」と思ったのです。恐らくはサウルの時の体験がよみがえったことでしょう。
 ところがすぐさま神からの指令が告げられるのでした。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
 そうして結局そこに招かれた7人の息子の誰もが神の選びとなりませんでした。「エッサイの息子たちの中から」と予め告げられていますから、サムエルは「あなたの息子はこれだけですか?」とエッサイに尋ねます。
 もう一人いたのです。それが、まだ少年だったので、残されて羊の番をしていたダビデでした。結果、人を遣わして連れて来られたダビデが、ついに神の選びに適ったのです。ただし「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」という12節の記述は、「主は心によって見る」と言われたにしては、いかにも見た目の印象のようで、これはちょっとご愛敬でしょうか。
 ともかく、これが二代目王の選びの記述なのです。ここにはダビデの思いは何一つ描かれていません。事前に何かを知らされていたのではありませんでした。そもそも会食の席にさえ遠慮させられた、まだ少年に過ぎなかったのです。サムエルから油を注がれても、具体的なことは何一つピンとは来なかったことでしょう。
 私たちは教会生活の中で、繰り返しダビデの話を聞きます。そのほとんどがイスラエルの歴史の中で、最も輝いた名君としてのダビデ像です。確かに、巨人ゴリアトをたった一発の石で倒したとか、琴の名手であったとか、連戦連勝であったとか、恰好の良い、目の覚めるような働きもありました。イスラエル統一を果たし、エルサレムを都としたことは、大きな出来事でした。
 けれどその一方で、部下の妻を横取りしたこともあり、それでいて妻が結局8人、側女が10人もいて子どもが18人いたこと。サウルから逃げ回ったり、多過ぎる子どもたちのことで右往左往したり、頼りなく無様な姿も同じくらい記されてもいるのです。それを読むと、どこが立派で、彼の何を神が認められたか、にわかに分かりません。サウルとどこが違うかと言えば、たった一点、罪を悔いたことでした。
 先ほどの杉全さんの本には「反省できる名君」と題して、天性の指導者、美男子、文武両道、温厚、琴の名手、優れた詩人、作曲家、30歳で王になり40年間治めた超名君とある一方、不倫で大失敗、息子との確執とイラストで短くまとめられています。
 これらの出来事を読みながら、ダビデの生涯と自分を重ねるものは何もないと誰もが思うことでしょう。それはそうだと思います。余りに突拍子もなくて、具体的なことは私たちと随分違うのです。またユダヤ人ではない私たちが、ダビデをことさら持ち上げたりする必要もありません。敢えて何か学ぶものがあるかと問えば、何もないような気にさえなります。大体、ダビデとは「失敗」「敗北」という意味の名前であるのです。
 にも関わらず、この「何故選ばれたか分からない」選びは、アブラハムもそうでしたし、モーセもそうでした。それなのに何故用いられ、何故与えられ、何故今に至るのか。少なくとも自分の力によるのではないことが繰り返し聖書に書かれています。
それは、実は私たちもそうなのではないでしょうか。今日は収穫感謝で、改めて神の一方的な業について思い起こします。収穫感謝と言っても、例えば地球温暖化によって収穫が得られなかった人たちもいますので、軽々しくまとめてはいけないことを心に留めつつ言いますが、多くの人にとって与えられたものはすべて一方的なことだったと思うのです。何か自分で意図し、計画したことではありませんでした。食べ物だけでなく、基本的に何でもそうだと思います。究極的には命もそうです。与えられるものは一方的、すなわち生きているようで生かされている真実、原点をさかのぼれば神にたどり着く、過去から繰り返して知らされる新しさです。杉全さんは、あの本を書いて、つまり旧約聖書を読んで、「善く生きよう」と思った、とあとがきに書いておられます。不思議なことですが、過去から新しさを知らされたからではないかと想像しています。
 私たちは、普通は過去は古いことで、未来は新しいことで、古いことから学んで、努力して未来へつなげるのだと思っています。それは当然そうです。でもキリスト教信仰を通して示されるのは、その逆なのです。
 イエスから、まだ見ぬ未来を知らされました。一度も経験していない天の国を教えられました。それで、未だ実現していないのに、それを信じ、現実の小さな出来事の中にちょっとだけ垣間見て、見て来たかのような懐かしさを感じるのです。
 作家として広島の出来事を伝えようとされている中澤晶子さんが、「皆さんは、その場に立つことで、「あ、そうだったのか」と自然に理解ができたり、素直に何かを感じ取れた、そんな経験はありませんか。視覚だけでなく、風や光や匂いや音など、五感に働きかけてくるものすべてが、過去の出来事をいまにつないでくれる―広島の町で「被ばく建物」を巡るたびに、私はそんなふうに感じて、「場の持つ力」の大きさを改めて思います。」と書いていらっしゃいます。体験を重ねるごと、研ぎ澄まされる感性があります。
 既視感もそれに似ているかもしれません。それは人間の精神の持っている複雑で柔らかな構造によるのかもしれません。そして信仰生活を重ねることも、感性を耕すことに近いのかもしれません。「老人は夢を見、若者は幻を見る」とヨエル書(3:1)にあります。過去はいつも新しく、未来は常に懐かしいのです。そこに生かされていることを、ただ喜びたいと思います。

天の神さま、あなたから与えられたものを顧みて、感謝します。この体さえもしばしお借りしたものかもしれません。あなたに支えられて存在する一人ひとりの魂を、その重さを改めて思い、次の歩みへ押し出されて行く者として下さい。