《 本日のメッセージメモ 》
五味太郎さんが「信頼することを他者ではなく、まずは自分に求めること」と書かれる。生きるためにはどうするかということだ。
テキストは「律法学者への批難」と「やもめの献金」の二つ。神殿での最後の出来事として、象徴的。見られることを意識した律法学者と全く意識せず献金したやもめの対比である。
自分の地位を誇り、ことさら持ち上げられたいために、律法学者はあれこれの望みを持ち、実行した。実際には、その意図は知られていたが、庶民には望み通りするしかなかった。
多くの金持ちに混じって、一人の貧しいやもめが献金した。いわゆるレプタ2枚。100円ほどのお金だ。たまたま目撃したイエスは、有り余る中からではなく、自分の持っているものをすべて入れた、と弟子たちに語った。だが、決して献金のお勧めの話ではない。
ガラテヤの信徒への手紙の中で、パウロは人にも神にも取り入ろうとしてはいない、と自分を顧みている。
ありのままを貫くのは簡単ではない。が、生涯のささげものとして神に差し出すものは、立派な行為でもなく、献金でもない。「打ち砕かれた霊」だ。今日一日、偽らないで生き得たかどうか点検し、修正する日々。「今日も大切なこと 一つずつ」を重ねて生きて行こう。
《 メッセージ全文 》
二学期が始まって、もう二週間以上が経ちました。8月末に、夏休み明けに、学校に行くのが苦しくなる子どもがたくさんいることについて、絵本作家の五味太郎さんが新聞にメッセージの文章を書いておられました。五味さんの長女も高校時代ですが、不登校になって学校を辞めたそうです。
学校は行っても行かなくても、どちらにしても大変だ、としながら、一人でいたいと思うことを許してもらえない今の学校を含めた社会に疑問を投げています。「一人でいるって、大事なことだよ」「休んでいるうち 何か見えるかも」と。
途中の一文を紹介します。
「俺は77年生きているけど、友達なんて一人もいないよ。「気の合う知り合い」はたくさんいる。でも、ちょっとかっこよく言えば、親友は自分だけでたくさん。自分のサポート要員としての友達をSNSなんかで周りにいっぱい集めようとするから、逆に苦しくなってくるんじゃないかな。信頼することを他者ではなく、まずは自分に求めないといけないと思う。」
こう書いておられるんです。「77年生きているけど、友達なんて一人もいないよ」って、思わず笑ってしまいました。ホントは少し反論もあるんですけど、そんな風に言い切れるのって、凄いです。確かに、無理やり形ばかりの友達を作っても意味はないんですね。信頼することを他者ではなく、まずは自分に求めること、それは、生きるためにどうするかについてなのだと思わされました。
さて、今日は二つの短い段落がテキストとして与えられました。小見出しで言うと、「律法学者を非難する」「やもめの献金」とあります。これらはエルサレムの神殿であった出来事で、本当にこういう順番であったのかどうかは定かではありません。或いはマルコによって編集された順番なのかもしれません。仮にそうだとすれば、より一層マルコの意図は明らかです。それは人に見られることを意識した律法学者と、全く意識しなかったやもめの出来事が対比させられているからです。
律法学者たちの望むこととして、長い衣をまとって歩き回ることがまず筆頭に挙げられています。先週の説教でも紹介しましたが、マタイとルカ福音書にもこの記事は取り上げられていて、マタイのもの(23章)はより詳細です。
マタイによれば、彼らの衣服には四隅に房がつけられていたのですが、それを意図的に長くしたというのです。また祈りの時に額と左腕に結び付けるフィラクテリーと言う、聖句の入った革製の小箱、これは本来一辺が2.5センチほどですが、その小箱を大きくしたとあります。見せること、見られることへのゆがんだこだわり、もうそれだけで、何だかなぁとあきれてしまいます。
もともと一般の庶民とは違う恰好をしているのですが、それだけは足りないのでしょう。しかもその恰好で神殿や町中を歩き回るという言うのです。理由は言うまでもありません。権威ある自分をことさら見せたいからに他なりません。
イエスの批判は続きます。広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望んだとあります。またやもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをすることも付け加えられています。
これらの律法学者、恐らくはマタイ・ルカが書いているようにファリサイ派も含んだ人たちの態度は、何もイエスだったから判別できたということではないと思われます。多くの庶民たちも分かっていたと思うのです。偉い人たちがやっていることです。公然と非難などできません。内心あざ笑っていた人もいたかもしれませんが、それを表に出せる訳がありません。かなわんな~と思ったとしても、表面上挨拶もせねばなりませんし、呼んだなら上座を用意したことでしょう。
事情あってやもめとなった女性の家へ行って、いかにも味方のふりをして、押し付けの長いお祈りをして、謝礼を受け取ったりもしていた、そんなことが喜ばれたりするはずはないのです。が、多くの場合、そうしたほうが無難なので、苦痛を堪えて受け入れていたのです。その実体を知ってか知らずでか、受け入れられる以上、彼らはそれでますます図に乗り、増長していたに違いないのです。
この律法学者たちへ批判の後に、神殿で献金したやもめの出来事が記されています。当時のユダヤ社会では、女性は基本的に男性の付属物でしかありませんでした。結婚すれば、後ろ盾が与えられますが、事情あって結婚しない女性や夫を失った女性は、それだけで一人前とはされない不安定な身分であったのです。
ラッパを逆さまにしたような形の献金箱が全部で13個、神殿の柱にしつらえてありました。たくさんのお金をそこに投げ込むと、じゃらじゃらと派手に音が鳴るように作ってありました。「大勢の金持ちたちがたくさん入れていた」と41節にあるのは、見た目だけでなく、音でも分かったことです。しかも彼らは1回でなく、複数の箱に何度も入れたのです。
そういう人たちに交じって貧しいやもめが、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを入れたといいます。1クァドランスとは、当時の労働者の一日の賃金1デナリオンの64分の一の額に当たります。レプトン銅貨は一番安いコインでした。敢えて現代に換算するなら、50円が2枚、100円ほどになるでしょうか。貧しい家庭の一回分の食事代と言われます。それをやもめは献金したのです。
せめて1枚にしても良かったのを、何故2枚入れたか、その詳細は何も分かりません。もちろん誰かに見られていることを承知して行ったのでもありません。そうであれば献金せずに帰る選択肢もあったでしょうが、それはしなかったのです。律法学者と違って、人に見せるためではない、全く彼女自身の決定による行為でした。
イエスがこの女性を知っていたはずはありませんし、実のところ信仰心にあふれていたかどうか定かでもありません。むしろ破れかぶれで献金したのかもしれません。しかしたまたまイエスは見ました。そして有り余る中からではなく、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたと、はっきり弟子たちに評したのです。これがイエスの神殿における最後の出来事となりました。逮捕は目前に迫っていました。
昔はレプトンではなくレプタと言っていました。「レプタ2枚」。金額は問題ではないのです。持っているものすべてを献げたこの女性の行為が尊いのです。レプタ2枚、私たちも倣いたいものです。などと教えておりました。
でも、イエス自身は何一つそんなことを語っていません。この女性を立派だとか偉いだとか褒めてもおりません。これは献金の勧めの話ではないのです。想像するに、神への相対し方であり、もっと単純に言うなら、生き方の話だと思います。つまり、誰かに見られていること、見られることを意識しないで生きる生き方です。直前にその正反対の律法学者の話が置かれている訳です。
神さまはありのままの私たちを見て下さると、私たちは言います。飾らないでありのままの私たちでいよう、とも言います。誰が見ていなくても神さまが見られている、とも言います。それで時に、良い自分を神さまに見せようと無理したりします。たちまちありのままではなくなるのです。
パウロも、ガラテヤの信徒への手紙の中で、手紙を書き送るに当たって、「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気にいろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」(1:10)と書いています。かつて熱狂的ユダヤ主義者として生きていた頃は、人の気にいろうと懸命だった、自分を偽ったのでした。
本日の聖書日課のテーマは「生涯のささげもの」です。私は、それは何か立派なこととか、後に残るような行為ではないと思っています。いわんや、献金額でもありません。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」だと詩編(51)にあります。人であれ神であれ、ついつい誰かを意識してしまう私たち、なかなかありのままではいられず、どこかで偽ってしまいます。
私たちが生涯を通して、神さまにささげるものがあるとすれば、それは今日一日の心の点検、偽らないで生き得たかどうかではないでしょうか。私たち、全くのありのままを貫くことはとても難しいことです。欠点や汚点も含むからです。ただ、それで構わないと居直ることは、ちょっと違うでしょう。失敗したら悔いる。間違ったら修正する。その繰り返ししかありません。例え毎日でなくても、それでも「今日も大切なこと ひとつずつ ひとつずつ」をこなして、神さまにささげるのです。
天の神さま、すべてを御存じで、なお自由を下さる深い愛に感謝します。作らないで、偽らないで生きることができますよう、その生き方をあなたにささげる私たちとして下さい。