《 本日のメッセージメモ 》
総選挙等を通じて、「公約」を多々聞いたが、その実際はどうなるだろう。太宰治の小説「走れメロス」を思い起こす。約束を懸命に守った主人公だった。
テキストは、実は13章冒頭の出来事から始まる。神殿の立派さに心奪われた弟子への忠告から、イエスの話は終末の時の語りへ移った。
そこで繰り返されたのは33節にもあるように、「その日、その時は神以外だれも知らない」ということ。
それなら4回も言われた「目を覚ましていなさい」とは、無理があると感じる。寝ずに起きておくことなどできない。
しかし、この一連の予告で最も大事なのは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(31節)にあるだろう。
イエスのたとえ話も、僕らを信頼して出かける主人となっていた。メロスも「信じられているから、走る」のだったように。
私たちは、自身の弱さを置いて、神の約束については誠実に「まっすぐ」でありたい。悪い権力者のようにゆがんではならない。
イエスは、弟子たちだけでなく、「すべての人に言うのだ」(37節)と語った。心の目を覚ましていたいと思う。

《 メッセージ全文 》
 10月31日、衆議院選挙が行われてから、もう一か月が経ちました。その前に行われた自民党総裁選挙、それから現在行われている立憲民主党の代表選挙と、私たちは候補者からの様々な言葉をずっと聞きながら今に至っています。そこでは選挙「公約」という名の約束が随分語られました。公約を実現するには、もちろん時間がかかりますから、まだまだこれからのことですが、そもそも選挙戦で語ったことは希望に過ぎず、現実には初めから無理というような主張もあります。やっぱりあれは選挙用の方便というか原稿に過ぎなかったのか、などと早くも感じさせられることです。

 今日のテキストを読んで、「約束」について考えました。そして久しぶりに「走れメロス」という小説を思い出しました。1940年に書かれた太宰治の名作短編小説です。
かつていつ頃読んだのか覚えていません。教科書にも採用されて長いので、初めは教科書で読んだのかもしれません。ともかく、懸命に約束を守った主人公のことだけ覚えていて、後はすっかり忘れていました。それでネットで調べて、ざっと粗筋を読み直しました。知ってるけれど、詳細は定かでないという人もいらっしゃると思うので、おさらいしたいとおもいます。

▼羊飼いのメロスは純朴で正義感の強い青年でした。彼は妹の結婚式の買い物のため、シラクスの町へ来ました。すると、昔は賑やかだったシラクスはとても寂しく落ち込んでいました。
▼メロスは町の人から、王様が人間不信に陥ったため人々を虐殺しているという事実を聞き、激怒します。暴虐無人な王を暗殺しようと決意した彼は、短剣を携えて城へ侵入しますが、すぐに捕まってしまいます。さらに王に向かって「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ」と言い放ちます。
▼そうして死刑が確定したメロスは、妹のもとに帰って結婚式を挙げてやるために、3日後の日没まで猶予をくれと頼むのです。そしてセリヌンティウスという親友を人質として王の前に差し出したのです。人間不信の王は、メロスが親友を裏切って逃げるのもまた見ものだと思い、これを承諾します。
▼こうして、メロスは一睡もせず走って家に戻り、妹の結婚式を無事に挙げました。そして最後の1日の明け方、目を覚ましたメロスはシラクスへとひた走るのです。ところが豪雨で増水した川の濁流に手こずりながら泳ぎ切り、思いがけず襲ってきた山賊に何とか打ち勝つのです。が、ついに体力の限界を迎えて動けなくなってしまう。
▼一度は諦めかけたメロスだった。が、水を飲んで回復し、それでも自分を信じて待っている親友のもとへ走り始めるのです。血を吐いてボロボロになりながらも、彼は日没直前の瞬間、処刑台の前へと滑り込むことができました。
▼セリヌンティウスは、一度だけメロスを疑ったことを白状し、メロスもまた一度だけ友を裏切りかけたことを白状します。2人は一度ずつ互いの頬を殴り、そして熱い抱擁を交わしました。
▼この美しい友情を見た王はメロスを無罪にし、さらには「自分も仲間に入れてくれ」と懇願したのでした。町の人たちは「王様、万歳」と歓呼しました。
人間不信の王は、実は最初から「帰らなくて良い」とメロスに耳打ちしたり、帰り道に襲って来た山賊は王からの回し者だったり、本当はなかなか辛辣ですが、おおまかなストーリーを紹介しました。

 さあ、それで今日のテキストに戻ります。「目を覚ましていなさい」と小見出しが付けられている通り、「目を覚ます」という文言が、短い一段落の中に4回も使われていました。
何故、目を覚ましていなければならないか、それは終末について語られているからです。もともとこの話は、13章初めの出来事に遡るのです。イエス一行が、エルサレムの神殿を訪れた時の話です。
それはイエスの逮捕、そして十字架の出来事が近づいた直前の出来事で、神殿を訪れる前まで、イエスは繰り返し、この世のものに勝る見えないものの大切さについて話をして来たのです。
それなのに、弟子たちの一人が、それまでのイエスの話などすっかり忘れて、エルサレム神殿の立派な作りに感嘆したのです。イエスは直ちに、それに反論しました。「どんなに立派でも崩される時が来る」と。
もちろんそれは、見えるものを超える大切なものがあるという忠告でしたが、弟子たちの関心は、その時はいつ来るか、その時どういうしるしがあるかという破滅の時についてに向かいました。
イエスは、その質問に対して、終末の時の返答をなしたのです。終末の時には大きな苦難が起るという予告です。ただし、その時については分からない、という話でした。今日のテキストは、その一連のイエスの予告の最後に語られたものになります。
ここでもイエスは、まず「その日、その時は、だれも知らない」と語り続けているのです。天使たちも、子も、すなわちイエス自身も知らないと語っています。それは父だけ、つまり神だけがご存じであるのだ、と(32節)。そして僕たちに留守を任せて旅に出る主人の例え話を続けたのでした。

 先に話した「走れメロス」は、名作だけに、ネットには様々な意見が載せられています。さすがに素晴らしい、感動したという声だけでなく、おかしいやんという反論もたくさん挙げられています。メロスの村までは10里(40キロ)とされていて、物語の通り読んで行くと、メロスはずっと走ってなくて、単純に割ってみたら時速5キロちょっとで、早歩きだった。走れメロスじゃなくて、走れよメロスじゃないか、など、ちょっと噴き出してしまうものがありました。めちゃくちゃ暴君の王さまが、最後にコロッと変わるのも、胡散臭いという分析もありまして、結構するどいというか、一定の説得力はあります。

 そのように少し引き気味にして今日のイエスの言葉を読むと、終末の時はイエス自身も分からない、神のみ知ること(The God’s miso soup=神のみぞ知る)であるなら、目を覚ましていなさいって言われて、いつなのか、いつまでか分からないのに、相当無理があると反論する人もいそうです。妥当な意見です。
まして家の主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない(36節)などと言われれば、「寝ずに起きていないと駄目なのか?」と突っ込みを入れそうになります。

 けれども、13章冒頭から続く、この一連の長いイエスの話の中の、最も抑えたい点は、終末の時の恐ろしさや破滅への不安感などではなく、今日のテキストの一つ前31節で語られた「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」という言葉に尽きるのです。

 いつ、どうなるかは全く分からない。それに怯えて暮らすのではなく、それから逃げて忘れて生きるのではなく、イエスが語った神の言葉の真実は滅びないのだから、そこの希望に生きよう、それが最大のメッセージではなかったかと思うのです。

 弟子たちは、神殿の造りの豪華さに目を奪われました。心が奪われたと言っても良い反応でした。しかしイエスの視点はそこにはなかったのです。人間の目で見て、どんなに豪華で素晴らしくとも、それをはるかに凌駕する大切なことがあるのです。その豪華な神殿で、直前に、持っていたわずかなお金、2レプトン銅貨全額を献げた貧しいやもめがおりました。イエスはその人を見て「だれよりも入れた」と心に刻んだのでした。

 今日のテキストで再三語られた「目を覚ましていること」とは、まさにそういう視点を持て、ということではなかったでしょうか。「眠らずに起きている」ことではなく、心の目を曇らさず、澄ませていることを意味しているのではないでしょうか。

 家の主人が突然帰って来て、眠っている僕たちを見て、もし叱るとすれば、実際眠りこけていることを指すのではなく、心の目が曇って大事なことが見えなくなっていることについて、ではないかと想像します。

 例えば、近畿財務局の職員が、置かれた立場や指示された職責に悩み惑い、遂に自死しました。このことの責任を誰も取らぬまま、時が過ぎています。このまま事件の本質が明らかにされず、誰からも忘れ去られるような世であるなら、世の終わりではないかと思います。地震や飢饉などの大規模な災害でなくても、まるで太陽は暗くなり、月は光を放たないような暗闇です。このような不道理がまかり通る世は、末期的だと思うのです。

 ですが、それはそれでもイエスの言う終末ではありません。イエスの伝えようとする終末は、人の子が再び立つ日のことです。神の支配が実現する日のことです。私たちは神の約束は必ず実現するという確信を、旧約聖書によって、すぐる一か月振り返って来ました。今度は私たちの応答が問われます。

 「約束は破られるためにある」というようなふざけた言い草を、誰がなすのでしょうか。それはしばしば悪い権力者ではないでしょうか。そんなゆがんだ者になりたくないのです。「走れメロス」で読者の多くが心震わせるのは、何のために自分は走るのかという自問に、「信じられているから走るのだ」というメロスの答えです。

 イエスは、家を留守にするに当たって、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように指示した主人の例えを話しました。僕たちを信じ、信頼していたが故です。信じていなければ、そのような指示などしないのです。

 私たち、足りない、愚かな存在ではあります。個々人の約束を一度も破ったことはないなどと言えるほど強くはありません。けれども、信じて委ねられていることに感謝し、神がなさった約束には誠実に「まっすぐ」でありたいと思うのです。イエスは最後をこう締めくくっています。「あなた方に言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(37節)

天の神さま、小さな私たちを信じて任されるあなたに、心の目を覚まして応えたいと思います。み子を下さるアドヴェント、この約束にも感謝をもって、まっすぐであれるようお導き下さい。