《 本日のメッセージメモ 》
 あさま山荘事件から50年。なお収監中の吉野受刑者は、判決を下した石丸裁判長から聖書と時計を贈られていた。クリスチャンの裁判長が残した記事にも、信仰から与えられた学びをはっきり感じて取れる。
テキストのテーマは「イエスとは何者か」という問いかけ。皇帝を讃える町フィリポ・カイサリアの街中で、イエスはその問いかけを弟子たちになした。
町の人々の受け止めとは違って、ペトロは「あなたはメシア」と答えた。ペトロの信仰告白と呼ばれる出来事だった。何故その返答をなせたかは分からない。
この問いかけは、弟子たちのみならず、私たちにも問われるものだ。同時にそれは、私たちの立ち位置をも問われることになる。
イエスの問いかけは、「途上で」なされた。閉ざされた場所においてではなく、日々の生活の現場での問いかけだったことを覚えたい。
「位置について」という呼びかけを五輪などで英語で聞く機会が多かった。「オンユアマーク」。直訳するなら「あなたのしるしの上に立て」ということか。
信仰生活において、私たちはイエスという救い主に向かって立つ。それぞれの立ち位置を改めて確認したい。

《 メッセージ全文 》
 1972年に全国を震撼とさせた「あさま山荘事件」が起きました。連合赤軍のメンバーが、山荘の管理人を人質に取って、銃で武装して立てこもるという、衝撃的な事件でした。私と同じ年代以上の方は、よく覚えておられるかと思います。
その事件後、連合赤軍内部で、総括を受けて17名の人たちが粛清されたことが判明して、山荘事件以上の驚愕となりました。これ以降、過激的な学生運動が消滅して行く転換点となったように思います。今年は事件から50年ということで、少し前テレビや新聞に関連の報道がなされました。
 その中の一つに、一人の裁判長の記事がありました。事件の主犯とされた二人は、既に亡くなっているのですが、無期懲役とされた一人は、今も刑務所に収監されているのです。
 「法の名において生命を奪うようなことはしない。被告人自らその生命を断つことも、神の与えた生命であるから許さない。その全存在をかけて罪を償って欲しい」と判決後に呼びかけた、当時の東京地裁の裁判長は、石丸俊彦さんでした。求刑は死刑でした。
 石丸さんも2007年に82歳で亡くなっていますが、彼は退官してから、この吉野受刑者と関りを持つようになり、ある時聖書を贈っているのです。更に、石丸さんの妻が、石丸さんの使っていた腕時計を贈ったそうです。
 その時計は、身元引受人である弁護士が保管しているそうですが、吉野受刑者は石丸さんとの関りを通して自分を見つめ直しました。そして、その恩に報いるためにも社会復帰を果たして、贖罪としての生き方をしたいと誓い、腕時計を身に着ける日を待ち続けていると書かれていました。
 ベトナム戦争反対を契機として、革命運動に身を投じて行った中で、自分を見失い、命を見失った空しい暗い事件だったと思います。が、吉野受刑者と石丸さんの出会いを知って、少し暖かい思いになりました。
 聖書を送ったという記事で、きっとこの人はクリスチャンだと思って、ネットで調べたら、まさにそうでした。東京の富士見町教会の信徒でした。死刑求刑を退けた思いの中にも、信仰から受けたに違いない学びを感じました。
 石丸さんが生前書かれた文章の一つを紹介します。
私は早大の法職過程教室で教えているが,ここにも人生の転換組が実に多い。皆働きながら,真摯に勉強を続けている。この人達が最終合格して修習生になると,雌伏から雄飛になって,法曹としての人生の豊かさがにじみ出て輝きを増してくる。実務につくと味のある,そして社会通念を的確に把握できる法曹に成長する。昨年私の刑法総合のクラスから60名が合格したが,この中にも人生転換組が多くいた。実務法曹は片々たる法律知識よりは,社会における他事多様な事実とそれに対する的確な評価と判断を必須の力とする。人生の転換・挫折を味わった人は,それだけの人生の暗さを味わってはい上ってきているから,人の弱さ,暗さが理解できる。私は法曹の資格としては,エリートで輝ける尾根づたいで合格して若くして法曹になるよりは,一度社会の泥沼に飛び込んで人生の荒波にもまれてそこから抜け出した人達のほうが社会の役に立つのではないかと思っている。このような人は,改めて金と時間を費やしてロースクールに入る手間ひまはとれない。
 私がいいたいのは,このような人生転換組みで中年の受験生に,ロースクールに行かなくても,司法試験の受験資格を与えつづけて欲しいということである。ロースクールが「質の良い法曹」の養成を主眼とするなら,その脇道でその過程に匹敵する勉強をして「質の良い法曹」になり得る人生転換組の合格への道を奪わないで,与え続けて欲しいものである。
 石丸さんの立ち位置が実によく分かる文章だと思います。先週、以前紹介しました釜ヶ崎監視カメラ弾圧裁判の判決が大阪地裁で下されました。検察の求刑通りの罰金刑が、威力業務妨害罪として4人の被告に言い渡されました。自分たちを監視されるのが嫌でカメラにゴム手袋やスーパーのビニール袋をかぶせた。無罪であるべきでした。日雇い労働者である彼らに、50万、30万、20万、10万円を払え、という。大体どこにそんなお金があるのか教えて欲しいです。裁判長が石丸さんだったら、どれほど違っていたかと想像した次第です。
 さて、今日与えられたテキストのテーマは、「イエスとは何者か」という問いに尽きます。そしてその問いは、まさに問われる者の立ち位置をも示すことになると思うのです。「ペトロ、信仰を言い表す」と小見出しが付けられていますが、ペトロを筆頭とする弟子たちだけではなく、これを読むすべての人々にも問われているのです。つまり、私たち一人ひとりに「イエスとは何者か」という問いかけとあなたの立ち位置の問いかけがなされている訳です。
 舞台はフィリポ・カイサリア地方ということでした。その名前に、そこに住む人たちの立ち位置が現わされています。ヘロデ大王の息子フィリポが治めていた場所で、ローマ皇帝(カエサル)アウグストを讃えて作った町であるのです。地中海沿岸にも同じくカイサリアという町があるので、それと区別するために、自分の名をかぶせました。
 元々はバニアスという名前だったのです。パニアスとも言います。その名が現わす通り、パンの神を祭る神殿がありました。ですから、ユダヤから見れば異教の神であり、偶像崇拝の宗教の町でした。
 それに加えて皇帝崇拝がなされたのです。この町は更にのちのヘロデ・アグリッパⅡ世の時には、ネロ皇帝を讃えてネロニアスと改名されました。住民の責任ではありませんけれど、立ち位置を問われる節操のない場所だったと言えます。ガリラヤ湖畔のカファルナウムから北へ、直線距離にしておよそ40キロほど、ヘルモン山のふもとに、皇帝を讃えるために美しく作られ整えられた町がありました。
 そういう町までやって来たイエス一行でした。27節には、「その途中」でイエスが弟子たちに問いかけているのです。まずはそこの人々が「わたしを何者だと言っているのか」と。
 パンの神の神殿があり、皇帝崇拝をする町ではありましたが、人々はイエスに対し、「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の一人」というような理解をしていたようです。弟子たちはそのままそれを伝えました。しかし、イエスの真の問いかけは、実は住民ではなく、弟子たち一人ひとりにあったのです。
 それで続けて尋ねました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(29節)。ペトロが他の弟子たち先だって答えました。「あなたは、メシアです。」と。本当の意味でイエスがメシアであるとは、十字架と復活の出来事によって明らかになることですから、まだこの時点での、ペトロの答えは、驚きです。そうでなくても十分な答えをなすには余りに大きな欠けあるペトロでした。
この後、調子に乗ってイエスをいさめることをしでかして、イエスから「サタン、引き下がれ」と最大級のお叱りを受けています。そんなペトロがどうして、この時このような返答をなすことができたのか、よく分かりません。それでも、イエスが救い主・メシアであるという返答は、確かに「信仰を言い表した」と書かれるにふさわしい告白だったと思います。
 その答えに対して、イエスは自分のことを誰にも話さないように、弟子たちを戒めた、と30節に続いています。それは、彼らの信仰告白が、まだまだ不十分で未熟だったから、と書いている注解書もあります。それは最もなことです。でも、それよりも、その告白はフィリポ・カイサリアという町では不穏当な内容で、イエスは弟子たちのことをかばってそう命じたのかもしれません。或いは、このところから踵を返してエルサレムに向けての最後の旅を始めたので、まだそれは時期尚早という思いもあったかもしれません。
 ともあれイエスの、弟子たちへの問いかけは、「途中で」行われました。「途上で」、としてもよい言葉です。そこはついつい景色の美しさに目を奪われる場所でした。何故そうできているのかを忘れてしまう構造がありました。だからこそ、イエスはそこで、途上で問いかけたのです。教会の中でもなく、どこか閉ざされた場所でもなく、ゆっくり落ち着いた部屋の中でもなく、皇帝を讃える街中を移動中の現実の中で、あなたは「わたしを何者だと思っているのか」と問いました。
 最初に話しました石丸俊彦さんは、戦前は陸軍士官学校を出て、聖戦と信じて天皇のために闘った人でした。戦後早稲田大学に入り直して裁判官となったのです。が、そこに信仰の道が加えられ、自分の立ち位置を固く確認したのでした。
 自分がどこに立つ者かを知ることがなければ、イエスは救い主と告白するに至らないことでしょう。オリンピック、パラリンピックが続いて、スタートの場面を何度か見ました。日本語では「位置について、ようい、どん!」というのですが、英語では「オンユアマーク、ゲッツセッツ、ゴー!」と言います。「位置について」は「オンユアマーク」です。もう少し雑に訳したら、「あなたのしるしの上に立て」となります。
 信仰という歩みにおいて、私たちはイエスという救い主に向かって立つのです。オンユアマークです。

天の神さま、あなたは私たちに繰り返し問われます。イエスは救い主と答える信仰を与えて下さい。そのために私たちの立ち位置を固くお示し下さい。