《 本日のメッセージメモ》
 「僕(ぼく)って何」(三田誠広、1977)の小説以来、自分自身を問う経験を繰り返した。それは人生で大事な問いかけではあるが、答えは与えられない。個人のみならず、組織においても。
テキストは、ペトロとヨハネが最高法院で取り調べを受けた時の内容。もともとは、神殿で足の不自由な男を癒したのが発端だった。
それだけのことに、かつての大祭司やその一族までが集まる大々的な尋問となった。だが、錚々たるメンバーを前にして、ふたりは堂々とイエスを証しした。
議員たちは、その態度と無学で普通の人の落差に驚愕した。実際、誰が見てもその通りで、ほんの最近までは考えられないあり様だった。
ペトロたちがイエスを裏切り、その後の出来事から何年も経ち、彼らが悔いて鍛錬を積んで起きた出来事ではなかった。二人の努力によるのでなく、聖霊による変化だった。
聖霊は「人間の内側に働く」(ハンター)。自分自身から、他者を見つめる者へ。僕(ぼく)から「僕(しもべ)って何」と問う者へ。二人は、そして弟子たちは変えられたのだ。
自分だけを見つめても何も変わらない。それは組織(教会)も同じ。聖霊を請い、心を外へ向けたい。

《 メッセージ全文 》
 高校を出たばかりの頃、一冊の小説を読みました。大学浪人、予備校生の時代です。
三田誠広さんが書いた「僕って何」という作品。1977年上期の芥川賞を受賞しました。
田舎から上京して、学園紛争真っ只中の大学に入学した主人公が、いつの間にかセクトの争いやら内ゲバやらに巻き込まれ、これまたいつの間にか年上の女性と同棲を始める・・・という内容で、新しい青春小説と言われました。

 自分で選んで決断してというより、成り行きで色々な事に出会って行く主人公の、何が新しい青春なのか分かりませんでしたが、本のタイトル「僕って何」は、それ以降何度も自分で体験することになりました。

 自分って何なのか、何者なのか?という問いかけは、恐らく誰でも持つ問いだろうと思います。私の狭い経験だけで、誰でもそうだと一般化することはできませんが、私の場合には、行き詰まってしまったり、何かにつまづいたり、失敗した時に、その問いかけが繰り返し起ったように思います。

 ところが、答えは与えられないのです。それなりに悩むのですが、明確な答えが出ないうちに、知らぬ間に悩んでいることを忘れてしまって来た感じです。自分が何であるかを問いかけることは、大切な作業だと思いますが、悩んでも答えは出ないので、本当は悩むに値しない問いかけなのかもしれません。では、問いかけは無駄なのか、と言えば、そうではなく、多分、答えはないと自分自身で発見することに意味があると言えるのでしょう。

 このことは個人の出来事だけでなく、組織でも同じことを体験しました。学生YMCAというサークルに関わっていました。活動が低下した時に限って、「学Yって何?」という問いかけが出されるのです。あ~でもない、こ~でもないと真面目に議論しましたが、結局明確な答えは出ませんでした。多分、「限定されない、特定できない」というのが答えなのかもしれません。

 さて、今日は使徒言行録4章からテキストが与えられました。4章冒頭に「ペトロとヨハネ、議会で取り調べを受ける」と小見出しがある通り、二人は捕らえられて牢に入れられたのでした。

 2節に「二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち」とあるように、いらだって捕らえられたのです。そもそも捕らえられる罪など犯してはいませんでした。更には3章を読むと、神殿で生まれつき足の不自由な男性と出会って、彼を癒したことが事の発端だったことが分かります。

 4章5節6節には「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。」、「大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。」とあります。

 これはサンヘドリンと呼ばれた最高法院の全メンバーに当たります。が、ヨハネとアレクサンドロはかつての大祭司であり、その一族まで集まったとは、一体どんな大事件が起こって、どれほどの大裁判が行われるのかという布陣になっているのです。

 ちなみにサンヘドリンは、トップの大祭司と長老や律法学者ら70人の議員で構成されており、イエスの逮捕と裁判の時もこのメンバーが集まったと福音書に記されています。でもその時でさえ、かつての大祭司やその一族までが集まったとは書かれていないのです。この、当時のものすごい人たちが集まって、神殿で一人の男性の足を癒したことを元にペトロとヨハネを捕えて尋問したというのです。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問したと7節にあります。

 この時点で、もう既に彼ら権力者の思いが十分に表されています。つまり、ペトロとヨハネがなしたことは、彼らにとって忌むべき業だったのです。その力を自在に使ってもらっては困る、自分たちの立つ瀬が奪われてしまう、ということでした。それだけのことで、こんな大掛かりな動員がなされたのです。余りにも露骨過ぎて、苦笑いしてしまう情景ではないでしょうか。

 ところが二人は、これほどの人たちの前にあっても、その露骨な尋問にあっても、臆することなく、癒しのもとになったイエスについての証しを堂々と行いました。そして議員たちは二人の態度と彼らの出自の落差に驚愕したのです。13節には、「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を身、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き」とあります。

 この「無学な普通の人である」という見方自体が、どれだけ上から目線なのかと思いますが、最高法院の議員たちからすれば、全くその通りでした。でもそれは、最高法院の議員たちだけでなく、誰が見てもその通りであり、恐らくはペトロとヨハネ自身から見ても、その通りだったと思うのです。

 イエスの生前、他の弟子たちに勝って、ペトロは何度も失敗をしでかしました。12弟子の中では、自分こそが筆頭と思っていたペトロでしたから、失敗やつまづきの度に落ち込んで、「僕って何?」という問いかけを繰り返したに違いないと想像します。

 中でも、イエス逮捕の直前、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と明言したのに、結局イエスの預言通り三度「知らない」と否定し、遂には逃げ去ってしまったのでした。このことで、どれだけ自分自身に衝撃を受け、動揺したかを思います。無論それはペトロだけでなく、ヨハネも同じだったでしょうし、他の弟子たちも同じだったでしょう。彼らは皆が皆、「僕って何?」という問いかけに何ら答えられない者でした。

 その赤面の出来事から、どれくらい時が流れたのでしょうか。自らの弱さと愚かさを悔いて、懸命に自己鍛錬を積み、心を鍛え上げ、何年もかかって、ようやく一人前の働きができるようになって、今回の出来事が起こったのでしょうか。

 全く違うのです。イエスを知らないと否定して逃げた痛恨の日から、それほど日は経っていないのです。ついこの間でした。イエスが十字架刑につけられ、亡くなって復活し、更に50日過ぎて聖霊が与えられた、そのすぐ後のことです。ちょうど何日とは分かりませんが、あの日から2か月も経ってはいないのです。彼らは自分の努力で変わったのではなく、聖霊によって変えられたのでした。

 結局この裁判において、最高法院は二人に何の罪を見出すこともできず、無理やり罪をかぶせることもできないで、ただ脅して釈放しました。癒しのわざを否定する訳にもいかず、ひたすら民衆を恐れたのでした。

 テキストの、この段落の最後22節の一文が妙に心に残ります。「このしるしによっていやしていただいた人は、40歳を過ぎていた。」3章の2節には「すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しいモン」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。」と書かれています。

 この足の不自由な男性は、自分では動けないほど重い不自由な体で、毎日物乞いをして生きていたのです。生まれながらとあり、わざわざ40歳を過ぎていた、と年齢が記されているのです。それは、そんな年齢になるまで不自由な体を抱えて、物乞いするしかない日々を強いられて来た、つらい現実を意味します。

 ペトロとヨハネはこういう人を癒したのです。ですから癒されたこの人は、「躍り上がって立ち、歩き出した。そして歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」と3章8節に、その喜びの様子が描かれているのです。

 「聖霊は、人間の上の神、人間と並ぶ神というより、むしろ、人間の内側に働く神です」と或る神学者(A.M.ハンター)は述べました。人間の内側に働く神によって、二人は動かされたのです。何か中身が突然立派になったとか、恐れを知らぬ勇敢な人に変えられたとか、そういうことではありません。

 ほんの少し前まで、自分のことしか眼中になく、自分のことだけを考えて生きていた二人が、他者への眼差しを真に与えられたのだと思います。敢えて言うなら、「僕(ぼく)って何?」という問いかけから「僕(しもべ)って何?」という問いかけをなす者とされたということでしょうか。

 今日のテキストの続きを読むと、釈放された二人が仲間たちのところに戻って、出来事を残らず報告したとあります。その時彼らは心を一つにして叫んだというのです。その叫びこそは僕としての叫びであり祈りでした。29節30節を読みます。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」

 彼らを脅す悪い権力者たちをどうにかして欲しいという願いではありません。現実にはその脅しはなくならない、しかしそれがあったとしても、語り、働きができるようにと祈ったのです。人間の内側に働く聖霊によって、何があろうとも、自分自身にではなく、他者に心が向く者へと変えられたということなのでしょう。

 自分のことだけにどんなに目を向けても、答えは与えられませんし、変えられません。気をつけたいのは、それは個人だけでなく、組織でも同じだということです。つまり教会だって、自分のことだけになったら、変わらないのです。私たち、互いに聖霊を願い求め、それを通して心を外へと向けたいと思います。

天の神さま、あなたの業に感謝し、なお一層聖霊を注いで下さるようお願いします。私たちも大胆に語り、あなたの平和の器として働く者として下さい。