《 本日のメッセージメモ 》
 「百果は楽しむに如かず」「実体のないものに惑わされず、身近な人やそぼくな真心を大切にしてほしい」と故・中村哲さんは語っていた。
 トマスは、弟子たちを代表する唐突な発言をしているが、テキスト25節の発言はそれらと一線を画す、「見て、触らねば決して信じない」という強い主張だ。百閒は一見に如かず、自分で見てみるという姿勢は、正しく思える。
 だが、19節から24節は後代の加筆となれば、見方が変わる。マグダラのマリアの「私は主を見ました」(18節)に続いて、返答した言葉だったとすると・・・。
 「マンスプレイニング」という言葉がある。男性から女性へ上に立った姿勢のことだ。もしも、弟子たちがマグダラのマリアより優位に立っていたなら、トマスの返答は差別的発言といえる。いかんちゃ、トーマスである。
 イエスは彼の言葉をそっくり用いて答え、「信じない者ではなく、信じる者になれ」と続けた。マリアへの思いを感じる。
 中村哲さんは、人間関係をとても大切にした。「響き合い」の結果、そこから新たな関係が豊かに展開されて行く。「見ないのに信じる人は、幸いである」とは、そういう意味ではないか。

《 メッセージ全文 》
 「百聞は一見に如かず」という、よく知られた言葉があります。人から何度も聞くより、自分の目で一度見るとよく分かるという意味ですね。これは中国の「漢書」に出て来る言葉だそうですが、実は後世の加筆による続きがあるのです。
 「百聞は一見に如かず。百見は一考に如かず。百考は一行に如かず。百行は一果に如かず。百果は一幸に如かず。百幸は一皇に如かず」。アフガニスタンで長く働いた中村哲さんは、「百果は楽しむに如かず」と付け加えておられたそうです。百の成果も楽しむことに及ばないということでしょうか。

 中村さんが凶弾に倒れたのが2019年の12月のことでしたから、もう2年半近くになろうとしています。PMS平和医療団の方々は、大きな悲しみの中で懸命に中村さんの働きを継承して今に至っています。
 その活動を支援するペシャワール会の会報を読んでいると、毎号様々な方々が今も中村さんの思い出を書かれておりますし、中村さん自身の生前の原稿も紹介されていて、亡くなられたとは思えないような感覚に陥ります。
 先日送られて来た151号にも、現地で働いたワーカーの方々の座談会が載せられていて、それぞれに中村さんの思い出を語っておられて、私などは一度もお会いしたことがないのに、今も生きておられるかのごとく、中村さんの人柄が浮かんで来ました。
 それ以外にも、2006年に行われた中村さんへのインタビューの記録が載せられていて、「実体のないものに惑わされず、身近な人や素朴な真心を大切にしてほしい」という題が付けられていました。
 インタビュアーが最初に「先生と共に働く日本の若者はアフガニスタンで何を学んでいくのでしょうか?」という質問をしています。それに対して、「そうですね、例えば小さな作業一つにしても、監督と実際の作業員が一体にならないと出来ない。そこで実際に物が動いて出来上がるという体験が貴重なんじゃないかと思います。そのためには人間の関係がないといけないわけで、これは日本の企業でも同じだと思うんです。やはり、そこで人が働いてみんなと協力して作り上げる。この体験が日本ではだんだん薄くなってきているんですね。映像だとかコンピュータの世界の中で、実際には無いのにまるでどっしりとした自分という実体があるかのような錯覚に陥っている。しかし、自分というのは実際は人と人との関係の中で出て来る「響き合い」のようなものですね。それを実感して帰ってくる。このことが尊いんじゃないかという気がしています。」と中村さんは答えていました。「百果は楽しむに如かず」と合わせて、とても示唆に富んだ、深い言葉だと思いました。

 さて、今日与えられたテキストには「イエスとトマス」という小見出しが付けられています。この記事を通して、しばしば「疑い深いトマス」と称されて来ました。ちなみにトーマスというのは、トマスの英語発音です。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」という25節の言葉から、疑い深いとされたトマスでした。
十字架刑でイエスは手足に釘を打たれた訳ですが、それだけでなく槍で刺された、そのわき腹の傷跡にも言及している生々しいトマスの物言いです。そしてそれらに触ってみなければ「決して信じない」という強い主張をしています。
 12弟子とよく言われますが、福音書に圧倒的に記述が多いペトロ以外では、トマスの記述はこのヨハネ福音書に数か所あります。その一つ11章では、ラザロが死んだとき、「さあ、彼のところへ行こう」と語ったイエスに対して、仲間たちに向かって「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と答えています。
 また14章では「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と語ったイエスに、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と答えています。
 いずれも、直截的で、唐突な返答に思えます。ただし、それはトマス個人というよりも、弟子たちの思いを彼が代表して語ったのだと言えます。それからすると今日の20章25節の言葉は、ちょっと違うのです。他の弟子たちにない主張の形となっているのです。他の弟子たちは復活のイエスを見たという中で、その時その場にいなかったトマスと24節にあります。みんな見たところに、トマスはいなかった。そうであるなら疑い深いというよりは、極めて現実主義な人ではなかったかとなる訳です。「百聞は一見に如かず」ではありませんが、見て信じる。見て納得する。それ自体はおかしくない訳で、その思いを強く抱いていた人だったということでしょうか。
 ところが、事はどうもそんなに単純ではないようです。と言うのは、24節も含めて、一つ前の段落19節からの記述は、後代の加筆の可能性と思われるからです。本来の記述は18節から25節に続いていただろうと推測されます。
 18節はマグダラのマリアが弟子たちのところへ行って「わたしは主を見ました」と告げた箇所です。それにまた弟子たちを代表する形でトマスが25節の返答をした、それが本来の記述の流れであるとするなら、存外にすんなり受け入れられるのです。
 つまり、こうです。ヨハネ福音書では、復活のイエスがマグダラのマリアという女性一人に最初に姿を現されたことになっています。だとして弟子たちにとって、この女性が容易く受け入れられる存在であったかどうか、なのです。イエスから7つの悪霊を追い出してもらった、元娼婦と言われる女性です。その女性を弟子たちがイエスのように受け入れていたかどうか、ちょっと私は疑いを持つのです。もしも、差別的な目線、上から目線的なものがあったとしたら。トマスの発言は、現代なら即問題発言に他なりません。いかんちゃ、トーマスです。

 最近、マンスプレイニングという言葉が使われ出しました。男性のマンと、説明するエクスプレインという言葉の造語です。男性が女性に対して、偉そうに何かを解説したり、知識をひけらかしたりすることを指します。分かったようにかく言う私も、実は最近知らされた言葉です。例えば妻が何か言うことに、夫が「お前は本質が分かっていない」などと言うのが、マンスプレイニングらしいですよ。ギクッ。
 もしもマグダラのマリアに、弟子たちが優位的に立っていたとするなら、トマスの返答が、マンスプレイニングそのもののような、偉そうな言葉に聞こえて来るのです。それはトマス一人の思いではなく、12弟子に通底していた思いでもあったでしょう。
 そして、それに対してイエスの言葉は、トマスの言った言葉をそっくり用いた返しになっています。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」マリアに対して偉そうに語った言葉を、私に対しても言えるか?と言わんばかりのイエスの言葉に聞こえて来るのです。
更にそれに続けて「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りました。これこそが今日のテキストで最も大切な言葉です。イエス復活の証しも含めて、大事な事柄の受け入れを相手によって変えてはならない、という思いを感じるのです。

 ヨハネ福音書が書かれたのは一世紀後半のことです。イエスが亡くなり、直接イエスに出会った人もほとんど亡くなってしまった頃のことです。教会が言わば、イエスを知らない第二世代の時代になろうとしていました。
そうすると、イエス自体がもはや二の次。それよりも、イエスをよく知っている誰それから自分は教会に誘われた。洗礼を授かった。そういう自慢話がおお手を振るうようになる訳です。当然それが教会での力関係にも影響します。言うまでもなく、どうでも良いことでした。でも放っておけないので、ヨハネ福音書が書かれたのです。
 「わたしを見たから信じたのか」と、ここでイエスは語っています。あれほど「触らなければ決して信じない」と言ったトマスが、触りもせずに信じた記述となっています。もちろん、一般論として、「百聞は一見に如かず」は大切な視点です。見たら一発で分かることも多々あるのです。例えばイスラエルに行くことができたら、イエスの生きた世界の雰囲気を肌で感じることができることでしょう。
 ですが、イエスを信じることは、見て納得した結果によるのではないのです。とりわけ復活とは、科学的に証明できることはありません。証拠も何もないのです。これは心に起こる働きかけの結果です。見たら信じるという類の話とは違うのです。
 中村哲さんは、人間の関係の大切さを語っていました。自分というのは、人と人との関係の中で出て来る「響き合い」なのだ、と。むしろ当時差別的状況に置かれていたマグダラのマリアが、懸命に訴えた、「私は主を見ました」という言葉の、その思いを受け入れ、信じることなのです。響き合いの結果です。そこから新たな人間関係が豊かに展開されて行くのです。「見ないのに信じる人は、幸いである」とは、そういうことだと信じます。

天の神さま、見ることができなくても信じることができる、そのような信仰と人間関係を与えて下さい。