No.87
「余りに小さくて泣ける」
牧師 横山順一
狐狸庵の名で、きままなエッセイを書いた遠藤周作さんのように、私も当欄は、なるべくキリスト教から離れて、アホなことも含めて自由に書きたいと思っている。のだが・・・。
福音主義教会連合なる組織の通信が送られて来た。新しく議長に選ばれたというK教会Y牧師の挨拶が掲載されていた。
それを読んで、直後は怒り心頭、しばらくすると虚しさにひどく力が抜けた。
本来は、彼の挨拶文をそっくりそのまま読んでもらいたい。それは、決して私の思いが、ひとり私だけの思いではないと信じて、それを共有したいから。
だが、許可も得ず勝手に転載することは許されない。主張の一部を手前勝手に都合よく解釈したのではないつもりだから、精いっぱい客観的に要約すると、
イエスに愛されている私たちはイエスの愛によって支えられ互いに愛する、その私たちをイエスは「友」と呼んで下さる。故にわたしたちも互いに「友」で、この教えから「信仰の友」という言葉を大切にしている。
それにはその名に相応しい言葉遣いや行いの仕方がある。イエスに仕えるよう、互いに仕え合い支え合って生きる、教区や教団もそのようになって欲しいと。
ここまではまあ分かる。しかし。
自分夫妻の勤める二つの教会を紹介した上で、教会のある二つの市の人々がみな教会に連なることを夢見て日々歩んでいるのだという。それもまあ良かろう。「これがこの町の本当の幸せであり、御心に適ったことだからです」との文言さえなければ。
そして自分の生きる小さな群れの生活の中から、どうすれば幸せをもたらすことことができるかを考えると言い、「信仰の友」の交わりで、互いに愛し合う道を求めるというのだ。
ところが、教区や教団の集まりに出て見ると信仰告白に言い表されている信仰に生きていない人たちに出会ってがっかりするそうだ。
ここからはそっくり引用する。「聖書は神さまの御言葉、イエスさまは神の独り子、十字架と復活にわたしたちの救いがある、こう言ったことさえ信じていませんというのであれば、信仰の友ではありません。信仰の友として互いに愛し合い、必要に応じて労力、お金、物資も用いられることが大切です。信仰抜きの行いの友の交わり、行い第一の人中心の助け合いではキリスト教会の幸いはありません」
こう続く。いかにも「信仰深さ」をアピールしているようで、何という上から目線!狭量な思想・思考であることか!
いや、これは一部の牧師に対して言っていることでと、釈明されるかもしれない。
だが、透けて見えるのだ。自分の信じるキリスト教観を第一として、それ以外を拒否しているに過ぎない姿勢が。そんな伝道や生き方は間違っている。
キリスト教信仰のない人とも、当然「友」になれる。人間的に優れた人たちは、どこにもたくさんいる。学ぶべきで、やみくもに伝道対象にすべきではない。
期待に応え得なかった弟子をもイエスは「友」と呼んだのだ。その広さを思うと、Y牧師の余りの狭さに涙が出る。信仰の友とは、イエスの広さに従う人ではないか。