今日は自分がボランティアをした経験の中から、少しお話しさせていただきます。
2020年にそれまで続けてきた、女性への支援のボランティアをやめました。
40代半ばから始めたボランティアで、30年間続けてきました。
アジアから来日した女性たちの支援や、夫や恋人からの暴力、DVを受けた女性の相談、女性たちの一時避難所・シェルターなどの運営でした。
今日は経験した中から古い話を選びました。でも女性たちへ差別、暴力は決して過去の話ではなく現在も増え続け、また形を 変え見えなくされながら続いています。

 我が家は、転勤族家庭でした。1988年に福岡から千葉に転居いたしました。教会籍は日本基督教団の市川三本松教会に移しました。
 ちょうどバブルの時代でした。バブルの時には3Kと言われる、「きつい、汚い、危険」という仕事には日本人は働くことを嫌がり、そのような仕事には外国人が働いていました。しかしその労働条件・環境、生活は非常に過酷なものでした。
 当時、日本政府は外国人の単純労働は認めていなかったのですが、人手が足りなく外国人が働くのを見て見ぬふりをしていたのですが、バブルが崩壊すると一番先に解雇されたのは、これらの外国の人たちで、入管はそれらの人たちを捕まえて母国に強制送還をしていました。
 現在の日本は、途上国の人材育成に貢献するという理念で始めた「外国人技能実習制度」の参加者を、現実には人手不足を補うための手段として働かせています。           
             
 話が少しそれますが、「日本キリスト教矯風会」が創立100年記念(1986年)に、「女性の家・ヘルプ」を作りました。日本で困難な状況におかれている,特にアジアからの女性と、その子どもの一時避難所・シェルターです。
 その「ヘルプ」の初代ディレクターをなさった大島静子さんという方が、千葉県の浦安教会の教会員でした。その大島さんの声かけでアジアから来ている人たちがどの様な状況におかれているかという勉強会が,千葉県の教会関係者を中心にしてはじまりました。
 当時千葉県には、行政はもちろんですが、民間にも外国籍の人が相談できる場所が一か所もなかったのです。その勉強会で外国籍の人が相談できる場所を作ることになり、1990年「hand-in-handちば、外国人労働者と手をつなぐ千葉の会」という会ができました。事務所は千葉市内の協力弁護士の事務所の一角を借りました。代表は当時指紋押捺制度の反対運動をしていた、市川三本松教会の鈴木省吾牧師にお願いいたしました。
 それから「hand-in-handちば」は21年間の活動をしましたが、その間に市川三本松教会は牧師の交代もありましたが、いつの時も牧師や教会員の方々の「hand-in-handちば」への協力はほんとうに頭の下がるものでした。   

 ある日事務所にフィリピン人の女性から相談の電話がありました。私はその電話相談の詳しい内容を忘れているのですが、市役所に行って面倒な手続きをしなければならないことだったと覚えています。女性は日本語を不自由なく話せる人でした。市役所でどのような手続きをするか説明をしました。しかし日本語を話すことのできる外国籍の人でも、日本語を読んだり、書いたりするのが苦手な人が多いのです。まして市役所の書類は漢字まじりの日本語のみでした。私は電話の最後に「私も一緒に市役所に行きましょうか?」と言いましたら、彼女は喜んで日にちを約束したのです。
 約束の日、場所は千葉駅でしたが15分すぎても 現れません。当時はまだ携帯電話などない時代です。もう少し待ってみようと30分待ちましたが現れません。もう来ないのだろうと思い帰ろうとした時に、柱のかげからフィリピン女性が現れました。
 女性は本当にすまなそうな顔をしてこう言うのです。『この間事務所に電話をした後、松代さんとの約束を、やはりフィリピンから働きに来ている男性に話しました。そうしたらその男性がゲラゲラ笑って言いました。「あなたは、その電話に出た日本人の女性に騙されたのだよ。考えてごらん、僕たちはもう何年も日本に住んでいるけれど、未だかって日本人がそんな親切な言葉を、俺たちにかけてくれたことなどないだろう。いつだって俺たちを見くだして、軽蔑し、差別をして、対等に接してくれないだろう。その電話の女性はあなたを、からかったのだ」と言ったのです』
 それでその女性は、男性の言う通りかもしれないと思ったそうです。「それで、今日ここには来ないつもりでいたのだけれど、約束の時間になったら、どうしても気になって来てみました」と言うのです。その話に私は内心、強い衝撃を受けました。
 それから市役所に行って、あちこちの課を回りながら面倒な手続きを終えました。帰りにそのフィリピン女性が言うのです。「今日は市役所の人たちがとても親切だった。自分が用事があって市役所に行くと、やっかいな者のように対応され不親切な扱いをされるけれど、やはり日本人の人が一緒だと市役所の対応はちがうのですね」と。
日本人と一緒に行くと、役所の対応が違うという話は、アジアの国の人たちから何度も聞きました。
日本社会や、日本人がアジアの国々から来ている人たちをどう思い、どう接しているのか。知らされ考えさせられました。

 千葉県の房総半島の内陸部に「茂原市」というところがあります。
1992年、この茂原市のスナックでの5人のタイ人女性が、シンガポール国籍のスナックのママを殺害するという事件が起こりました。女性たちは人身売買で日本につれてこられたのです。このころ関東では人身売買で日本に連れてこられたタイ人女性が、店の経営者やブローカーを殺害する事件がいくつか起きていました。
もちろん殺人などあってはならないことです。女性たちは、あまりにも悲惨で過酷な状況に耐え切れずに起こした事件でした。このころ日本は、人身売買被害女性の大きな受入国だったのです。女性差別の極限のようなことが、行われていました。
 タイ北部出身の女性は、「日本に行くと、レストランや工場で働いていいお金になる」と声をかけられ、家庭の貧しさを助けるために、日本に来ることを決めたそうです。
 5人の女性は、別々に来日していました。タイを発つ時は日本人とタイ人のブローカーが付き、成田空港に着くとまた別の日本人のブローカーが付き近郊の店に行き、その店でまたブローカーが変わり、次の店でまたブローカーが変わる。それを2~3回繰り返し、茂原のスナックについた時には、一人350万円から380万円の借金を背負わされていました。借金といってもタイの家族にも彼女たちにも1円も渡らず、飛行機のチケット代、手数料、一人では来ることの出来なかった日本に連れてきてやった代金というのです。         
 タイで聞いた仕事とは大違いで、その借金を4か月ぐらいの短い間に、客の相手をして返すことを強いられたのです。パスポートやアドレス帳などを取り上げられ、裸の写真をとられ、逃げたら写真をばらまきマフィアを使ってどこに逃げても探し出す。タイの家族もただではおかない。と言われ彼女たちは従わざるをえなかったのです。女性たちの部屋には監視カメラがつけられて、生活すべてが監視のもとでおかれていたのです。食事も太るからとの理由で日に一回でした。ママが気にいらないと、そのつど5000円の借金が増えていくのです。ある日ママが電話で女性たちをよその店に移す相談をしているのを聞いたそうです。よそに移るということは、彼女たちの借金がまた増えるということでした。彼女たちは、その状態から逃げたい一心で犯行に及んだのでした。
 その年の市川三本松教会のクリスマス祝会の後で、鈴木牧師から「明日、茂原警察に行きタイの女性に面会し、近隣教会によって支援をお願いするので一緒に行ってくれませんか」と言われ、次の日鈴木牧師と茂原に出かけました。
 茂原警察の薄暗い一室で、その事件の主犯格と言われているPさんと面会しました。
 彼女は、とても暗い絶望的な目をしていました。私はその目が怖かったのを覚えています。そのPさんに鈴木牧師は「罪をつぐなったら必ずタイに帰れるから希望を失わないでください。時間がかかるけれど罪をつぐなったら、タイに帰って必ずお母さんや家族に会えるから、希望を持ってください」となんども、なんどもPさんに話しかけるのです。      
 私はその様子を見ていたのですが、ああ今、この場に神さまが私たちと一緒にいて下さると思いました。それは、信仰の知識などではなく確信でした。神さまが共にいてくださるという実感です。 長い信仰生活の中ではじめての体験でした。あれから何年もたつた今でも、あの時、あの場所に、神さまが私たちと一緒にいてくださったという確かな思いを持っています。          
 5人の女性はそれぞれ拘留されていた警察から、裁判の行われる千葉市内にある千葉拘置所に移されました。「hand-in-handちば」では、5人の女性それぞれに面会にいく人を決め、私は茂原警察で会ったPさんの面会にいくことになりました。
 拘置所の面会室は、テレビの刑事もののドラマに出てくる面会室と同じです。狭い部屋を天井から、プラスチックの厚い透明な板で区切り、その仕切りの向こうとこちらで面会するのです。その部屋で待っているとPさんが看守に連れられて入って来ました。私はこれからPさんの面会に来ることを説明し「寒くないですか、眠られていますか、しっかり食べてください。拘置所の売店で売っているものは、差し入れができるから、必要なものはないですか?洗濯物は持ちかえって洗濯をして,次の面会の時にもってきますから、出してください」と。まだ日本にきたばかりで、日本語も話せず、あまり理解できていないであろう彼女に一方的に私が話すのです。それに対してPさんは「はい」とか「いいえ」と短く答えます。そんな会話はすぐ終わり沈黙が流れます。そうすると彼女は声をださずポロポロと涙を流して泣くのです。仕切られていますので、私は彼女の手を握ることも抱きしめることもできず、ただ眺めているだけでした。そんな彼女を見ていると私もつらく、悲しくなり私も一緒に泣きました。そして15分の短い面会時間は終わります。そのような面会がしばらく続きました。いつも面会が終わり拘置所の門を出る時に考えました。言葉が通じなく話もできず、ただ一緒に泣いて終わる面会になんの意味があるのかと。私は強い無力感を感じていました。
 裁判も始まりました。拘置所の中庭の梅の花が咲き、桜が咲き、新緑になり、紅葉になり、落ち葉の舞うのを見ながら、私の拘置所通いは続きました。
 そして、1年1か月にわたる裁判が終わりました。裁判の結果は、国の在り様が示めされます。女性への暴力は問題にされず、本当に裁かれなければならない者が裁かれず、女性たちの起こした行為だけが裁かれて、裁判が終わりました。「hand-in-handちば」は裁判所を急がせて、5人の判決文を出してもらいました。もちろん裁判には、タイ語の通訳者が付きましたが、もう一度それぞれの判決文をタイ語に翻訳して差し入れ、控訴するかどうかを女性たちに決めてもらいました。女性たちは、国に帰れるなら早く罪をつぐない国に帰りたいとの希望で、控訴せず刑が確定しました。そして、順次栃木県内の刑務所に移されました。刑務所に移されると、手紙のやりとりや面会ができるのは、刑務所を出る時の身元引受人か家族のみでした。私たちは、面会も手紙のやり取りもできず、そこで茂原事件の女性たちとの連絡は途絶えました。

 阪神・淡路大震災の次の年(1996年)に我が家は神戸に転居してきました。
震災直後の神戸に「外国人救済ネット」という外国籍の人々のための、民間の相談機関が出来ていました。これは学生青年センターの飛田さんたちが中心になって作った団体です。私はそこで相談の専従をしました。場所は北野坂の途中にあるカトリック教会です。教会の建物は震災で使用できませんでしたので、震災後ベトナム人が使っていたという、小さなペーパーハウスを教会の庭に建てそれが事務所でした。
 代表はカトリック鷹取教会の神田神父でした。そこでの外国籍の人たちの相談は、千葉で受けていたものとなんら、変わらないものでした。日本で生活するアジアからの人たちの抱える問題は同じなのです。
 女性たちからは「日本人の夫の暴力がひどく耐えられないので、どこかかくまってもらえる場所がないですか?」との相談が多くありました。外国籍女性の人を頼めるシェルターも少なく、困った時にはカトリックのシスターに頼み、修道院にお願いしたことがなんどかありました。
 日本人男性と結婚した外国籍女性がDV被害にあうと、日本女性のDV被害とは違う困難さが伴います。女性が外国籍であるがゆえの困難さです。日本に頼れる親族がいないこと、在留資格、ことばの壁、仕事、住まい、文化の違いなどなど。それがいくえにも重なり外国籍女性を苦しめます。             
 私は、「外国人救援ネット」の専従をしながら、女性の草の根運動をしている人たちとDVの勉強会をしていました。そして、1998年に女性7名ほどで「W・Sひょうご」という、DV被害専門の相談機関と、国籍に関係なく女性が使えるシェルターを立ち上げました。
 女性は暴力から逃れてシェルターに来て、安全・安心な場所で心と体を休めて、また新しい出発のためにシェルターを出て行きますが、私は、女性を見送る時にはいつも「神さま、彼女の行く道を支え守ってください」と心の中で祈りました。
 5年ほどたち、(2001年に)また我が家は横浜に転居いたしました。横浜に行き、私はまた最初の「hand-in-handちば」に戻りました。その時は、すでに天に召されていた鈴木省吾牧師が「もし関東に戻ってきたら、またhand-in-handちばに関わってほしい」といつも話されていたのです。横浜の自宅から千葉の事務所まで、電車の乗り換えなどもあり、片道2時間ほどかかりましたが通いました。

 「hand-in-handちば」に戻り、わたしはタイにある「SEPOM」という団体を訪ねる機会がありました。人身取引で日本に来た女性が心に深い傷をかかえて、タイに帰国しますが、その女性たちのエンパワーメントを目的とした団体です。Self empowerment program of migrant women の頭文字を取って「SEPOM」セポムです。
 タイ・チェンライの「SEPOM」で、私はあの茂原事件のPさんと再会いたしました。            
彼女は罪をつぐない国に帰り、しばらくして同じ村の男性と結婚して、1歳になる子どもがいました。彼女は栃木で覚えたきれいな日本語で、話してくれました。
 「茂原警察から千葉の拘置所に移されて、あの時は地名などは何もわかっていなかった。自分のおかした罪の大きさと、後悔と、恐れと、孤独でもう生きていけないと思いました。そしてどうやったらこの拘置所で死ぬことができるか、毎日、毎日そればかり考えていました。そんな時に松代さんが面会にやってきたのだけれど、自分は日本語がわからず、なんでこの人が私に会いに来るのか理解できませんでした。でも面会を約束した日には、必ずその日が雨でも、風の強い日でも、雪の日でさえ面会に来てくれました。それがずっと続いて、自分は死なずに生き延びることが出来たのです。松代さんをお母さんだと思っていました。そして考えました。もし罪をつぐなってタイに帰ることが出来たら、必ず自分もだれかのために、何かできることをしようと、決心したのです。」
 夫が大工さんで、自分の家の庭にタイ語でサーラーという、日本のあずまやのようなものをたて 、人身売買から帰国した女性の、エンパワーメントの活動の場として提供し、Pさんもスタッフとして働いていました。
 私はPさんの長い話を聞きながら、千葉の拘置所で面会が終わった時の自分の無力感と、拘置所の門を出た時に、私の背後で守衛さんが閉める鉄の扉のにぶい音を、なぜか思い出していました。
 そして、茂原警察のあの薄暗い部屋で、私たちと共にいてくださり、Pさんを守り導き、共に働いてくださった神さまに感謝いたしました。
 神さまのなさるわざは、人間にははかり知れないものと、あらためて知らされます。
 チェンライの「SEPOM」(セポム)でのPさんとの再会は、神さまからの贈りものだと思っています。
              
今日は、司会者の方に聖書のコヘレトの言葉(第3章10~11節)を読んでいただきました。この聖書の個所、私は口語訳の「伝道の書」が好きです。最後に読ませていただきます。
【 わたしは神が人の子らに与えて、ほねおられる仕事を見た。
神のなされることは 皆そのときにかなって美しい。
神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見き わめることはできない 】(伝道の書)