《 本日のメッセージメモ 》
新たなスタートは、キリの良い時のみならず、思いがけない時に本人の予想もしない形で与えられる。
テキストはイエスの受洗。ハートのエースが出て来たかのような、いわば、新たな人生の始まりである。にも関わらず、マルコの記述は驚くほど簡潔だ。通常考えられる、そこに至る様々な事情は一切書かれない。
いつも喜びの再スタートとは限らない。将来を大いに嘱望された阪神の横田慎太郎選手は、予想もしなかった脳腫瘍によって、突如野球を奪われ、24歳で引退することとなった。その苦渋は計り知れないが、今新たな歩みを開始している。
荒れ野での再スタートに当たって、イエスにそれまでの人生を断つ迷いや後悔がなかったか、詳細は分からない。
それは、この世的には目立たない小さな開始だった。が、天から見れば祝福に満ちた導きと後押しだった。マルコはそれだけを書き記し、伝えた。
イエスは受け入れた。そして確かにそこから新たな歩みが始まったのだった。
人生を変えるほどの大きな転機は、そうそうはないだろう。が、小さなことでも予想外のハートのエースが出ることはある。その時、それは神からの導きと後押しと信じて、受け入れたい。

《 メッセージ全文 》
 新しい年を迎えて、もう二週目となりました。お正月に、今年こそこうしようという目標を立てた方、その後実行できていますでしょうか?決して意地悪で言うのではありません。実行できている方は、是非今後も頑張って下さい。心から応援します。
  そして、私のように既に挫折した方、諦めてはなりません。これから、です。と、自分自身に言い聞かしているのですが。言い訳にしかなりませんけど、何も1月1日からでなくて良いのです。何かを始める日、その日その時こそがスタート、始まりの日です。いつからでも可能なのです。

 さて、今日はイエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた箇所がテキストに与えられました。まさに、この日が新たなイエス行動開始の日となりました。イエスにとって、記念すべき忘れられない日であったと思います。救い主としての始まりです。だからこそ、この出来事は4つの福音書すべてが記しているのです。
 ところが、マルコによる福音書の記述は、それにしては余りにも短くて簡潔です。節で言えば、たったの3節しかありません。普通なら、もっと詳細に事情を書いてもおかしくなかったでしょう。例えば、もし今年は日記をつけるぞと決意した人が、元日に洗礼を受けたとしたら、きっと何故そうしたのかとか、どういう状況からだったのかとか、心にじんと響いたとか、これからの決意とか書くのではないかと想像します。
 ところが、マルコは余分なことは何一つ書かなかったのです。御承知のように、4つの福音書の中で、マルコによる福音書は一番古い、最初に書かれた福音書です。マタイやルカのように、イエス誕生の記述も何もありません。一つ前の8節までの一段落では、洗礼者ヨハネのことが描かれていて、ここも簡潔ではありますけど、何故そうしたのかについて記されていますし、ヨハネが着ていた物や食べていた物まで記録されています。
それに続いての、イエスの出発点の出来事であれば、もう少し説明しても良かったと思うのです。繰り返しになりますけど、どういう事情で、どんな思いでそこに至ったのか、それはイエスが何歳の時のことだったとか、通常思い浮かべる記録なら、書いてもよさそうなことが幾つもあったはずです。
 しかし、何歳だったとか、どういうことで来たのか、どうやらマルコには全く関心がなかったようです。彼にとって、伝えたかったのは、イエスがガリラヤのナザレから来たこと。ヨハネから洗礼を受けたこと。それは天からの祝福というか、後押しの出来事だったということ。これだけに尽きたのでした。
 最初の、ガリラヤのナザレから来たこと、これも地名自体に意味はなかったと思われます。私とイエスを比べるつもりは毛頭ないのですが、例えば私が岡山県久米郡(今は合併して、ありません。)で生まれたことなど、誰も関心を持たないし、意味もないでしょう。生まれた場所と現在のつながりは何もありません。それと同じだったと思います。イエスはガリラヤという田舎の、更にナザレという大方誰も知らない村からやって来た、マルコが記した意味は、それだけだったと思われます。
 ただし、これを聞くユダやの人たちには、大きなイメージが沸いたかもしれません。ヨハネが洗礼の業を行っていたヨルダン川の周辺は、集落もない荒れ野でした。都エルサレムからではないのです。ほとんど聞いたことのない、恐らくは小さな村から、更に人気のない荒れ野へとイエスはやって来た。何があったのかと想像を膨らませることになったでしょう。
 それは言うまでもなく、華々しい、きらめく旅立ちなどではいのです。現代用語で言うなら、しょぼい、みすぼらしい出来事という他ありません。なんでそうしたのか、顧みる人もまずいない小さな小さな出来事に過ぎなかったのです。この世においては。
 けれどもそれは、天においては違ったのでした。マルコには、彼独特の表現があって、あれこれ説明しないで、場面から場面を直ちに結ぶ表現法です。〇〇すると「すぐ」という、「すぐ」を多用するのです。
それが短いこの箇所でも使われています。洗礼を受けた後のこと、「水の中から上がるとすぐ」と10節に続けられています。この世的にみれば、誰も顧みないみすぼらしい小さな出来事に過ぎないイエスの洗礼でしたが、天から見れば違ったのです。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、イエスは見たというのです。
 更には「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたといいます。マルコは、これだけで充分にイエスの洗礼に大きな意味があったと確信し、これだけを伝えようとしたのです。ハートのエースが出て来た訳です。神の導きと後押しがそこにありました。
 
 ところで、蔡出発がいつもいつでも喜びに満ちたものとは限りません。寅年の今年、阪神タイガースファンの方は、「今年こそ」と期待されていると思います。もしかしたら、その期待を大きく担ったかもしれない「横田慎太郎」という選手がおりました。2019年に24歳で引退しました。
 横田選手は、お父さんも元プロ野球の選手で、その影響もあってか子どもの頃から野球一筋に打ち込んだ少年でした。とにかく練習の虫、寝る時もバットを抱いてベッドに入ったというほどの野球少年でした。
 鹿児島実業を出て、2014年ドラフト2位で阪神に入団しました。そのセンスについて、あの掛布さんが「松井選手以上だ」と言い、あの金本さんが「別格の守備範囲」と絶賛していました。打撃も守備も凄かった。その通り、桧山進次郎選手の背番号24をもらって、2016年には一軍に昇格したのです。
 しかし、突如異変が起きました。さあこれからが活躍だ、と思われた翌年2017年のキャンプで、どうにも頭痛が治らず、ボールが二重に見えるというので医者にかかったところ、何と脳腫瘍が発見されました。その日突然、野球から断ち切られてしまったのです。「野球を忘れて下さい」と医師から言われ、頭が真っ白になったと言います。
 球団は復帰を信じて彼をすぐに手放したりしませんでした。18時間に及ぶ手術と半年間の療養のあと、横田選手も懸命なリハビリと練習を続けました。それでも復帰できませんでした。それこそ断腸の思い、涙の決断で引退を決めました。球団は、2軍の選手だった横田選手の引退試合を組みました。ウェスタンリーグ、ソフトバンクとの試合、8回の裏に彼は守備につきました。やっぱりボールは見えていませんでした。そこに打者の打ったボールが飛んで来たのです。
 見えないまま、誰かに背中を押されたかのように体と手を前に出したと言います。そのグラブにボールが吸い込まれました。キャッチした後、ランナーがホームへ走っておりました。横田選手はすぐさまバックホームします。そして見事アウトを取ったのです。神さまがくれた奇跡のバックホームと言われています。阪神ではこの奇跡のバックホームのビデオを今も選手に見せて、気持ちを鼓舞していると矢野監督が語っています。多分、阪神ファンでなくても泣ける話です。
 でも、この「奇跡のバックホーム」以上に嬉しいのは、今が故郷鹿児島に戻った横田さんが、元気にしている、次の歩みを始めているということです。あれほど好きだった野球を諦めなければならなかった、その痛切な思いを他者は十分に受け止め、理解できるものではないことでしょう。将来をとても期待されていた人に、どうしてこんな定めが与えられたのでしょう。野球しかなかった人から野球を奪うなんて、それこそ神を恨んでも恨んでも仕方がない出来事でした。

 イエスはどうだったのかと想像します。30歳までは大工をしていたというイエスです。大工が嫌になったのでしょうか。家族や友人たちとの縁を切ってまで、新たな道に出たかったのでしょうか。故郷を出てヨルダン川へと向かった胸中は、これから始まることへの決意はあっても、喜びに満ちた出発であったとは思えないのです。それまでの人生を断ち切る訣別でした。捨てるのに何の迷いも後悔もなく、新たなスタート台に立ったのかどうか、その詳細は、それこそ何も分かりません。それを言い出したらキリがないし、捨てなければ始まらないということでしょうか。

 昔、キャンディーズが「ハートのエースが出て来ない」と歌っていました。その続きは「止められない、このままじゃ」という歌詞でした。その歌詞の通り、納得できる成果や結果が得られなければ、なかなか自分からは止められないのが私たち人間だと思います。その私たちに、神はどういう訳だか、信じられない別の道を開くのです。時に強烈なやり方で。
 今までやって来たことを止めて、全然違う新しいことを始めるには、普通相当の期待感とエネルギーが必要です。それなのに、これしかない野球に命をかけていた横田さんは、それを奪われてしまいました。もちろん、そんな人は横田さん以外にもたくさんいることでしょう。
 私は横田さんが脳腫瘍になったのは、神のされたこととは思っていません。しかし、野球を奪われても次の人生へと後押しされたのは、神だと信じています。同じように、それまでの人生をガラリ転換し、後ろ髪を引かれるような、受け入れがたい苦渋も含めたイエスの決断を断固と導き後押ししたのは、間違いなく神だったと固く信じます。それが霊が鳩のように降る光景と、天からの声に表されているのです。そしてそれをイエスは確かに受けたのです。そこからが始まりでした。
 自分で建てた目標とは別に、私たちにもそういう転換や新たな出発が、思いがけない形で与えられるのでしょう。大きいことは滅多にないかもしれません。でも小さなことでも、これ!という人生におけるハートのエースが示される時、きっと神の後押しがあるから大丈夫と信じて受け入れたいと思います。

天の神さま、新たな年、私たちそれぞれの歩みを繰り返し後押しして下さい。良いことも悪いことも受け入れて、次へと進むことができますように。