《本日のメッセージメモ》 思い込みや誤解で失敗を犯すことがあるが、多くは笑い話だ。だが、そこに悪意があり、人に向かう時、事態は緊迫する。 イエスの処刑を描く今日のテキストは、まさにその典型だ。二人の犯罪人を左右に、イエスを真ん中にした処刑の形で、処刑されて当然の雰囲気が意図的に醸し出された。教会暦最後のテキストに相応しくない感を受ける。 イエスの祈りを聞いてもなお、衣服をくじで分け合う人々だった。そして処刑を導いた議員たち、処刑を担当した兵士たち、犯罪人の一人までがあざけりとののしりを言う無残がそこに満ちた。 しかし、もう一人の犯罪人は、思い込みではなく事実を受け入れた。処刑で朦朧となった身の中で、彼の謙虚な願いをイエスは確かに聞いた。 この犯罪人にも、たった一つ思い込みがあった。自分の罪を思えば、イエスと一緒に天国には入れない。扉は閉まっているという思い込みだ。 だが、「あなたは今日わたしと一緒に(すでに)楽園にいる」とイエスは語った。楽園とは、素晴らしい庭園のことだ。犯罪人の喜びがどれほどであったか。 もう後がない時にも語られるイエスの招きの言葉。やはり教会暦最後にふさわしいテキストだった。つい、自分で扉を閉めた犯罪人の、「もしも」という展開を想像してみたくなる。 《メッセージ全文》 皆さん、自分の思い込みや誤解で失敗した経験はありませんか?きっと誰でも一つや二つはあるのではないでしょうか。かく言う私もあります。一つや二つではありません。結構あります。例えば押して入るドアを知らずに、懸命に引いても開かないので「閉まっている」と思い込んで諦めたことがあります。 一番ひどいのは、初めて自分のクルマを持った時のことです。車検が1年ほど残っている軽自動車を友人からもらったのです。ドアの内張りが取れていたりで、相当ボロボロでしたが、嬉しかったです。 ところが幾らギアをバックに入れても動かない。うんともすんとも言わない。もうてっきり壊れているのだと思い込んでしまいました。プッシュしたら入るだけの仕組みだったのに、そういうクルマのことを教習所で習いませんでした。 それで、バックする時は必ず友人を乗せて、押してもらっていました。その友人もクルマのことを何にも知らない人で、やっぱり壊れていると思い込んでか、余りのボロさに同情してか、いつも嫌な顔一つせずに押してくれました。今も感謝しています。と言うより、自分の思い込みで被害者を増やしてしまって、申し訳ない限りです。 まあそれでも、多分ほとんどの思い込みは、後で笑い話になる類ではないでしょうか。無知なだけで、そこに悪気はない訳ですから。でも、はっきり悪意の込められた思い込みは怖いです。しかもそれが人に向けられるとしたら、時に命に関わる重大な問題になります。 今日与えられたテキストは、まさにそういう事態が描かれていました。聖書日課に従って35節から読んでいただきましたが、本来は32節から始まる出来事であり、もう少し広げると、26節からの「十字架につけられる」と小見出しがつけられた箇所の一部ということになります。 まさしくイエスの処刑の出来事で、何だか収穫感謝の礼拝には相応しくない感じを受けます。32節から遡って読んで見ると、悲しくなってしまう事の連続です。イエスと一緒に二人の犯罪人が十字架刑に処せられたのです。この犯罪人たちは、きょうびの死刑の是非についてはさておいて、当時の定めに従って処刑が決まったのです。処刑という極刑ですから、相応の重い罪を犯した結果となりました。 この二人をどういう訳でか、一人を右に、一人を左にしたことがわざわざ記されています。つまり、3名の処刑の真ん中がイエスだったということ、これは意図的にそうされたに違いないのですが、これは視覚的に大きな影響がありました。処刑されても仕方がない二人に挟まれて、当然真ん中のイエスも同じような存在だと思わせる効果が大いにあったことでしょう。 ここでイエスは自分が何をしているのか知らないのです、と彼らを、すなわちこの形で十字架刑を実行した人たちを神に赦すよう、祈りの言葉(34節)を口にしています。しかし、事はどんどんひどい方向に進みました。このイエスの言葉を聞いてもなお、人々はくじを引いてまで、イエスの服を分け合った(34節)というのです。 処刑されるからには、極悪人という思い込みの悪意が、刑場に満ちていました。そこからは嘲笑と侮蔑の繰り返しが始まりました。議員たちは、あざ笑って言った(35節)。兵士たちも侮辱して言った(36節)。そしてあろうことか、犯罪人の一人がののしった(39節)、と続いて行きます。 議員たちがあざ笑った、と訳されている原語は、直訳すれば「鼻にしわを寄せる」という意味で、とても具体的な表現です。岩波書店版聖書では、「指導者たちも鼻にしわを寄せて繰り返し言った」と訳されています。 このように現実に死刑を導いた議員たち、十字架刑を直接担った兵士たち、そして一緒に十字架刑につけられた犯罪人までもが一緒になって、イエスをあざ笑い、侮辱して言ったことは、「自分を救ってみよ」という一点でした。選ばれた者、メシアなら、救い主なら、王なら、この惨めな十字架刑の惨状から自力で抜け出てみせろ、という事に尽きたのです。出来る訳ないだろうという結論が透けて見えます。 悪者だから極刑になって当然という、思い込みの世界がありました。それだけでなく、彼らには王とか救い主とかに対する思い込み=人間やこの世の業を力で超えるイメージでいっぱいでした。しかもそれを信じてはいないのです。 兵士たちが酸いぶどう酒をイエスに突き付けたとあり、ユダヤ人の王と書かれた札がイエスの頭上につけられていたことは、恐らく兵士たちが酒を飲みながらの状況があり、ユダヤ人に対する差別感も込められていたと思われます。「ハンコを押すだけ」と発言して更迭された法務大臣より、更にひどい職務態度であり、人権感覚だったのです。 そもそも、十字架刑は見せしめのための極刑です。すぐ死なないよう、時間をかけて失血死させる、その姿を民衆に見せつける処刑の方法でした。手足を釘で打ち付けるのですから、される方は想像を絶する痛みが伴います。意識も朦朧とするでしょう。そういう状態なのに、犯罪人の一人はイエスをののしったという、本当に救いようのない思い込みを悲しく思わずにはいられません。自分のついた嘘を、真実、正義だと思い込む思い込みもあったかもしれません。 とりわけ、事の成り行きを見ていた人々が気にかかるのです。35節には、「民衆は立って見つめていた」とあります。議員たちや兵士たち、犯罪者の一人までもが悪意の思い込みで、罵りの言葉をかける中で、民衆からの言葉は何も記されていません。 彼らもまた、死刑は当然で、本当にメシアなら自分を救ってみよ、という思いだったのでしょうか。下手に意見など言えるはずはないにしても、いかにも周囲の無言のうちにあざ笑いと罵りが充満して行く恐ろしい光景を想像するものです。 けれども、実はそこにいた皆が知っていました。極刑を受けるほどの罪が、イエスには何一つないということです。正しい取り調べなど行われなかったということもです。正規の手続きをしないで死刑とされたこともです。自分勝手な思い込みから、ほんの少し離れてみれば、厳然とした事実がそこにありました。 そして幸いにも、思い込みによらないで、自分の目で事実を捕えた人が、一人いたのです。それが処刑されたもう一人の犯罪人でした。この人もまた苦痛に喘いでいる中でしたが、イエスをののしるもう一人を諫めて、「この方は何も悪いことをしていない」(41節)と語ったのです。 更には、「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」とイエスに願いました。自分が犯した罪については率直に認めている通りですから、「あなたの御国に一緒に連れて行って下さい」などとは言えなかったのです。そんな資格はないと思ったのでしょう。実は、この人もたった一つ、御国についての思い込みがありました。 イエスも苦痛に喘ぐ中にあって、この人の切なる願いを確かに聞き届けました。だから「はっきり言っておく」と前置きしたのです。そして「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言葉を続けたのです。犯罪人には、いつの日かという思いがあったでしょうが、イエスはいつの日かではなく「今日」と語りました。「アーメン、私はあなたに言う、あなたは今日すでに、私と共に楽園にいるだろう」、これが岩波書店版聖書の43節の訳です。「すでに、いる」のです。 もはや刑は執行され、釘で打ち付けられ、血を流しながら、後は命の尽きるのを待つばかりの、全く後がない最悪の状況下でした。これから事態が逆転することなど、絶対ないのです。希望は一切ありませんでした。でもイエスは、「あなたはすでに一緒に楽園にいる」と語りました。 楽園とは、ギリシャ語・パラデイソスの訳ですが、もともとはペルシャ語に由来する言葉で、庭園という意味です。そんじょそこらのお庭ではありません。ガリラヤのイエシューでは、「野に花咲き乱れ、水辺の果樹は枝もたわわに実り、緑の木陰にウグイスがうたう、あの麗しいおひざ元のお庭」と訳しています。そのお庭で、今日お前さんは俺といっしょに、神さまの懐にしっかりと抱かれるのだ」とイエスの言葉が続きます。これは思い込みではなく、イエスによるパラダイスの偽りのない具体的なイメージです。そうなら、犯罪人にとって、これほどの喜びは他にはないでしょう。 自分は犯罪を犯した。罪人なのだから、イエスと天国に行く資格などはない、と彼は思い込んでいました。天の扉は自分には閉まっていると勘違いしたのです。開けてもらえるとしたら何かしら条件がいるとも思ったかもしれません。もうそんな条件は自分にはないとも感じたかもしれません。ところが、資格などないと告白するや、扉は閉められてはいないことを知らされました。扉は開けっ放しで迎えられたのでした。 もしも、の想像話をします。この時、ののしったりせず、「パラダイスに一緒にいる」と声かけられた犯罪人に、もう一人が「あんた良かったね。できたら俺もそこにいたいよ」とでも言ったとしたら、イエスは「いや、あなたも既に一緒にいるよ」と答えられたのではないでしょうか。残念ながら、彼は自分で扉を閉めてしまいました。 天の神さま、死の直前であっても希望を下さる救い主の姿を教えられました。天の扉は閉められておりませんでした。本当に感謝します。この希望と喜びに支えられて、次へと歩んで行きます。どうぞこれからも固くお導き下さい。