《 本日のメッセージメモ 》
「釜ヶ崎監視カメラ弾圧裁判」の被告人尋問を通して、本来知らなくても良かった各人のこれまでの生き方を知らされた。それは何も特別なことはないもので、命を大事にする生き方だけが共通していた。
どんな世界にも、しきたりや作法が生まれるのが常だが、ことに神をバックとする宗教界はそうだ。ユダヤ教もキリスト教も例外ではない。
テキストは、弟子たちが食事の前に手を洗わなかったことにファリサイ派や律法学者らがイエスへ文句をつけた箇所。
「昔からの言い伝えによる」とは、有無を言わさないユダヤ社会の常識が背景にあった。ただ衛生面によるのであれば、謝罪で済む話だが、そうではない悪意に満ちた意図をイエスは読んで反論した。
最上級の「十戒」さえも、都合良く解釈して用いる彼らの実態があった。それでいて、他者を攻撃し、貶めることを許さなかったのだ。
現代の私たちの世界も変わりない。作法や言い習わしのすべてを否定、拒絶するものではない。が、吟味することも大切。何より、謙虚に、自分で考え行うことを、神はよしとして下さると信じる。ゼロから、それぞれのやり方で始めることは、命を大事にする生き方の土台となる。

《 メッセージ全文 》
 以前にも紹介しました「釜ヶ崎監視カメラ弾圧裁判」は、公判が進んで終盤を迎えています。検察側は、カメラにゴム手袋やビニール袋をかぶせたのは、地域で長年活動して来たIさんの計画と指示によって、Hさん他3名の人たちが実行したという絵図を描いています。その想像によって逮捕され、起訴された訳です。
 ここに端からの一方的な思い込みがあるのです。釜ヶ崎で起こされる事件は、誰かが主導して起きる。突発的なものではなくて、計画的で共謀的である。そういう思い込みです。
 ひょっとしてそういう場合もあるのかもしれません。しかし、ほとんど聞いたことがありません。何度も言いますが、多くの場合、私も含めてお互いに本名も知らない、ニックネームくらいしか知らない間柄なのです。
 過去を問わないことが釜ヶ崎の基本です。暗に定められたルールです。だからこそ、どんな人も受け入れられる町であるのです。大事なのは、「今」だけ。今何を語り、どう動くか、それだけを垣間見ながら親しくなるのです。
 被告人の弁護人たちは、誰の主導で、共謀して起きたことではないことを説明するために、被告人一人ひとりに釜ヶ崎に関わることになった人生の経緯を尋ねることにしました。それはほとんど初めて聞く話で、お互いに知らないことばかりでた。今言いましたように、知らないでも良いことだったのです。
 けれども、思いがけず知らされたそれぞれの経緯は、驚くほど普通で、特別変わった話ではありませんでした。釜ヶ崎で何か運動をやっていると聞くと、そこへ至る何かドラマチックな、普通にはない出来事があって、たどり着いたかのように思われます。中にはそういう人もいるかもしれません。
 しかし、今般逮捕された人皆が、たまたま誰かに連れて来てもらったとか、成り行きで今に至っているとか、わざわざ釜ヶ崎に来るのに特別な意志や変わった出来事があった人などいませんでした。多くの人が今を生きるのに、特に意識的に何かを選んではいないだろうということと、何ら変わりがないことを知らされました。それは、むしろ余りに自然なことで、その自然さに逆に感銘を覚えたくらいでした。そして敢えて言えば、みんな命を大事にする生き方をして来た人たち、それが最も共通する
ことでした。
 しかし、考えてみれば、どのような世界でも何かを行うに、それぞれしきたりや決まり事が作られる、できるのは現実の常でもあります。朝散歩の途中で、神社の前を通ることがありますが、結構な数の方々が早くからお参りされているのを見かけます。拝殿で二礼二拍手一礼という作法は聞いた覚えがあるのですが、皆さん、鳥居の前でまず深々と一礼してから入ってゆかれるのです。それも大事な作法だと最近知りました。でもいつ頃、誰が、どういう訳でそういう手順とか作法とか考えたのか、決めたのかまでは知りません。
 色々な世界での、各々の定めごとの中でも、特に宗教の場合は、神さまに関わることなので、中身を吟味することは滅多になくて、有無を言わさず「決まりだから守る」ということが多いのではないかと思います。もちろん、キリスト教も、ユダヤ教も例外ではありません。
 今日のテキストは、まさしくその一例の出来事でした。ユダヤの世界では、食事の前には、丁寧にかつ厳格に「手を洗う」ことが守られていました。それは、昔からの言い伝えによるもので、直ちに宗教由来と言うものではありませんでしたが、肉体が汚れることイコール魂の汚れと思われていましたので、結局「罪」にたどり着いてしまう、つまり宗教に関わることなのでした。
 そんなことごとは当たり前のユダヤ社会において、どうしてこんなことが起きてしまったのか。こともあろうにイエスの弟子たちが手を洗わず食事をしてしまったのです。更には、こともあろうに、それをファリサイ派や律法学者たちに見られてしまったのです。清さとか汚れとかについて、彼らは誰より敏感だったのです。
 ただ単純に「衛生」の問題であったら、御免なさい、おなかが減っていてうっかりしました、で済ませられるでしょう。別にユダヤでなくても、食事の前に手を洗うことは、衛生面からは普通のことです。
 ところが、市場から帰ったら身を清めてからでないと食事しないとか、杯・鉢・銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある、とかが4節5節でわざわざ説明されているように、事はただうっかり忘れでは済まされない作法の一部だったのです。
 寝台を洗うなんて、ちょっとやり過ぎというか、考えられない厳格さですが、それは魂の清さを保つためで、昔からの当然のことと言われれば返す言葉はありません。その「昔から」とは、いつとは定かでなくても、暗にユダヤ人たるものの証明に近いものを連想させます。日本人だったら靖国神社を参拝するのは当然だと言うようなことに近いのでしょう。要するに、手洗いは、ユダヤでは私たちが想像するよりもはるかに大事な作法でした。
 であれば、うっかりなど許されません。意図的であればもっとです。どちらか判明しませんが、弟子たちは配慮に大いにかけていたことになります。ファリサイ派や律法学者たちからの厳しい注意は、通常なら「おっしゃる通り」ですから、イエスは弟子たちの無作法・不調法を謝罪して、それで早く終わらせても良かったのかもしれません。否、そうするほうが事態を無難に済ませる方法だったのです。
 けれども、恐らく小さな一つの事を大きく捉えて、悪意をもっていつまでもネチネチと言いがかりをつけかねない状況をイエスは見抜いていました。彼らは弟子たちに直接言わず、イエスに向かって「あなたの弟子たちは」と声をかけたのです。弟子たちの行為の背後に、リーダーたるイエスの指示があったかのようにです。何だか、監視カメラ裁判が重なって見える気がして来ます。
その上、まるで警察か、神かのようになり代わってモノを言う彼らの欺瞞をイエスは知っていました。それでイザヤの言葉(29:13)を用いて痛烈に皮肉ったのです。原文ではこうです。「この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが 心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても それは人間の戒めを覚え込んだからだ。」
ユダヤの民にとって、昔の言い伝えにも勝る、はるかに重要な「十戒」がありました。その中の第5戒「あなたの父と母を敬え」について、彼らは都合良く振る舞っていたのです。この戒めに従って、年老いた両親の世話をすることは、当たり前の務めとされていました。それで、例えばどこからか何か良いいただきものがあれば、まずは両親にささげるのが通例でした。しかし彼らは、これはコルバンにしますから、と言ってそれを回避したのです。コルバンとは、神への献げもののことです。そう言えば、誰も文句は言えないのです。ただし、実際に神に献げはしないで、自分の懐へ、ということが常態化していました。他者については目ざとく指摘と批判を繰り返しながら、自らのセコイ実態については堂々と言い訳するのです。いずれも神を用いて、です。まさに「口先では敬うが心は遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくあがめている」との通りでした。
 昔からの言い伝えや神を持ち出してモノを言うファリサイ派や律法学者に盾突くことは、事を大きくするだけでなく、身の危険に即つながることでした。イエスだって、何も衛生面で言うなら、手を洗うこと自体を否定・拒絶していたのではないでしょう。また昔からの言い伝え一切がおかしかったというのでもありません。例え、作法の根拠を知らないとしても、それ自体がすべて間違っているというほどのこともないのです。
 それでも、言いがかりをつけて他者の人格を傷つけたり、貶めるかのような人たちに、イエスは明確に「ノー」を突きつけました。ほんの少しのいちゃもんではんかったからです。大げさに検証するまでもなく、事は実につまらないことでした。でも、他者を蔑ろにすることは、いつもこういう小さなことから始まるのです。そう言えば、弟子たちが安息日に麦畑の麦の穂を摘んで食べた時も、たちまちファリサイ派からお叱りがあったことを思い出します。この時イエスは「人の子は安息日の主でもある」と語りました。
 私たちの世も同じでしょう。言い習わしや作法がみんなおかしくて意味がないということではありません。意味があり、守るに相応しいものも少なくはないことです。ですが、それも含めて、すべては人間のためにあり、ひいては神のためにあるのです。それを忘れると、少しずつことは大きくされ、神を用いながら、人が規則の奴隷にされて行くのです。思い切って、打ち破って変えられたこと、開かれたことがどれくらいあるでしょう。私たちプロテスタントの信仰も、そこから始まったのではないでしょうか。
 だから、それは何のためか、どういう根拠によるのか、それを吟味し、知ることは大事です。そのためにも、まずは心を謙虚にして解放し、自分で考えて行うことを、神はよしとし、喜んで下さると信じます。世間が言うから上が言うから黙って従えではなく、「ゼロから、君のやり方」でやってみて、良いのです。それが命を大事にし、人生を喜んで生きる生き方の土台になることでしょう。

天の神さま、導きを感謝します。命を命として行けますよう、それぞれの表し方に祝福をお願いします。知っていることも、知らないことも、当たり前としないで、心を開いて向き合う者として下さい。