《 本日のメッセージメモ 》
 映画「プライベートライアン」(1998年、米)。二等兵への「しっかり生きろ」との大尉の最期の言葉が甦る。
ウクライナで、亡くなったであろう人の、血に染まった衣類を横に、突っ伏して慟哭する女性。神の願う世界では決してない。
テキストは、イエスの「山上の変貌」。どこの山だったとか、どうしてモーセ・エリヤと分かったかなどの主旨から離れる疑問はともかく、弟子たちにあるじが輝いて見えたこと、気づけば「これに聞け」との声が聞こえたことは事実だったと思う。私たちにもある(起こり得る)出来事だ。
山梨ダルクのYさんは、かつての覚せい剤生活を断って、研修スタッフとして働く。「母さん、人生は素晴らしい。産んでくれてありがとう」と通信に書いている。
主の栄光の姿を目撃して「素晴らしい」と言った弟子たちとは違う意味合いの賛歌がある。産んでくれてありがとうとは、生まれて来て良かったという意味でもある。それこそは、「アーメン、やっぱり神の意図」に違いない。
弟子たちの見た栄光は、イエスの望んだものではなかった。それ故に「話すな」と命じたのだ。
時に目が眩み、時に沈む私たち。だが、見えるものに勝って、聴くことを大事にしたい。

《 メッセージ全文 》
 「プライベートライアン」という映画がありました。1998年のアメリカ映画です。監督はスティーブン・スピルバーグ、アカデミー賞の撮影部門で賞を取りました。それくらい、戦闘のシーンが迫真の描写でした。御覧になった方もおられると思います。
 1944年6月の、連合軍によるノルマンディー上陸作戦。この作戦中に、所在が不明になった一人のアメリカ軍兵士がいました。逃げたのではありません。戦いの激しさの故にです。ライアン二等兵でした。マット・デイモンが演じました。彼には3人の兄弟がいましたが、3人とも大戦で亡くなりました。4人の子どもが全員死ぬのは、残される母親にとってあんまりだと参謀本部は考えました。そこで、ライアン二等兵を救出して、無事帰国させるという、何ともあり得ない作戦が立てられたのです。
 救出チーム8人を率いることになったのがトム・ハンクス演じるミラー大尉。ノルマンディー作戦のすぐ後が舞台ですから、広大な戦場の中で、たった一人の米兵を捜すのは至難の業です。部下はあちこちの戦闘の中で死んで行きました。それでも遂にライアン二等兵を探し出します。救出しに来た理由を聞いても、戦いを放棄して帰国することを拒否するライアンせした。
 戦闘がいよいよ激しくなって、それでもわずかに残った銃を手にライアンを守り、戦い続けるミラー大尉でした。しかし、とうとう彼も至近距離での砲弾の爆発で、耳が聞こえなくなり、ライアンに最後の言葉を伝えて亡くなるのです。
 この、ミラー大尉が聞こえなくなるシーンは、そこだけ音がない無音の場面でした。何も音がないひとときの後、彼は「人生を無駄にするな、しっかり生きろ」とライアンに語るのです。その一言を聞かせるために、無音の時間があったのかと思えるような場面でした。そうしてライアンは生き延び帰国しました。

 毎日ニュースをつけると、ウクライナの戦争報道が流れています。先週、リビウだったか、西部の町が砲撃された映像がとても衝撃でした。一人の女性が地面に体を丸くして泣いているのです。顔は見えません。でも肩を震わせ全身を震わせて泣いているのです。「慟哭」というしかない姿でした。彼女の傍らに、血に染まった上着が一枚ありました。ちぎれた布のようにも見えました。夫なのか、息子なのか、親類なのか、それも分かりません。遺体はそこにないのです。でもきっと亡くなってしまった。アナウンサーが何事かを伝えてはいましたが、女性の説明は何もなく、音も聞こえません。突っ伏し号泣している彼女の姿だけです。余りにも深い悲しみを見ました。ただ泣きました。そして、こんなむごいひどい世界を、神さまが望まれるはずがないと強く思いました。

 さて、今日読みましたテキストの出来事は、「山上の変貌」と言われる、よく知られている出来事でした。13節までがひと続きのようですが、今日の聖書日課は10節まででした。「イエスの姿が変わる」と小見出しが付けられている通り、高い山に弟子を連れて登ったイエスの姿が白く輝いた、そこでイエスはモーセとエリヤと語り合っていたという出来事が描かれていました。
 高い山とはヘルモン山のことだと思われる、と書いてある注解書もあります。そうすると、ヘルモン山は標高2814メートルありますから、登山靴もない当時、サンダル履きでイエスたちはどう登ったのだろうなどと余計な想像をしてしまいます。
 また、この出来事は、イエスの栄光が途中で表された出来事で、それはまだその時期では本来なかった、それで山を下りる時、イエスは弟子たちに「見たことを話してはならない」と命じたのだ、などと注解書に書かれています。
 それはそうなのかもしれません。でも、いずれもそれほど大事なこととは思えないのです。「どんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」というその白さが、いかほどのものだったか、例えばそれはそれくらいまぶしく見えたという表現です。そして、そういう表現を用いてそこで起きた出来事にも、そこに込められた理由があったのだと思うのです。
 どこの山であれ、本当に、こういう変貌の出来事があったかどうか、それはよく分かりません。確かめようがないことです。でも連れて行かれたペトロ・ヤコブ・ヨハネ、3人の弟子たちにとって、自分たちの師匠が、この世にあってまぶしく輝く存在であって欲しいという、密かではあっても強い願望があったことは確かです。もしかしたら、彼らのその強い願望が見せた幻の姿だったのかもしれません。私たちにも普通にある「あばたもエクボ」の世界と同じで、イエスに関心ない人だったら何も変わっては見えなかったかもしれないでしょう。
 いや、もしここにペトロたちがいたら、「そんなことない、俺たちは確かに見たんや」と強く主張するかもしれません。そうしたら、じゃあ、どうしてイエスといたのが、モーセとエリヤだと分かったんだ、お前たちは一度も会ったことがないだろう、などと違う反論も出るかもしれません。どうして白く見えたか、誰と会ったかなどの現実的な原因究明は、ここでは何も意味はないのです。
 原因がどうであれ、それよりもここで受け止めたいのは、一つはやっぱり3人の弟子たちには栄光に輝くイエスの姿が見えたのだろうということです。そしてもう一つは、それは短い間に消えてしまい、別の声が聞こえたということです。そこにこそ大事な意味が示されていると思うのです。
 ペトロたちに、イエスの輝く姿が見えたのだけれど、それにしてはその後の記述が何とも頼りないというか、あやふやです。彼らが心のどこかで期待していたに違いない主の栄光の姿をついに目の当たりにしたのなら、「やっぱりそうだった。俺たちの主の真の姿はこれだったんだ」と、もっと喜び、想像が現実となった確信を描いても良かったでしょう。
 ところが、「仮小屋を3つ建てましょう」と口に出したペトロは、どう言えばよいのか、分からなかったと6節に続くのです。確信に満ちて言ったのではありませんでした。更に、弟子たちは非常に恐れていたのである、と6節の続きにあるのです。喜びに満ちていたのでもありませんでした。
 いずれにしても、彼らの気分が普段になく高揚していたのは、きっと事実であった。でもそれはわずかな時に過ぎませんでした。「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声が、雲の中からしたというのです。そうやって興奮を静められ、ふと我を取り戻してみれば、「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らを一緒におられた」といういつもの現実が帰って来ました。

 山梨ダルクから時々通信をいただきます。薬物依存から立ち直るための施設の通信です。本部の研修スタッフをなさっている、ヨコさんは、ご自身もほんの3年前までは依存症で、覚せい剤の常用者でした。既に逮捕され判決が出て、執行猶予中だったのに、再び覚せい剤に手を出して、また逮捕されました。
 でも、良い弁護士やダルクのスタッフのおかげで、懲役2年、執行猶予5年となりました。執行猶予がもう一度ついたのです。そして、今度こそやり直そうと決心し、今やダルクのスタッフとして頑張っています。通信に書かれた文章の最後にこうありました。
 「逮捕してくれた警察官ありがとう。手を差し伸べチャンスを与えてくれた方々ありがとう。生き直す手助けをしてくれる方々ありがとう。山梨県ありがとう。助けていただいた私は、この地で回復援助職をしていくと決めました。母さん、人生は素晴らしい。産んでくれてありがとう。」
 私は、「母さん、人生は素晴らしい。産んでくれてありがとう」というヨコさんの文章に泣きました。ウクライナの報道で泣いたのと正反対の涙です。立ち直れないかのような挫折から今に至って、恐らくかつては思いもしなかった「人生は素晴らしい」という賛歌が生まれました。「産んでくれてありがとう」とは「生まれて来て良かった」という、ヨコさんが仲間たちと共に与えられた、命と人生の賛歌でした。イエスの変貌を見て「先生、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです」と思わず言った、ペトロの言葉の「素晴らしさ」とは一味も二味も違うのです。
 イエスは、3人の弟子たちに「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」(9節)と命じました。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」(10節)、とあります。
 この時、もちろん弟子たちに十字架の出来事は考えられもしませんでしたし、ましてやその後の復活の出来事など、予想もしなかったでしょう。ですから、「話してはいけない」というイエスの命令の意味が分かりませんでした。ですが、十字架と復活の出来事のあとには、重々分かったと思うのです。自分たちが見た栄光の姿は、イエスが望んだ姿ではなかったということを、です。
 イエスは彼らが望むような栄光など、きっと何も望んでいませんでした。光り輝くこの世の栄光は、イエスの栄光ではなかったのです。イエスの栄光とは、神の下さった命を喜んで生きられるようになること、それ以外にありませんでした。理不尽な悲しみに言葉もなく泣き暮れるような出来事などではなく、どんなに失敗やつまづきがあったとしても、そこから立ち上がり、生まれて来て良かった、ありがとうと言える生き方、それこそが、アーメン、やっぱり神の意図であるのです。
 私たちも弟子たちのように、時に心と目が眩んだり、曇ったり、沈んだりします。見たら分かるつもりでいますが、見ても分からん時があるのです。ですから見えることに勝って、聞くことの意味を思います。「これに聞け」という声を大事に聴きたいと思います。

天の神さま、私たちの人生の中にも「これに聞け」とのあなたの呼びかけがあると信じます。それに応え、聴くことができる者として下さい。あなたの意図を固く受け取れるよう、導いて下さい。