岐阜・各務原教会(川上侑牧師)創立60周年記念礼拝で説教ご奉仕される横山順一牧師に代わり、
今春按手礼式を受けられた、大阪女学院中学校・高等学校教師としてお勤めの片岡正義牧師に
説教ご奉仕をいただきます。

【牧会祈祷】
主なる神様、今日も私たちに命を与えてくださり、ありがとうございます。
あなたが託してくれた今日一日を、またこの一週間を大切に生きていきます。
感謝のうちに歩めますように、私たちの心を開いてください。
この礼拝以外でも、あなたに祈りを献げる時があります。
どうぞ全ての祈りを聞き、最も適したタイミングでそれぞれに恵みをお与えください。
この暑さの中、一堂に会することはできなくとも、それぞれの場所で生かされています。感謝です。
本日、横山牧師は岐阜県の各務原教会へ行っています。どうぞ道のりをお守りください。
教会に集う子どもたちはじめ、全ての若い命をお守りください。
不自由を強いられながら、それでも楽しみを見出す三度目の夏です。
今だからこその体験や学びを通して、些細なことにも幸せを感じ、共に喜びを味わえますように。
日々の学びが、あなたの御心にそって、人々の幸せと平和のために役立つようにしてください。
そのために心も身体も健やかに成長し、必要な知恵と優しさを与えてください。
社会に目を向けると苦しんでいる人、痛みを抱えている人がいます。
様々な事情で教会へ来て、礼拝を守ることができない友がいます。
一人ひとりが生活する場所で、あなたの存在を実感することができますように。
たくさんの愛を注いでください。
最後に、地域や国、世界の為政者のために祈ります。
先週、選挙が行われましたが、彼ら彼女らが公平と真実を持って、あなたから委ねられた任務を全うすることができるように導いてください。
私たちも、私利私欲のために政策を企てる者たちを監視する目を養い、「平和を作り出す群れ」としての祈りと行動を共に重ねることができますように。
これからの歩みもお守りください。
一人ひとりの祈りに合わせて、この祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお献げします。アーメン。

【説教】
ある日、生徒が言いました。「聖書の授業って、道徳みたいやんな!」
確かに聖書の授業でも「多文化共生」という誰かと一緒に居ることの大切さや「他者への許し」という仲直りを語りますので、生徒たちが受けてきた道徳に近しいです。
聖書の授業も道徳教育も自分自身について、また他者や社会との関わりについて、そして自然や崇高なものへ表す敬意について触れる為、共通する「温かさ」は確実に存在します。

ただ、聖書の授業というキリスト教教育と道徳教育にも違いがあります。
それは道徳教育が、人間の内発的可能性に根拠を置くのに対し、キリスト教教育は、回心を通じて働きかける主なる神の可能性にかけている点です。
また、道徳教育が時に命をかけてまで国家において有用な人材を育成することを目指すのに対し、キリスト教教育は「神に喜ばれる生き方」、つまり自分の命も他者の命も、より大切にされることを目指す点でも異なります。
誰かの為に自分の力を尽くす、というのはどちらにも共通していますが、それはあくまで、命があったればこそのことです。
ローマの信徒への手紙12章の「キリストにおける新しい生活」では「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」との聖句が記されています。
ここでも「聖なる生けるいけにえ」と表現されるように、現実的に死んでしまうことをパウロは語っていませんし、神も求めていないでしょう。
ともすると、私たちに求められる価値観の変遷は、自分の想像を超えた大きな存在に身を任せつつ、生きて誰かに仕える喜びを知ることなのです。
各公立学校で道徳教育を受けてきた生徒たちはじめ、過去に学生だった私たちも皆、キリスト教ならではの価値観を知る時に回心、つまり「既存の価値観からの解放」を実感します。
そして、その解放の先に待つ「自由」を考える時、私たちは「キリスト者ならこう生きる」と、自分の生き方を見つめ直すのです。

本日の聖書箇所は、ガラテヤの信徒への手紙でも非常に有名で、パウロが「キリスト者の自由」について書き記した言葉です。
パウロは宣教旅行においてガラテヤを2度訪問し、後に彼らに宛てた手紙では、福音はいかに異邦人に宣教されているのか、ユダヤ教の律法はどのような意味を持つのか、という問題提起をしました。
当時のガラテヤの教会では、キリスト者はすべて割礼を受け、数多くの暦の定めに従うことを強制する誤った教えが入り込んでいました。
そういう状況に対して、パウロは52~57年に行った第3伝道旅行の途中でこの手紙を書きました。
復活したイエスの福音を宣べ伝える為に使徒たちによって異邦人に送り出されたパウロでしたが、キリストが与えてくださった自由のために戦い、またガラテヤの人々が些細な定めに従うことで、その自由を無駄にしてしまっている、と非難しました。
そもそも「自由」とは何でしょうか。
辞書には「他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っているさま」とあり、一般的には束縛のない状態を指していると考えられています。
つまり、一人ひとりが自らの生き方を他者に決められることなく自分で選び取れる状態のことです。
その選択可能な生き方をキリスト者としてどう全うするのか、宗教改革者のマルティン・ルターは「キリスト者の自由」という著書で見解を主張しました。
「キリスト者とは何であるか、また、キリストがこれに獲得して与えてくださった自由とは、どのようなものであるか。これについて聖パウロは多くのことを書いているが、我々もこれを根底から理解できるように、私は次の2つの命題を掲げてみたい。
1.キリスト者は、すべての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも服しない。
2.キリスト者は、すべての者に仕える僕であって、誰にでも服する。
この2つの命題は明らかに、パウロがコリントの信徒への手紙Ⅰ12章で『私は全てのことにおいて自由であるが、自らだれでもの僕となった』と言っており、また、ローマの信徒への手紙13章で『あなたは互いに愛し合うことのほかは、だれにも何も負い目を負ってはならない』と言っているとおりである。「愛」とは大切にしているものに仕えて、それに服するものである。」
要するに、私たちが「キリスト者の自由」と言う場合には2つのテーマがあり、ひとつは「〇〇からの自由」、もうひとつは「〇〇への自由」だと言います。
聖書の時代、洗礼を受けてキリスト者となった人々は、律法主義から自由になりました。
それまでがんじがらめに束縛していたものからの解放。それが「既存の価値観からの自由」です。
それはパウロが5章1~2節「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」と語る通りです。
そして同時に、当時の人々だけでなく現代においてキリスト者となった私たちもまた、神と隣人に仕える生き方へと押し出されていきます。それが「愛することへの自由」です。
キリスト者になったからと言って、私たちを取り巻く現実はすぐに好転するとは限りません。
しかし、私たち自身が物事を違った視点から見ることで、まずは自分の身の回りから変えることはできます。
きっと、キリストの愛を知った人は、5章13節に記されるように、この世的価値観である「罪」に支配されることなく次は自分が誰かを愛することができるはずです。
それこそが、信仰によって「愛することへの自由」に向けて歩んでいく姿なのです。

今、私たちには「自分さえ良ければ」というエゴや自分に都合よく創りだした幻想から自由になる生き方が、求められています。
たとえ自分の思い通りに事が進んでいなかったとしても、その時にこそ理想から解放されること。
しかし、全てお任せではなく、自分の課題にはもちろん、他者の人生にも関わる選択肢があること。
自由の中に存在する「信仰」というひとつの太い幹を今一度、そして何度も見つめ直しましょう。

聖書には、人の心を動かす「力」があります。その魅力は、多くの人々を虜にします。
しかし、それを困った時に役に立つ「人生訓」や「ためになるイイ話」のように消費されていくことには違和感を抱きます。
決して、聖書は「健全ないい子」を育てるための「道徳」の教科書ではありません。
聖書には失敗や弱さが詰まっており、人間の手ではどうすることもできない現実をも描かれています。
イエスの十字架が最たる例です。
あの神の子でさえも、「わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と嘆き、死にました。
しかしながら、それで聖書の記述が終わるのではなく、復活という「既存の価値観からの自由」が、新たなスタートとなりました。
そして、イエスが示した「愛することへの自由」を中心とし、キリスト教は広がっていきました。
それを知る私たちの立ち帰るべきところは「隣人を自分のように愛しなさい」との一句なのです。

最後に、英語で「教育」を表す“education”、これはラテン語の“educo”が語源です。
この“educo”を和訳すると「引き出す」となります。
私たちは子どもたちと関わる時、ついつい教え込もうとします。
自分の失敗を語る際にも、「こんなことをしてはいけないよ」と助言します。
もちろん良かれと思ってのアドバイスではありますが、もしかしたらそれすらも本人たちを束縛しているのかもしれないと自省しました。
たとえ失敗したとしても、本人たちが選び取った結果の失敗だったら、その子の成長に繋がります。
私たちが大切にしている聖書の登場人物も失敗ばかりしました。
あのイスラエルの人々でさえ、神の教えに何度も背きました。
また、あの弟子たちでさえ、先生であるイエスを見捨て、裏切りました。
それでも主なる神やイエスは、何度も何度も、人々を赦し、励ましてくれました。
きっと現代を生きる私たちが失敗したとて、大きな愛で包み込んでくれるはずです。
本当の「教育」とは子どもたちの生き方を限定することではなく、元々持っている、キリスト教的に言うと神から与えられている「賜物」を引き出すことです。
私たちの弱さをも大切にしてくれる「聖書」を中心に置き、既にキリスト者となった人々だけでなく、キリストに連なる一人ひとりが隣人や自分を愛する喜びを感じ得るような世界を「キリストの自由な僕」として、共に作り上げていきましょう。

大阪女学院中学校・高等学校 片岡正義