《 本日のメッセージメモ 》
桑田佳祐さん作詞・作曲で、同い年の歌手たちを集めて歌ったチャリティ曲「時代遅れのロックンロールバンド」。81歳男性の投書で聴いて見たら、最高に良かった。お勧めである。
その歌い出しは「この頃 平和という文字が朧げに霞んで見えるんだ 意味さえ虚ろに響く」というもの。
ウクライナ侵攻と長引くコロナ禍が背景にあって、当たり前だったものが遠ざかって行く実感を持つ。
パウロはローマ書8章で、「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」(6節)だとはっきり書いた。自分自身、律法主義に囚われ、死も同然だった経験を持つ。それ故、肉の思い=人間的価値観・この世的価値観のとりことなる状況を、鋭く批判する。その一方で、そこから離れた霊の思いに生きる時、それは命を耕し平和を作り出すのだろう。
今、朧げに霞んで見えるものの一つに「信仰」がある気がする。見えるものにすべて価値観を置くと、見えない神や霊から心が遠ざかるのだ。
イエスは「世の終わりまで、あなたがたと共にある」(マタイ28:20)と語った。インマヌエルの神の愛のしるしは、「一緒にいること」だ。
信じているはずの神から離れることがあるとするなら、変わらない神は片思いで切ない。どうしたら、両想いでいられるか。
《 メッセージ全文 》
先月5月に、桑田佳祐さんが作詞・作曲して、同学年のミュージシャンたち5人と発表した「時代遅れのロックロールバンド」という歌があります。MV(ミュージックビデオ)で出されています。これは、平和がテーマの曲で、売り上げの一部がセーブ ザ チルドレンというところに寄付されるチャリテイーの曲です。
その情報を知っていましたが、全員66歳というメンバーの歳と中身を聞いて、まあいいやと思ってしまいました。ちなみに、桑田佳祐・佐野元春・世良公則・チャー・野口五郎、ドラムスで大友康平という豪華布陣です。
ところが先日、新聞で、「詞を読んで心に響いた」という方の投書を読んだのです。書かれた方は、大阪の81歳の男性でした。この歌を聞いて、現在の状況、特に日本の状況を憂えておられるのです。防衛力を上げてなそうとする「力の平和主義って何なんだ?」ということです。こんな先輩が「いい」と言うなら、聞いて読みようと気になりました。
そしたら、めちゃくちゃ良かったのです。曲はいいし、みんな恰好いいし、もはやおじいちゃんに近いおじちゃんたちが「ノーモア ノーウォー」、「子どもの命を全力で 大人が守ること それが自由という名の誇りさ」と歌うメッセージに打たれました。別に聞かんでもいいやって、勝手に決めつけていた自分を恥じました。皆さんにもお勧めします。ネットですぐにミュージックビデオを観ることができます。是非ご覧下さい。
この歌の出だしが「この頃 平和という文字が朧げに霞んで見えるんだ 意味さえ虚ろに響く」というものでした。まさに、ロシアのウクライナ侵攻が背景にあり、更にはコロナ禍が続いて、これまで当たり前のように思っていたことが、何だかひどく遠ざかってしまっている、そんな今の状況が導入で歌われているのでした。
「この頃 平和という文字が朧げに霞んで見える」。本当にそう感じます。先週は部落解放同盟の全国大会が開かれました。冒頭、組坂委員長がウクライナを念頭に「平和なくして人権なし」という挨拶をしました。これもまた、その通りだと思います。
戦争は、個人のいさかいではありません。「戦争は、すべてを奪う」とよく言いますが、個人のいさかい・喧嘩だったら、嫌なら止めれば良いですが、戦争はそうは行きません。自分は戦いたくないという人も、無理やり参加させられるのです。止めるという個人の意思が通じない、それどころか拒否されるのです。例えウクライナのような状況下であっても、です。
そして、それまで信じていたことが、あっけなく変えられます。命が大切だと言って来たのに、相手の命は殺しても良い別物になってしまうし、自分の命も闘いのためのものへと変質します。まさに、すべてを奪う訳です。ですから、「この頃 平和という文字が朧げに霞んで見える」という歌詞の、平和という単語を、人権と変えても、命と代えても通用する思いがします。平和なくして人権なし、です。
さて、今日はローマの信徒への手紙8章の一部がテキストに与えられました。12節からを読みましたが、1節から17節までの全体に「霊による命」という小見出しがつけられています。
読まなかった6節に、「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」とあります。この6節に、パウロの霊に対する理解がよく表されています。先週、ペンテコステを迎えましたが、私たち、見えない聖霊について説明するのはなかなか難しいです。でもパウロは、「霊の思いは命と平和だ」と、はっきり霊の中身を語っているのです。
そして6節でも「肉の思いは死」だと書いたように、今日のテキスト13節で「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」と繰り返しています。「死にます」とは尋常ではありませんが、これは単に物質的にいずれ死ぬということを言っているのではありません。
「肉」という表現が、生々しくて、余りにも私たちの身近でないので、引いてしまうというか、理解の妨げになってしまうのです。と言って、ちょうどぴったりの言い換えの表現にも苦しむのですが、敢えて言えば「人間的価値観」或いは「この世的価値観」ということでしょうか。そう言いかえるなら、13節は「人間的価値観、この世的価値観に従って生きるなら、あなたがたは死にます」ということになります。
この「死にます」とは言うまでもなく、現実の死ということではなく、死んだも同然の状態ということでしょう。人間的価値観・この世的価値観の中でも、はるか昔から現在に至るまで、最も大きいものは拝金主義であったり、経済至上主義だと思います。例えばお金が人生のすべてという価値観に、もしどっぷり浸かるなら、その人は死ぬと、パウロは言うのです。
もちろん、他の価値観もあります。パウロ自身がイエスに出会うまで持っていて、また彼のすべてであったのは、ユダヤ律法主義に生きる価値観でした。とにかく律法が大事で、自分はそれを守り、それによって他者を識別する人生でした。その価値観の中に懸命に生きていた頃は、パウロは死んでいたも同然であったのです。
こういう人間的価値観、この世的価値観、すなわち「肉の思い」が行き着く様を、このローマ書の冒頭1章で紹介しています。それは「あらゆる不義、悪、貪欲、悪意、ねたみ、殺意、争い、策略、邪念、陰口、悪口、神を憎むこと、不遜、高慢、自慢、親に不従順なこと、無理解、不誠実、無常、無慈悲」だと具体的に挙げています。このうち、「神を憎むこと」と「親に不従順なこと」については、私はちょっと別の意見がありますけど、概ねこの世的価値観から来る様々な報いは、パウロの指摘の通りです。これらのとりこにされた状態は、確かにどれも死と表現してもおかしくないでしょう。
その一方、「しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます。」と13節の続きで語っています。霊によって生きることの具体的内容を、パウロはガラテヤ書(5章)で書いています。それは「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制」だというのです。確かにそれらは、私たちを真に生かすものばかりだと思います。
私は、この頃朧げに霞んで見えるものの中で、私たちの「信仰」もその一つなのではないか、という気がしています。この世に本当に神っているのか?と疑問を抱かざるを得なくさせる最大のものは戦争だからです。目に見えることがすべてとなって、もともと見ることができない神も霊も、次第に心から離れて行くのです。つまり信仰が朧げに霞んで行く訳です。
そしてその上、長引くコロナ禍が、私たちの交わりを分断し散らしています。自分一人という状況が続くと、信仰もまたいよいよ朧げに霞んで見えて来る。その意味が虚ろに響くようになる気がするのです。それとも、本当は単に自分が歳を取って、面倒臭くなったことを言い訳しているんでしょうか?
桑田佳祐さんは、今回の歌を出すに当たって、同い年のメンバーたちに手紙を書き、また直接伺って参加を呼び掛けたのだそうです。熱いです。きっとその熱いお誘いがあって、実現したのでしょう。「時代遅れのロックンロールバンド」と自虐的なタイトルが付けられていますけど、ちっとも時代遅れなんかじゃありません。とても素敵なロックンロールバンドです。
サムデイ、いつの間にか、還暦もとうに過ぎた彼らが、「サムデイ、いつになれば 矛盾だらけの競争(レース)は終わるんだろう?」とも歌っています。これは、ちょうどパウロが自分自身で体験した「肉の思いは死」という表現に相通ずる問いかけではないでしょうか。そして、その矛盾の終わりはパウロの場合、イエスとの出会いによって実現したのでした。
イエスはかつて弟子たちに語りました。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と。それは、「その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(マタイ1:23)と記された通りの語りかけでした。
律法に書かれていませんが、一緒にいることこそが、神の愛のしるしです。それはイエスの生涯を通して表されたことでした。そこに込められた思いは、いっときのことではなく、この先時が何世紀経つとしても、また例え戦争や災害など現実のさ中にあっても変わらないことだとパウロは信じたのです。だからその神の愛のしるしを、パウロは「霊の思いは命と平和だ」と書きました。
残念ですけど、信仰者にあっても、神について霊について、時に「まあ、いいや。別にそれほど今必要でもないや。」と思うことがあります。神が朧げに霞み、信仰が朧げに霞むことがあるのです。ついつい見えることの力に支配されるからです。でもそれは、変わらない神にとっては、まさしく片思いであって、切ないことに違いありません。信じない人はそれでも構いませんが、信じる私たちは、それでは良くないでしょう。どうしたら、両想いでいられるでしょうか?
天の神さま、現実のことばかりになりがちな私たちを懺悔します。肉の思いにひきずられる私たちを変える力が聖霊であると信じます。どうぞ上よりの霊によって、私たちを呼び戻し、目を覚まし、人生が目に見えることだけで成り立ってはいないことを固く教え示して下さい。あなたの思いに応える私たちでありますように。