《 本日のメッセージメモ 》
小山宙哉の人気漫画「宇宙兄弟」。紆余曲折を経て、宇宙飛行士になったムッタとヒビト兄弟。月で再会した時、兄が語った「ウィ アー スペースブラザース」は、宇宙開発に臨む各国の合言葉となった。
テキスト「一つの体、多くの部分」は、解説の必要もない、分かり易いパウロの例え。それは前段の「霊的な賜物」に続く箇所。
コリントの教会で、信仰には異言を語ることが必要とされていた。「霊的」も「異言」も共に説明が難しい。が、一つのあり様だ。そして賜物は様々である。
同志社女子大のK教授は、バルトの「空洞を露呈する」との表現に惹かれ、「自らの正義に固執することを手放す喜びへと招かれた」と書く。パウロもイエスと出会い、同じ喜びへ招かれたのだ。
それ故、弱さの大切さを思い、他者の苦しみを思う優しさへと広がりを与えられた。
埼玉の大学院生が、同じ星に生きる自覚を持ちたいとの投書をなした。
こうした宇宙的視野、視点こそが希望だ。働きは多様で、かつみんなで生きているのだ。いずれ、マンガの中の「ウィ アー スペースブラザース」の世界がこの世に何としても実現したいと願う。
《 本日のメッセージメモ 》
皆さん、「宇宙兄弟」というマンガを御存じでしょうか?週刊モーニングという、講談社のマンガ雑誌で、2007年12月から連載が続いている人気漫画です。アニメにもなっています。コミックではもう41巻2000万部出ていて、なお続いています。
南波六太(ムッタ)・日々人(ヒビト)という日本人の兄弟が、紆余曲折を経て、子どもの頃からの夢を叶えて二人、宇宙飛行士になるのです。最新のストーリーを紹介すると、トラブルが起こって、ムッタを含むNASAのチームが、月面に取り残されてしまいます。それをヒビトを含むロシアのチームが救出に向かうのです。
兄弟はもちろん連絡を取り合って今に至っていますが、長くそれぞれの人生を生きて来て、宇宙飛行士として月で感動の再会を果たすという展開になりました。この時、地上からのインタビューに答えて、兄のムッタが「ウィ アー スペースブラザース」と語るのです。「俺たちは宇宙兄弟です」、と。そしてこの言葉が反響を呼んで、これからの宇宙開発に向けた世界各国の合言葉となるのです。ムッタとヒビト個人の関係を越えて行く訳です。
この漫画が優れていて、人気を得たのは、二人の歩みを丁寧に描いたからだと思っています。宇宙飛行士になるって、今のところ並大抵のことでは実現しません。例えば操縦ができるだけでは無理です。あらゆることが求められます。知識に加えて、宇宙空間で仕事のできる体力や技術。何よりも、一つのチームで働くことができる人間力が不可欠です。
この二人、特に弟に遅れて宇宙飛行士になった兄のムッタは、当初からつまづきの連続でした。でも成長して行くのです。と言うより、自信の持てない部分、目立たない才能が思いがけず開いて行くのです。逆に何事もそつなくこなしていた弟のヒビトは、或る事故からパニック障害を患って長く苦しみます。それでNASAからロシアへ移るのです。そして障害を乗り越えます。
これらはすべて、あくまでもマンガの世界ではあります。現実の世界では、今アメリカとロシアが共同するなんて、あり得ない状況になっています。でも、漫画では二つのチームが力を合わせて月からの帰還プロジェクトに取り組んでいる。その姿に、感動すると共に、本来はこうあるべきだと希望を抱かされるのです。
さて今日与えられたテキストは、「一つの体、多くの部分」という小見出しの通り、恐らくは誰でも「その通りだ」と文句なく肯定できる内容でした。体は様々な部分から成っている、その働きはそれぞれ違うけれど、すべて全体のため・一つの体のためにある。教会も信仰も同じ、ということでしょう。とりたてて解説する必要はない、本当に分かり易い例えをパウロは語りました。
ただし、12章最初の小見出しを見ると、「霊的な賜物」とあって、初めの段落では、その霊的な賜物に様々な働きがあることを書き綴っています。その続きが今日の箇所になる訳です。
コリントの信徒への手紙Ⅰも、先週読んだⅡと同様、コリントに教会を立ち上げた後、離れてから起こった諸問題についてパウロが書き送った手紙です。その諸問題の一つが、「霊的な賜物」についてでした。この「霊的」という言葉を説明するのは、今もとても難しいことです。ですが、当時コリントの教会で、信徒として異言を語ることが霊的な賜物として求められるようになっていたのです。
「異言」についても、説明するのがやっぱりとても難しいことです。預言は、自分の知っている言葉で語ること、異言は自分の知らない言葉で語ること、などと注解に書いてあります。でもそれだけではよく分かりません。自分の知らない言葉で語ることの意味が分かりません。「異言」も「霊的」も、その言葉自体が、信仰に伴う一種の陶酔に近いものを含みます。ですから、下手をすると「危ない」世界でもあります。と言って、信仰はすべてこの世の合理的説明がつくというものではないのです。信仰の持つ、ちょっとこの世を超える範疇のものはある、そういうしかありません。
逆に、コリントの教会を立ち上げたパウロが、そこで「霊的賜物とは異言です、それを追い求めなさい」などと指導したはずはないのです。もともとパウロこそは、ユダヤにおけるこの世的なあり様を懸命に追求した人でした。例えば何百もある律法を、そらんじて、それを守ることが「信仰」だとかつては信じていたのです。
今、故・安倍元首相の銃撃事件以降、図らずも旧・統一教会の問題がクローズアップされています。この教団こそはカルトであって、徹底的に洗脳します。だからその信徒を脱会、転向させることはただ事では済みません。「これしかない」と信じ込んでいるものを、そんな容易く手放したりできないのです。
同志社女子大の或る先生(K先生)が、「空洞を露わに」という一文を書かれていました。若い頃、カール・バルトの神学を「小難しい」と避けていたことを、今告白されていて、後から「空洞を露呈する」というバルトの言葉、その表現が心に沁みたと言われるのです。
そして、「自らの正義に固執することを手放す喜びへと招かれた。」と書かれていました。「自らの正義に固執することを手放す喜び」とは、何と言う素晴らしい言葉でしょう。これを聞かせたい、聞いてもらいたい人が世界に何人もいます。
私も神学生の頃、そんなに真面目にバルトを読んだ訳ではなく、「空洞を露呈する」という言葉も今般初めて聞きました。それでも、何となく理解できるのです。この世的価値観にのみ浸り、自信満々に自分を生きている時、多分人は自分のうちに空洞があるとは思わないでしょう。例え、空洞があることに気づいたとしても、それを他者に見せることなどしないでしょう。それは弱みであり、恥ですから。
K先生は先ほどの文章の続きをこう書かれています。「信仰の歩みとは、私だけの賜物を活かし、私を満たすことではない。聖書が伝承する人間創造においても、私たちの生命は「外側からの介入(命の息)」に根拠づけられ、「関係性(人が独りでいるのは良くない)」が尊重される。ボブ・ディランの反戦歌(風に吹かれて)のごとく、答え(正しさ)は、私たちの手中にはなく、「風」の中にある。露わとなった空洞にこそ主の息吹が注がれ、新たな生命が創造される。」
このように続けられています。全くその通りだと思います。熱狂的ユダヤ主義に生きていた時、パウロは自分のものを守ることで精いっぱいであり、同時にそんな自分に満足していたでしょう。けれどイエスに出会ってそうではないと知ったのです。K先生の言葉を借りて言えば、「自らの正義に固執することを手放す喜びへと招かれた」のでしょう。
だからこそ、「一つの体、多くの部分」という手紙を書きました。働きは様々でした。自分の正義を喜んで手放したから、そこに、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(22節)、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむ」(26節)という、優しさの世界が新たに展開しました。広がりました。
私は、これは宇宙的視野のように思います。埼玉県の一人の大学院生が「同じ星に生きる自覚持ちたい」という投書をしました。来日したウクライナ人の支援活動をしているが、彼らの中にロシア人は悪魔だと叫ぶ人もいて、彼らの痛みに寄り添いたい一方で、その深い分断に絶望的な気持ちになる、と告白しているのです。
「しかし、私たちはどこかの国民であるより前に、同じ星に生きる地球市民であるはずだ。今、必要なのは壁ではなく、共に生きる自覚を持つことではないのか。分断がはびこる星を次の世代に継承してはいけない。美しく愛に満ちた星を創っていくのは、他でもないこれからを生きる私たちなのだ。」と文章を続けています。
その通り、その宇宙的視野、視点こそが希望です。パウロは「一つの体、多くの部分」と訴えました。みんなで生きているのです。今はマンガの中でしか実現されていないウィ アー スペースブラザース」の世界を、何としても、いつかこの世に実現したいと心から思います。
天の神さま、私たちは地球というこの星に、共に生かされ、働く者です。あなたはそれぞれに相応しい賜物を下さいました。それを十分用いて、豊かな一つになれますよう。憎しみではなく、愛をもって互いを認め、受け入れる者として下さい。