No.88
「くそったれに負けず」    牧師 横山順一

 春の陽気に誘われて、「ひねもすのたりのたりかな」とばかりに、惰眠を貪りたい季節がやって来た。
 だが、どうもそうは行かない。夢見が悪い。昼寝にすら、罪悪感を抱いてしまう。すべて、プーチンのせいだ。
 ロシアでは、当局に拘束されることをも恐れず、厭わず、戦争反対の意思表示をする人々が後を絶たない。
 その勇気に、心から敬意を表する。彼らの報道に、せめてもの未来を見る思いがするし、力づけられる。
 戦争の最も悲惨なことは、幼子や妊婦など無辜の人が殺されるということと同時に、それを実行する人の思いが奪われる理不尽さにある。
 つまり、「誰もが殺したくて殺す訳ではない」はずなのだ。或いは、明確に「殺したくない」人も必ずいるのだ。
 戦争は、一対一の、個人のケンカではない。また個人のケンカであっても、一方的に手を出せば、「犯罪」である。「戦いたきゃ、お一人でどうぞ」とプーチンにどづきたい人も多かろうが、彼は手を汚さない。本当に柔道を学んだ人なのだろうか、くそったれ!
 今のロシアと同じく、少数ではあったが、日本にもかつて大戦時、戦争反対を唱えた人たちがいた。
そのほとんどが捕らえられ、ひどく拷問され、強引に口を閉ざされた。
それでも、みんなが戦争に賛成し、殺し合いを肯定したのではなかった。
 一方で、戦場に出る兵士は国を守る「英雄」とし、戦死したら「英霊」として祭った。それは著しい現実の「美化」だった。
 現実には、餓死した兵士も少なくなかったし、戦わずして味方によって命を落とした兵士もいた。戦いとは無関係の、明らかな狼藉を堂々と犯した者もいた。
 軍隊の常だが、上官の気分次第で、問答無用の暴力が待っていた。それは必要不可欠の「指導」であって、問題はないのだった。
 戦争に反対する者も、殺し合いを拒む者も、否応なく集められ、駆り立てるのが戦争だ。
その罪深さから目をそらす方法の一つとして、遠距離からの空爆があるのかもしれない。むごたらしい惨状を見ないで済むし、悲鳴も聞かなくて済むから。
 ただ今般一点、ウクライナの人たちが、自分は「祖国を誇る」としばしば語るのが、どうにも受け入れられないでいる。その歴史を聞いても、だ。
 私には「国を誇る」という意識がない。育った場所や与えられた人間関係を愛することなら、良く分かるのだが。
 神戸も大空襲に遭った。阪神淡路大震災の犠牲者を上回る、七千名もの死者が出た。
 悲惨な歴史の事実を忘れ、「日本を誇る」と大言する人たちが、しばしば街宣車で、軍歌を流し続ける。まるで違う意見など聞く耳を持たないかのように。
 ここぞとばかり、「九条で国は守れない」と叫び、だから「改憲を」と迫る、その圧が増している。
「戦わない、命を奪わない」と定めた憲法を誇るべきである。誇って、それを実行せねばならない。
 戦争は「犯罪」だ。ロシアの侵略に反対を唱えつつ、その認識を世界中の人と共に、今深める時ではないだろうか。