《 本日のメッセージメモ 》
 昨年に続き、投手・打者の二刀流としてプレーする大谷翔平選手の活躍をまぶしく思う。
テキストは「最も重油な掟」。適切な返答によってイエスから声をかけられた律法学者。平行記事であるマタイ・ルカには「イエスを試そうとして尋ねた」と記されている。
マルコでは掟への順位を問うているし、イエスの事前の言葉に対応していることが気にかかる。
学者はそれを誰よりも知っている存在のはず。
イエスは第一と合わせ、切り離せない第二の掟を示した。その返答の中で、「精神・思いを尽くし」を「知恵を尽くし」と言い換えた学者。知恵とは、直訳すれば「理解」だ。
 彼らが日々祈る時、額と左腕に結び付けていたフィラテクテリーと呼ばれる革製の小箱。そこには、第一(申命記6:4,5)と第二の掟(レビ記19:18)が書かれた羊皮紙が入れられていた。最も身近なところに、二つが共に置かれてあった。
 律法について学ぶ時もなく、神殿に参る余裕もなかった大勢の庶民たちを思う。しかし緊急時には助け合って生きる術を持っていた。
 「あなたは神の国から遠くない」と、イエスは学者に語った。何だか回りくどい表現だ。知っているだけでは駄目だという思いを見る。
 大谷選手は本来の野球の楽しさを追求している。私たちも神と人を愛し、仕える生き方を具体的になしたい。我ら(こそ)二刀流である。

《 メッセージ全文 》
 去年に続いて今年もエンゼルスの大谷翔平選手の活躍が凄いですね。現在、ピッチャーとして11勝、バッターとしてホームラン33本(9月8日現在)という素晴らしい記録を達成しています。
 コロナ禍の上に、今年は戦争という重苦しい現実が重なった中で、日本人の希望はまるで大谷さんの活躍しかない、というぐらい、日々の報道が熱を帯びました。プロ野球に余り関心がないという方にとっても、ちょっと注目させられる歩みだったと思います。残り試合も少なくなっていますが、ヤンキースのジャッジ選手とのMVP争いの話題でもうしばらく盛り上がることでしょう。
 さて、今朝与えられたテキストは、「最も重要な掟」と小見出しにある通りの、よく知られた出来事です。一人の律法学者とイエスの対話というか、問答で、この律法学者は、適切な答えをしたというので、イエスから「あなたは、神の国から遠くない」という言葉をかけられた(34節)のでした。
 先週は12章冒頭にある「ぶどう園と農夫のたとえ」という箇所を読みました。その直前、11章の終わりに、その場所がエルサレム神殿の境内であったことが記されています。そこに祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、イエスに対して問答をふっかけるのです。
 12章1節に、「イエスはたとえで彼らに話し始められた」とある、彼らとは、祭司長、律法学者、長老たちを指します。その続きが12章に長々書かれているのです。祭司長・律法学者・長老たちの後にはファリサイ派やヘロデ派の人が来た(13節)とあります。その次はサドカイ派の人々(18節)です。
 いずれも、何かしらイエスとの問答を通して、言葉尻を捕えて陥れようとたくらんだ問答で、今日のテキストは、それらに続く最後の問答となっています。今日の28節には「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出て、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」とあります。
 イエスとの問答を読めば、どうやらこの律法学者は悪い人物ではないように思われます。でも、「イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」という記述が、何だか上から目線で、気にかかるのです。この記述はマタイ・ルカ両福音書にも記されていて、そこでは律法の専門家とあります。そしていずれも「イエスを試そうとして尋ねた」とあるので、やはり良いとは言えない意図があったものと思われます。
 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」、これがこの律法学者の問いかけでした。律法学者も人それぞれでしょうから、敢えて悪く取るつもりはないのですが、この問いかけもイエスを試すかのようで、嫌な気になります。そもそも守るべき掟に順位をつけることがどうなのか。そして、彼こそが律法学者で、律法やユダヤの掟について、本来誰より知っている存在だったからです。それとも、知っているつもりだったけれど、色々な悩みがあって、イエスの返答に期待するものがあったのでしょうか。もしかしたら、そうなのかもしれません。
 けれども、どうも余り良い想像が働かないのです。そこはエルサレムの神殿の境内です。祭司長だとか律法学者だとかの人たちにとっては、まさに自分たちの働きの場、世界の場所であるでしょう。
 地方から参拝のためにやって来たであろう多くの庶民たちの中で、身なりからして権威をまとった人たちでもあったはずです。ガリラヤからやって来たイエス一行は、見るからに貧しい身なりでもあったに違いありません。
 そういう人が、「あらゆる掟のうちで、どれが第一か」などという質問を庶民の一人に過ぎないイエスになすとは、暇人かと嫌味の一つも言いたくなるのです。しかしイエスはこれを真正面から受けて、「第一の掟は、これであるとして、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と答えました。これは申命記の6章4節5節からの言葉ですが、当時のユダヤにおいて、まさに律法学者当人たちが、朝と夕、日に二度唱えていた「シェマ」と呼ばれる祈りの一節でした。つまり、誰より知っているはずの聖句だったのです。
 だから、「先生、おっしゃるとおりです。「神は唯一である。ほかに神はいないとおっしゃったのは、本当です」(32節)と答えています。しかし、問題は、その第一に全く並ぶものをイエスは語ったことでした。
 「第二の掟は、これである。隣人を自分のように愛しなさい。」これはレビ記19章18節からの言葉です。イエスは、これを第一とくっつけて、この二つにまさる掟はほかにない」と明言したのでした。第一と第二は同じではないものの、分けることができない同じ重みを持っていることをはっきり語ったのです。
 律法学者はこれに驚愕したと思います。第一だけなら「その通り」で終わっていたでしょう。ところが思いがけず、分けられないもう一つの掟が示されました。驚愕したというより、動揺したかもしれません。
 今日のこの出来事の後、マルコはイエスが律法学者の偽善について批難したことを書いています。38節から40節までの一段落です。そこに長い衣をまとって歩き回る彼らの姿が言及されています。ことさら権威を示すためにでしょう。このことをマタイも記しているのですが、マタイはマルコよりも詳しく書いていて、23章5節に「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」と書かれてあります。
 当時のユダヤ人の男性たち、と言っても実際には律法学者たちのことですが、朝の祈りの時、皮でできた小さな小箱を、額と左腕にそれぞれ結んでお祈りしたのです。「聖句の入った小箱」と訳されていますが、原文ではフィラクテリーとあります。
 このフィラクテリーと呼ばれるおおよそ2.5センチほどのサイコロ状の小箱の中には、羊皮紙に書かれた幾つかのヘブライ語の聖句が入れられておりました。その聖句こそは、一つは申命記6章4節5節であり、もう一つはレビ記19章18節の文言だったのです。彼らが日々身に着けていたものの中に、最もみじかな場所に、この二つの聖句が一緒に置かれていました。
 それなのに、イエスが言われた「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」という文言を、律法学者は「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして」と表現を変えて返答しています。ここで知恵と訳されている単語は、直訳すると「理解」という言葉です。人間の理解を尽くして、と学者は言い換えた、そのように受け取ったのです。
 「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」という続きの言葉は、その通りではありますが、問題は、それを実行できるかどうか、実行するかどうかであるのです。理解によるのではないのです。
 神殿に参拝しに来た多くの庶民たち、それだけでなく、神殿に参拝しに行く余裕すらない、それこそ貧しい多くの庶民たちは文字も読めず、律法学者たちのように、律法について学ぶような時は到底なかったでしょう。もしかしたら人生で一度もなかったかもしれません。掟の中で何が一番かというような問いかけをする暇はなかった。日々生きて行くのに精いっぱいだったからです。それでも飢饉やら災害やらの苦難の時には、互いに助け合う術を知っていたし、実行していたと思います。そうでないと生きられないのです。
 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言葉をかけました。この対応を見ると、律法学者に悪い印象は持っていないようにも感じます。実際、そのように受け止めている注解書も少なくありません。
 その辺りのことはよく分かりません。ただ、これはイエスの逮捕直前の出来事です。もうすぐ十字架刑につけられる直近の出来事です。イエスには、学者の返答に詳しく応対する時間は残されていなかった、と書いている注解がありました。そうだという気がします。
 もし学者が言い換えたりしないで、イエスの言葉通りを復誦していたなら、「あなたは神の国から遠くない」という回りくどい言い方ではなく、「あなたは神の国に近い」とはっきり言われたのではないかと思ったりします。いずれにしても、「知っている」だけでは意味はないのです。
 大谷選手は二刀流として随分努力して来ました。誰にでもできることではありません。でも、「投げて、打って、走る」ことは本来野球の神髄であり、楽しさなのでしょう。大谷選手はそれを追求して来ました。
同じように、「主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕える」ことは信仰生活の神髄であり、楽しさなのでしょう。知っているだけでは、駄目なのです。神と人を愛し、仕える生き方。我ら二刀流です。

天の神さま、救い主にならい、私たちも神と人を愛し仕える生き方を具体的に表せますようお導き下さい。